王家からの招集
春祭りから数日が経ち、屋敷には、いつもの穏やかな日常が戻っていた。エレノアは、トビアスへの指導を続けながら、帳簿の整理も、着実に進めていた。窓の外では、雪解け水が小さな川となって、畑の畦を潤していた。
「今年は、種まきも例年より早くできそうです」
トビアスが、記録をつけながら、嬉しそうに報告した。エレノアも、その報告を、丁寧に帳簿へと書き加えていった。穏やかな日々が、これからも続いていくのだと、疑いもなく感じていた矢先のことだった。
ある朝、屋敷に、これまでとは違う、格式張った封書が届いた。差出人は、王家の紋章が刻まれた、辺境伯家を統括する部署からのものだった。
普段、王家からの文書は、税収の報告や、境界線の確認といった、事務的な内容がほとんどだった。だが、その封書には、これまで見たことのない、重々しい蝋印が押されていた。
ガレスは、その封を切ると、しばらく黙って文面に目を通していた。眉間には、次第に深い皺が刻まれていく。
「何か、問題でも」
エレノアが尋ねると、ガレスは、少し険しい表情のまま、手紙を差し出した。
『辺境伯領の統治状況について、定例の視察及び報告を求める。あわせて、貴殿の婚姻に関する方針についても、王都にて改めて協議されたい』
その一文に、エレノアの胸に、小さな不安がよぎった。
「婚姻に関する方針、というのは」
「辺境伯家は、国境を守る要の家です。婚姻一つにも、周辺国との関係や、他の貴族家との均衡が絡んでくることがあります。……これまでも、そうした話が全くなかったわけではありません」
ガレスの説明に、エレノアは、静かに息を呑んだ。これまで、二人の関係は、あくまで個人的な問題だと思っていた。だが、辺境伯という立場は、そう単純な話では済まないのかもしれない。
「以前にも、そうした話が」
「私が代を継いだばかりの頃、隣国との緊張が高まった時期がありました。そのとき、王家の縁戚にあたる家から、私に縁談を持ちかける動きがあったのです。結局、当時はうやむやになりましたが」
「今回も、同じような話が」
「可能性は、十分にあります。国境の守りを固めるために、より有力な後ろ盾を持つ家との縁組みを望む声が、王都の一部にはあるのでしょう」
その説明に、エレノアは、自分たちの関係が、単なる二人の問題ではなく、国境の安定という、より大きな枠組みの中に置かれていることを、改めて実感した。
「その時は、どのように収まったのですか」
「隣国との緊張が、思いのほか早く和らいだこともあり、縁談の話も、自然と立ち消えになりました。……ですが、今回は、事情が違うかもしれません」
「違う、というのは」
「今回の招集は、私個人の婚姻方針について、名指しで言及されています。以前のような、漠然とした打診とは、重みが違います」
その説明に、エレノアの胸の不安は、さらに大きくなった。
「具体的には、どのようなことが」
「分かりません。ただ、こうした呼び出しは、大抵の場合、良い話ではありません。おそらく、私の婚姻相手として、もっと政治的に有利な家柄を、と考える向きがあるのでしょう」
その言葉に、エレノアは、これまで感じたことのない種類の緊張を覚えた。個人の気持ちだけでは、どうにもならない領域が、二人の未来に、影を落とし始めている。
「エレノア。心配しないでください。私の意志は、変わりません」
ガレスは、エレノアの手を、そっと握った。その手には、確かな力が込められていた。
「たとえ、王家がどのような意向を示そうと、辺境伯家の当主として、最終的に誰と婚姻を結ぶかは、私自身が決めることです。あなた以外の相手を選ぶことは、考えられません」
その力強い言葉に、エレノアは、少しだけ胸のつかえが軽くなるのを感じた。だが、その言葉だけで、不安がすべて消えるわけではなかった。国という大きな仕組みの前で、個人の意志が、どこまで通用するものなのか、エレノアには、まだ想像がつかなかった。
「いつ、王都へ向かわれるのですか」
「来月には、伺わなければならないでしょう。……エレノアも、一緒に来てほしいところですが、今回ばかりは、私一人で向かった方が良いかもしれません」
「なぜですか」
「まだ、正式な婚約という形になっていない今、あなたを表立って同行させれば、かえって、あらぬ憶測を呼ぶ可能性があります。まずは、私一人で、王家の意向を確かめてきます」
その判断は、これまでの彼らしい、慎重で誠実なものだった。だが、エレノアの胸には、拭いきれない不安が、静かに広がっていった。
「一人で、大丈夫ですか」
「大丈夫です。……とはいえ、あなたに何も伝えず、一人で抱え込むことは、もうしないと約束しましたから、こうして正直に話しています」
その言葉に、エレノアは、以前彼と交わした約束を思い出した。何か言いにくいことがあっても、曖昧にせず、正直に伝えてほしい。その約束を、彼はきちんと守ろうとしていた。
「分かりました。信じて、お待ちしています」
「王都から戻ったら、必ず、詳しい経緯をすべてお話しします。……それに、どのような話であれ、私の答えは、変わりません」
その言葉の力強さに、エレノアは、静かに頷いた。
夕食の席で、レジーナにもこの話を伝えると、彼女は珍しく、真剣な表情を見せた。
「王家からの呼び出し、というのは、確かに軽く見過ごせない話ですね」
レジーナは、しばらく考え込んでから、静かに続けた。
「以前にも、似たような話があったのを、覚えています。あのときのガレスは、まだ若く、周りに流されそうになっていました。でも、今のあの子は、違います。あなたと出会って、自分の意志で物事を決める強さを、以前よりずっと、身につけているように見えます」
「そう言っていただけると、少し心強いです」
「ですが」
レジーナは、一度言葉を切り、真剣な眼差しでエレノアを見た。
「王家や、周りの貴族たちの思惑は、個人の意志だけでは、どうにもならないこともあります。そのことは、覚悟しておいた方がいいでしょう」
その率直な忠告に、エレノアは、静かに頷いた。楽観だけでは済まされない現実が、そこにあることを、改めて突きつけられた気がした。
その晩、自室に戻ったエレノアは、手帳を開いた。
『王家から、婚姻方針についての呼び出しが届いた。来月、ガレス様が一人で王都へ向かうことになった』
書き終えて、エレノアは、しばらくペンを置いたまま、窓の外を見つめた。これまで、二人の関係を阻むものは、周囲の理解や、世間体だけだと思っていた。だが今、もっと大きな、個人の力では動かしがたいものが、静かに姿を現し始めていた。
これまでの道のりを、改めて振り返る。セドリックとの関係を終わらせたのは、自分の意志だった。ガレスとの想いを確かめ合ったのも、二人の意志だった。だが今回、立ちはだかろうとしているものは、これまでとは、まるで違う種類の壁だった。国家という、個人の感情など介在しない、巨大な仕組み。それを前にして、自分たちの想いが、どれほどの重みを持ちうるのか、エレノアには、まだ見当がつかなかった。
それでも、と、エレノアは思う。これまでも、目の前の困難から目を逸らさず、一つ一つ、自分にできることを積み重ねてきた。今回もまた、同じように、向き合っていくしかない。
手帳を閉じ、エレノアは、もう一度だけ、ガレスの言葉を思い返した。あなた以外の相手を選ぶことは、考えられません――その言葉の重みを、信じ続けることが、今、自分にできる、何よりも大切なことのように思えた。
窓の外には、春の柔らかな月明かりが、雪解けの進んだ大地を照らしていた。その穏やかな光とは裏腹に、エレノアの心には、これから訪れるかもしれない試練への、静かな緊張が、確かに芽生えていた。




