言いかけた言葉
雪解けが本格的に進んだ、ある晴れた朝、ガレスがエレノアに声をかけた。
「今日、墓参りに行こうと思います。良ければ、ご一緒に」
「はい。ぜひ」
二人は、レジーナに留守を任せ、屋敷の裏手から続く小道を、丘に向かって歩き始めた。雪はまだところどころに残っていたが、足元には、春の気配を告げる、柔らかな土の匂いが漂っていた。
「レジーナ様は、ご一緒しなくてよろしいのですか」
エレノアが尋ねると、ガレスは少し困ったように笑った。
「毎年、誘うのですが、断られるんです。『若い二人の邪魔はしませんよ』と言って」
その言葉に、エレノアは思わず頬が熱くなった。レジーナの気の回しように、今更ながら気づかされる。
道々、ガレスは、この土地に伝わる雪解けの言い伝えや、丘に咲く花の名を、ぽつりぽつりと語ってくれた。堅苦しい説明ではなく、まるで、大切な記憶を分け合うような、静かな語り口だった。
丘の上には、二つの質素な墓標が並んでいた。装飾らしい装飾もない、簡素な石だった。ガレスは、持参した花を、静かに墓前に供えた。
「父上、母上。今年も、来ることができました」
その声は、いつもの落ち着いた口調とは少し違う、柔らかな響きを帯びていた。
「この方は、エレノアといいます。……この数か月、色々な形で、私を助けてくださっています」
その紹介に、エレノアは思わず息を呑んだ。単なる仕事仲間としてではなく、両親の墓前で、はっきりと名前を告げられる。それがどれほどの意味を持つのか、深く考えずにはいられなかった。
「私も、ご挨拶させていただきます」
エレノアは、墓標の前に膝をつき、静かに手を合わせた。会ったことのない二人だが、その人柄の一端は、ガレスの言葉の端々から、すでに感じ取っていた。領民の名を覚えていた父、よく笑っていた母。その血を継いだ人が、今、隣にいる。
「お二人が、ガレス様を、立派にお育てになったのだと、よく分かります」
エレノアがそう呟くと、ガレスは驚いたように振り返った。
「……そう言っていただけると、嬉しいです。正直、自分では、まだまだだと思うことばかりですが」
「誰だって、そうだと思います。それでも、ここまで領地と領民を守ってこられたことは、決して当たり前のことではありません」
その言葉に、ガレスは静かに目を伏せた。感情を噛み締めるような、長い沈黙だった。
しばらくの沈黙のあと、ガレスがぽつりと口を開いた。
「両親が亡くなってから、ずっと、誰にも弱いところを見せてはいけないと思ってきました。領主として、若輩者だと侮られないように、常に気を張っていなければならないと」
「それは、随分と、長い間の緊張だったでしょうね」
「ええ。……でも、最近は、少し違います」
ガレスは、そこで言葉を切り、丘の下に広がる領地を見渡した。
「あなたが来てから、弱いところを見せても、大丈夫なのだと、思えるようになりました。帳簿の間違いを指摘されても、恥ずかしいと思うより先に、助かった、と思える。そういう相手が、これまでいませんでした」
その告白に、エレノアの胸が、静かに高鳴った。
「私も、同じです。あなたと過ごす時間の中で、これまで感じたことのない安心を、覚えています」
「エレノアにとって、それは、どのような安心なのでしょうか」
その問いに、エレノアは少し言葉を選びながら答えた。
「これまで、誰かの隣にいるとき、いつも自分が何かを我慢したり、調整したりする側でした。でも、あなたの隣にいると、そうした構えが、必要ないのだと感じます。対等に、正直でいられる」
その答えに、ガレスは深く頷いた。
二人の間に、しばらく穏やかな沈黙が流れた。風が、丘の上の草を、静かに揺らしている。ガレスが、何かを言おうとするように、口を開きかけた。
「エレノア。私は……」
その言葉の続きを、エレノアは息を詰めて待った。だが、その瞬間、丘の下から、慌ただしい足音が近づいてきた。
「旦那様! 大変です、王都から、火急の使いが!」
息を切らした若い使用人が、丘を駆け上がってくる。ガレスは、言いかけた言葉を飲み込み、表情を切り替えた。
「何事だ」
「王都の商会から、契約に関わる緊急の書状が届いております。すぐにご確認いただきたいと」
その知らせに、ガレスは一瞬、悔しそうな表情を見せたが、すぐに領主としての顔に戻った。
