二十年の信頼
交渉の地となる町までは、馬車で半日の道のりだった。道中、ガレスは終始、書類に目を通しながら、これまでの取引の経緯を、改めて頭に入れ直していた。
「先方の商会主は、ダグラスという人物です。父の代から、長い付き合いがありました」
「長い付き合いだからこそ、今回のことが、余計に信じがたいのですね」
「ええ。……ですが、商いは、情だけでは成り立たない部分もあります。まずは、事実を確認することが先決です」
道中、馬車の中で、エレノアはこれまでの取引記録を、もう一度整理し直した。ガレスは、その様子を横目に見ながら、少し感心したように言った。
「毎回、そうやって、事前に準備を怠らないのですね」
「準備をしておけば、いざというとき、慌てずに済みますから。……これは、あなたから学んだことでもあります」
「私からですか」
「初めてお会いした夜、隣村の一件で、慌てず対応する準備をしていらっしゃいました。あの姿勢を、ずっと見習っています」
その言葉に、ガレスは少し照れくさそうに頭をかいた。
町に着くと、商会の建物は、活気に満ちていた。羊毛を積んだ荷車が、次々と出入りしている。案内された応接室で、ダグラスという初老の男が、二人を迎えた。
「ヴォルグレイブ卿。お忙しい中、わざわざのお運び、恐れ入ります」
その言葉には、どこか居心地の悪さが滲んでいた。
「単刀直入に伺います。契約打ち切りの申し出、その理由をお聞かせいただけますか」
ガレスの問いに、ダグラスは、しばらく言葉を濁した。応接室には、気まずい沈黙が流れる。壁にかけられた古い商会の看板が、二十年の歴史を物語っていた。
エレノアが静かに帳簿を取り出すと、その様子が変わった。
「実は、こちらの帳簿によれば、この二か月、貴商会からの発注量が、目に見えて減っております。それと時を同じくして、南方の別の産地からの仕入れが、増えているとも伺いました」
エレノアの淡々とした指摘に、ダグラスは、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「……お耳が早い」
「隠すおつもりだったのですか」
ガレスが静かに問いただすと、ダグラスは、深くため息をついた。
「実は、南方の商会から、破格の値で買い取るという申し出がありました。品質は、正直、ヴォルグレイブ領のものには及びません。ですが、目先の利益に、目が眩んでしまいまして」
その告白に、ガレスは黙って頷いた。責めるより先に、事実を淡々と受け止める、いつもの態度だった。
「率直にお話しくださり、感謝します。……とはいえ、正直、寂しい思いもあります。父の代から、二十年もの付き合いだったのですから」
「面目次第もございません」
ダグラスは、深く肩を落とした。その様子には、狡猾さよりも、目先の利益に判断を曇らせてしまった、一商人としての未熟さが滲んでいた。
「品質が及ばない、というのは、具体的には」
エレノアが尋ねると、ダグラスは、手元の見本を取り出した。繊維の質、色合い、どれもヴォルグレイブ領の羊毛に比べると、明らかに粗が目立った。
「南方のものは、織物に加工した際、糸切れが多いのです。安く仕入れても、加工の手間と不良品の分を考えると、実際には、割高になっているのではありませんか」
エレノアは、持参してきた数字を示しながら、冷静に指摘した。過去数年の不良品率、加工にかかる手間賃、そして最終的な製品の売値。それらを並べて見せると、ダグラスの表情が、次第に変わっていった。
「ここ三年の平均で見ますと、ヴォルグレイブ領の羊毛を使った製品は、不良率が一割に満たない一方、南方の産地のものは、三割近くに上ります。仕入れ値の差額を考慮しても、最終的な採算は、決して南方産の方が良いとは言えないはずです」
エレノアが淡々と数字を並べていく様子に、ダグラスは何度も帳面を覗き込み、自分の記憶と照らし合わせているようだった。
「……そう言われると、確かに。目先の仕入れ値ばかりに気を取られていました」
「もちろん、最終的なご判断は、そちらにお任せします。ですが、長期的に見れば、多少値が張っても、安定した品質を選ぶ方が、結局は商いの信用を守ることにつながるのではないでしょうか」
