一緒に行ってもいいですか
翌朝、エレノアはいつも通り仕事部屋に向かったが、これまでとは少し違う心持ちで、机に向かった。昨夜の手帳の一文が、まだ胸の奥に、温かく残っていた。
だが、その感情を顔に出すわけにはいかない。まずは、目の前の仕事を、これまで通りきちんとこなすことが先決だった。
「おはようございます。今日は、少し大きな話をしたいのですが」
朝食の席で、エレノアが切り出すと、ガレスは興味深そうに顔を上げた。
「大きな話、というのは」
「今の帳簿の整理が一段落したら、この仕組みを、次の代の文官にも引き継げるようにしておきたいのです。私一人が把握しているだけでは、いずれまた、以前のような混乱に戻ってしまいます」
「なるほど……。具体的には」
「若い使用人の中から、数字に強い者を一人か二人選んで、記録の付け方を一から教えていく。時間はかかりますが、長い目で見れば、その方が確実だと思います」
「エレノア自身は、いつまでも、ここにいてくれるわけではありませんから」
その一言に、エレノアは一瞬、言葉に詰まった。ガレスも、自分の言葉の意味に気づいたのか、少し気まずそうに視線を逸らした。
「……いえ、そういう意味ではなく。仕事として、どんな形であれ、長く続く仕組みを作っておくべきだという、一般論として」
「分かっています。私も、同じことを考えていました」
その場は、それ以上深く踏み込まずに済んだ。だが、その短いやり取りの中に、これまでとは違う緊張感が、確かに漂っていた。
ガレスは、しばらく考えたあと、深く頷いた。
「良い案だと思います。……エレノアは、いつも先のことまで見据えている」
「あなたが、村の道具の手配一つにも、先を見て動いていらっしゃるのを、見習っているだけです」
その言葉に、ガレスは少し照れくさそうに笑った。
その日の午後、二人は候補となる若い使用人の一人、トビアスという青年に話を聞くため、屋敷の裏手にある納屋へと向かった。トビアスは、荷運びの合間に数字の計算を頼まれることが多く、几帳面な性格で知られているという。
道すがら、ガレスが補足するように言った。
「トビアスは、村の出身なんです。両親が亡くなって、身寄りがなくなったところを、うちで引き取りました。手先が器用で、計算にも強い。私が見込んでいる若手の一人です」
「あなたご自身と、少し重なるところがあるのですね」
その指摘に、ガレスは一瞬、驚いたような顔をした。
「……そうかもしれません。気づいていませんでした」
その素直な反応に、エレノアは小さく微笑んだ。
「僕なんかが、そんな大事な役目を」
トビアスは、最初こそ戸惑っていたが、エレノアが丁寧に、これまでの記録の意義を説明すると、徐々に前のめりになっていった。
「やってみます。……旦那様のお役に立てるなら」
その素直な返事に、エレノアは小さな手応えを感じた。自分が始めたことが、こうして次の世代に受け継がれていく。その実感は、これまでの人生では、あまり味わったことのないものだった。
「今日から、少しずつ教えていくわ。まずは、月ごとの記録の見方から」
「よろしくお願いします、エレノア様」
「様、はいらないわ。ここでは、皆と同じように接してもらえたら嬉しいの」
トビアスは驚いた様子だったが、すぐに嬉しそうに頷いた。屋敷の外れで、こうして少しずつ、自分の居場所が広がっていく感覚を、エレノアは静かに噛み締めていた。
納屋を出ると、ガレスがふと足を止め、遠くの丘を見つめた。
「あの丘の上に、両親の墓があります」
思いがけない話に、エレノアは静かに耳を傾けた。
「毎年、雪解けの頃に、花を手向けに行くんです。……今年も、そろそろその時期です」
「ご両親は、どのような方だったのですか」
エレノアが尋ねると、ガレスは、遠くを見るような目をした。
「父は、寡黙で、あまり多くを語らない人でした。でも、領民一人一人の名前を、すべて覚えていました。母は、逆に朗らかで、よく笑う人でした。二人とも、流行り病であっという間に……。私が十二の頃です」
「それから、お一人で」