「分かった、すぐに戻る」
エレノアも、慌ただしく立ち上がった。丘を下りながら、先ほどガレスが言いかけた言葉が、まだ胸の中に、宙ぶらりんのまま残っていた。
屋敷に戻ると、書状の内容は、思いのほか深刻なものだった。以前、価格の据え置きで話がまとまったはずの取引先の商会が、突如として契約の打ち切りを申し出てきたという。
「理由は」
「詳しくは書かれていませんが……どうやら、別の商会と、より有利な条件で話を進めているようです」
ガレスの表情が、みるみる険しくなった。この商会との取引は、領地の羊毛産業の柱の一つだった。
「これまでの経緯を、もう一度整理しましょう」
エレノアは、すぐに帳簿を広げ、これまでの取引量、価格交渉の記録、そして今回の打ち切りの通知が届いた時期を、時系列に並べていった。
「据え置きの合意をしたのは、二か月前です。その直後から、あちらとの連絡の頻度が、少しずつ減っていました」
「……気づきませんでした」
「私も、今、記録を見返して気づいたところです。おそらく、その頃から、別の商会との話が、水面下で進んでいたのでしょう」
ガレスは、その分析に、感嘆と苦々しさの入り混じった表情を浮かべた。
「エレノアがいなければ、この兆候にすら、気づけなかったかもしれません」
エレノアは、これまでの帳簿を急いで取り出し、過去の取引記録に目を通し始めた。丘の上での時間は、ひとまず、心の奥にしまっておかなければならなかった。だがその代わりに、目の前の危機に、これまで培ってきた力を尽くすことができるという実感が、エレノアの中に、新たな覚悟を芽生えさせていた。
「打ち切りを、このまま受け入れるおつもりですか」
「いや……。まずは、先方に直接、事情を確認しに行こうと思います。手紙のやり取りだけでは、真意が見えません」
「私も、同行させていただけますか。数字の話であれば、お力になれるかと」
ガレスは、少し驚いたように、エレノアを見た。
「危険はありませんが、決して楽な交渉にはならないでしょう」
「承知しています。それでも、ここで手をこまねいているより、できることをしたいのです」
その申し出に、ガレスは静かに頷いた。
「では、明後日、共に向かいましょう」
その夜遅くまで、二人は交渉に向けた資料を整理し続けた。丘の上で交わされかけた言葉のことは、どちらも口にしなかった。だが、隣り合って書類を繰る手元に、これまでとは違う、確かな距離の近さがあった。
夜も更けた頃、レジーナが茶を運んできて、二人の様子を見て、意味深に微笑んだ。
「随分と、根を詰めていらっしゃるのね。でも、悪くない顔をしていますよ、お二人とも」
その言葉に、エレノアもガレスも、何も言い返せなかった。
レジーナが部屋を出ていったあと、しばらくの沈黙が続いた。ガレスが、書類から顔を上げ、エレノアを見た。
「エレノア。……丘の上で、言いかけたことなのですが」
エレノアは、手を止め、静かに彼の言葉を待った。だが、ガレスは、少し迷うような表情を見せたあと、静かに首を振った。
「いえ、やはり、今は言うべきではないかもしれません。商会との話が片付いてから、改めて」
「……分かりました」
その返事に、落胆がなかったと言えば嘘になる。だが同時に、彼が、大切な言葉を、きちんとした形で伝えようとしていることも、エレノアには伝わっていた。今は、目の前の仕事に、共に向き合うことの方が、大事だった。
「では、明後日の交渉に、しっかり備えましょう」
エレノアがそう言うと、ガレスは、ほっとしたように頷いた。二人は、それからしばらく、黙々と資料の整理を続けた。
深夜近くになって、ようやく作業が一段落した。エレノアは自室に戻り、手帳を開いた。
『墓参りの帰り、商会打ち切りの急報。ガレス様、言いかけた言葉を、交渉が終わるまで持ち越すと仰った』
書き終えて、エレノアは小さく息をついた。宙に浮いたままの言葉のことを思うと、落ち着かない気持ちもある。だが、今はその答えを急ぐよりも、目の前の課題に向き合う方が、二人にとって大事なことのように思えた。
窓の外では、丘の上の墓標が、月明かりに、静かに照らされていた。言いかけた言葉の続きは、まだ誰も知らないまま、宙に浮いていた。