ガレスも、静かに言葉を添えた。
「ダグラス殿。私も、父の代からの付き合いを、簡単に手放したくはありません。無理にとは申しませんが、今一度、ご検討いただけないでしょうか」
長い沈黙のあと、ダグラスは、居住まいを正した。
「ヴォルグレイブ卿。エレノア様。……お恥ずかしい限りです。目先の利益に惑わされ、二十年の信頼を、危うく手放すところでした」
そう言うと、深く頭を下げた。
「以前の条件で、契約を継続させていただきたく」
その結果に、ガレスは安堵の表情を見せた。エレノアも、静かに胸を撫で下ろした。
「今後、こうした行き違いがないよう、四半期ごとに、双方で数字を確認し合う機会を設けてはいかがでしょうか」
エレノアの提案に、ダグラスは大きく頷いた。
「それは、良い案です。私も、こちらの帳簿の付け方を、少し見習わせていただきたいくらいです」
その言葉に、エレノアは小さく微笑んだ。一つの危機が、こうして新しい仕組みを生む機会にもなる。実務の積み重ねが、確かな信頼を築いていく過程を、改めて実感する瞬間だった。
帰りの馬車の中、日が傾き始めた空を見ながら、ガレスがぽつりと言った。
「エレノアがいなければ、感情論だけで、押し切られていたかもしれません」
「いいえ。あなたが、感情に流されず、事実を確かめようとしたからこそ、良い結果につながったのだと思います」
その言葉に、ガレスは小さく笑った。
「丘の上での続きを、話してもいいでしょうか」
その一言に、エレノアの心臓が、大きく跳ねた。だが同時に、御者の存在を思い出し、少し落ち着かない気持ちにもなった。
「……ここでは、少し、話しにくいかもしれません」
「そうですね。……では、屋敷に戻ってから、改めて」
「今度は、邪魔が入らないと、よろしいのですが」
エレノアがそう言うと、ガレスは声を立てて笑った。これまで、あまり見たことのない、屈託のない笑い方だった。
「そうですね。今度こそは」
その返事に、二人は互いに小さく笑い合った。焦る必要はない。むしろ、この宙ぶらりんな時間そのものが、これまでにない甘やかな緊張を、二人の間にもたらしていた。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
エレノアが尋ねると、ガレスは頷いた。
「丘の上で、何を仰ろうとしていたのか。今、少しだけでも、教えていただけませんか」
その問いに、ガレスは少し驚いた様子を見せたが、やがて、穏やかに笑った。
「今、少しだけ話してしまったら、屋敷に戻ってから話す言葉が、色褪せてしまう気がします。……もう少しだけ、待っていただけますか」
その答えに、エレノアは小さく頷いた。急かすつもりはなかった。ただ、その言葉を待つ時間そのものが、これまでにない甘やかさを伴っていることに、自分でも驚いていた。
屋敷が近づくにつれ、窓の外には、すっかり夕暮れの色が広がっていた。今日という一日の成果と、まだ答えを待つ言葉の両方を抱えながら、エレノアは静かな高揚とともに、帰路を過ごしていた。
屋敷に着くと、レジーナが玄関先で二人を出迎えた。
「お帰りなさい。……あら、随分と、良いお顔をしていらっしゃること」
「商会との話は、無事にまとまりました」
エレノアがそう報告すると、レジーナは満足げに頷いた。
「それは何より。でも、私が言っているのは、仕事の話だけではありませんよ」
その一言に、エレノアとガレスは、思わず顔を見合わせた。レジーナは、それ以上追及することなく、軽やかな足取りで屋敷の中へと戻っていった。
「レジーナ様には、敵いませんね」
エレノアが苦笑すると、ガレスも同じように笑った。
「本当に。……でも、あの人がいてくれるおかげで、この屋敷は、随分と温かい場所になっています」
その言葉に、エレノアも深く頷いた。仕事の成果と、まだ言葉にならない想いと、そしてこの屋敷で出会った人々との温かい繋がり。それらすべてが、今のエレノアの日々を、確かな手応えのあるものにしていた。