「ええ。最初の数年は、正直、何をどうすればいいのか、まったく分かりませんでした。年上の家臣たちに助けられながら、少しずつ、見様見真似で覚えていったんです」
その話しぶりには、悲壮感よりも、静かな諦観と、それを乗り越えてきた者だけが持つ落ち着きがあった。
「ご一緒しても、よろしいですか」
エレノアがそう尋ねると、ガレスは少し驚いたように目を見開いた。
「……迷惑でなければ、ぜひ」
「迷惑なはずがありません。あなたにとって、大切な場所なのでしょう」
ガレスは、それ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。だがその表情には、これまで見たことのない、柔らかな安堵があった。
「これまで、墓参りには、いつも一人で行っていました。レジーナに誘われたこともありますが、どうしても、断ってしまって」
「なぜですか」
「……分かりません。誰かと一緒だと、悲しみに向き合う時間が、薄まってしまうような気がして。でも、今は、少し違う気がします」
その言葉の意味を、エレノアは深くは尋ねなかった。ただ、彼が自分から差し出してくれたその一歩を、大切に受け止めたいと思った。
夕方、屋敷に戻ると、王都の父から手紙が届いていた。
『息災に過ごしているか。こちらは変わりない。……セドリック君は、あの後、モンド男爵家の経営を手伝う形で、身の振り方を模索しているそうだ。侯爵家との縁も、以前ほど深く関わることはなくなったと聞く』
その一文に、エレノアは複雑な感情を覚えた。彼が、自分なりの新しい道を見つけようとしていることに、安堵に似た気持ちがあった。もう、その人生の行く末を、自分が背負う必要はない。それでも、かつて婚約者だった人の消息に、まったく無関心ではいられない自分もいた。
手紙には、リリアーヌについても、短く触れられていた。
『モンド男爵嬢は、先日、遠縁の商家の子息との縁談が進んでいるそうだ。男爵の療養も落ち着き、家族で穏やかに過ごしているらしい』
その知らせに、エレノアは静かに安堵した。誰も悪くなかったあの一件が、それぞれの形で、少しずつ落ち着き先を見つけている。そのことが、素直に喜ばしく思えた。
手紙の最後には、短く、こう書き添えられていた。
『お前が、そちらで健やかに過ごしているようで、何よりだ。焦らず、自分のための時間を過ごしなさい。……マーサからも、時折、様子を知らせてもらっている。息災であることは聞き及んでいるが、お前自身の言葉でも、また聞かせてほしい』
その言葉に、エレノアは静かな安心を覚えた。
自室に戻り、手帳を開く。今日の出来事を書き留めながら、エレノアはふと、明日からの日々が、これまで以上に楽しみに感じられることに気づいた。丘の上の墓参りも、トビアスの成長も、そして自分の中に芽生えた感情も、すべてが、ゆっくりと同じ方向へ流れ始めているような気がした。
『トビアスに記録の付け方を教え始めた。ガレスから、ご両親のことを聞いた。誰かと一緒に墓参りに行くのは初めてだと言っていた』
書き終えて、エレノアはしばらく、その一文を見つめていた。彼が、これまで一人で抱えてきた悲しみの場所に、自分を招き入れてくれた。それは、言葉にされた愛の告白ではなかったが、それに劣らないほどの、大きな意味を持つ出来事のように思えた。
セドリックとの関係では、こうした深い場所に、互いに踏み込むことは、ついになかった。表面的な優しさや、義務としての気遣いはあっても、相手の傷や弱さに、真正面から向き合うことは、双方とも避けてきたのかもしれない。今、ガレスとの間に生まれつつあるものは、そうした表面的な関係とは、根本から違っていた。
墓参りの約束は、雪解けが本格的に進む頃、ということになった。まだ日取りは決まっていない。だが、その約束があるというだけで、これからの日々に、一つの目印が刻まれたような気がした。
窓の外では、まだ厚い雪の下から、わずかに土の色が覗き始めていた。長い冬の終わりが、少しずつ近づいていた。




