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幼馴染ばかり優先する婚約者はいりません。私は辺境伯と静かに暮らします  作者: ローナ


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これは、恋なのだと思う

到着から二週間ほどが過ぎた頃、屋敷に一通の招待状が届いた。差出人は、隣接する領地を治めるハーヴィー男爵家だった。


「来週、家族で挨拶に伺いたいとのことです」


朝食の席で、ガレスがその手紙をレジーナに見せると、レジーナは意味深な笑みを浮かべた。


「ハーヴィー男爵家というと、確か、年頃のご令嬢がいらっしゃったはずですわね」


その一言に、ガレスは露骨に顔をしかめた。


「レジーナ、また余計なことを」


「あら、余計なことではありませんよ。あなたも、もういい歳なのですから、こうした話に、少しは向き合ってもいいと思いますけれど」


その会話を、エレノアは黙って聞いていた。帳簿の書類をめくる手が、わずかに止まる。ハーヴィー男爵家の令嬢、という言葉が、思いのほか大きく耳に残った。


「シャーロット嬢とおっしゃったかしら。もう二十歳を過ぎていらして、そろそろご縁談を、とご両親も気を揉んでいらっしゃるとか」


レジーナは、まるでエレノアの反応を試すように、なおも話を続けた。


「気立ての良い方だと評判ですし、ガレスとも、幼い頃から顔見知りだったはずですよ」


「……そうなのですね」


エレノアは、それ以上何も言わず、書類に視線を戻した。だが、文字を追うふりをしながら、頭の中では、まったく別のことを考えている自分がいた。


ガレスは、レジーナの追及を振り切るように、書類の束をエレノアの前に置いた。「今日の分の帳簿です」と言う声が、心なしか早口だった。


「エレノア、聞き苦しいところをお見せしました」


ガレスが気まずそうに言うと、エレノアは慌てて笑みを作った。


「いいえ、まったく。良いご縁があれば、めでたいことですから」


自分でも、その言葉が、少し早口すぎたことに気づいた。


その日一日、エレノアはいつも通り仕事に打ち込んだが、心のどこかに、小さな棘が刺さったような感覚が消えなかった。ハーヴィー男爵令嬢が、どんな人物なのか。ガレスが、その話をどう受け止めているのか。考えても仕方のないことだと分かっていても、思考が、そちらへ引き寄せられてしまう。


帳簿の数字を目で追いながら、同じ行を何度も読み返していることに気づき、エレノアは小さく自嘲した。仕事に集中できないなど、これまでの自分には、あまりなかったことだった。


「エレノアさん、今日はどこか、上の空のようですね」


夕方、書類を整理していると、レジーナが部屋を覗きにきて、からかうように言った。


「そんなことは……。少し、疲れているだけです」


「そうですか。まあ、疲れというのも、色々な種類がありますからね」


レジーナの意味深な物言いに、エレノアは何も言い返せなかった。


「エレノアさん。一つ、言わせていただいても?」


「……何でしょう」


「あなたが、何を気にしているのかは、大体察しがつきます。ですが、私から見れば、心配するだけ無駄な話ですよ」


「無駄、とは」


「ガレスがあなたと出会ってから、どれほど表情が明るくなったか。あの子自身は気づいていないでしょうけれど、傍から見ている者には、一目瞭然です」


その言葉に、エレノアは何と答えていいか分からず、曖昧に微笑むしかなかった。だが、その一言が、胸の奥に、静かな温もりとして残った。


約束の日、ハーヴィー男爵とその夫人、そして娘のシャーロットが、馬車で屋敷を訪れた。シャーロットは、明るい栗色の髪をした、はきはきとした話し方の令嬢だった。


「ヴォルグレイブ卿には、いつも領地の行事でお世話になっております」


シャーロットが如才なく挨拶をする様子を、エレノアは離れた場所から見守っていた。帳簿仕事の合間、給仕の手伝いを申し出たのは、単なる仕事熱心さだけが理由ではなかった。


「こちらは、帳簿仕事を手伝っていただいている、エレノア嬢です」


ガレスがそう紹介すると、シャーロットは興味深そうにエレノアを見た。


「まあ、女性が、そのようなお仕事を。素晴らしいですわ」


その言葉に、悪意は感じられなかった。純粋な感嘆のようだった。だが、エレノアの中には、素直に喜べない、複雑な感情が渦巻いていた。


「よろしければ、私にも、少し教えていただけませんか。女性が、こうした仕事に関わるのは、王都では珍しいのでしょう?」


シャーロットは、屈託なくそう尋ねてきた。エレノアは、努めて平静に答えた。


「珍しいと思います。ただ、数字と向き合う仕事は、性に合っていて」


「素敵ですわ。私も、家のことばかりでなく、何か手に職をつけてみたいと、常々思っておりましたの」


その素直さに、エレノアは思わず好感を抱きかけた。だが同時に、この明るく屈託のない令嬢が、ガレスの伴侶として迎えられる未来を、想像せずにはいられなかった。


食事が進むにつれ、話題は領地の運営や、周辺の交易の様子にも及んだ。ハーヴィー男爵は、隣接する領地の主として、ガレスの采配ぶりを、率直に褒め称えた。


「ヴォルグレイブ卿が代を継がれてから、この一帯の治安も、随分と落ち着いたものです。若くして、大したものだと、皆で話しております」


「過分なお言葉です。まだまだ、学ぶことばかりで」


ガレスの謙遜に、男爵はゆったりと笑った。


「謙虚なところも、また美点でしょう。だからこそ、そろそろ身を固められて、この地に安定をもたらしていただきたいものです」


歓談の間、ハーヴィー男爵は、それとなく縁談の話を切り出した。


「ヴォルグレイブ卿も、そろそろお身を固められては。娘も、卿の人柄を、かねてより存じ上げております」


その申し出に、ガレスは丁重に、しかし明確に答えた。


「ありがたいお話ですが、今は、領地の立て直しに専念したいと思っております。落ち着いた頃、改めてお話しできればと」


その返答は、拒絶とも、含みのある先延ばしとも取れる、外交的な言い回しだった。だが、ガレスがその言葉を口にする瞬間、視線がわずかに、エレノアのいる方向へ向いたことに、彼女は気づいた。気のせいかもしれない。だが、その一瞬の動きが、エレノアの胸に、これまでにない波紋を広げた。


男爵は、それ以上深追いすることなく、話題を領地の作物の話へと変えた。シャーロットも、特に落胆した様子は見せず、終始朗らかに会話に加わっていた。少なくとも、彼女自身が、強い恋心を抱いているようには見えなかった。それが、単なる社交上の見立てなのか、エレノアの願望混じりの観察なのか、自分でも判断がつかなかった。


来客が帰ったあと、屋敷には、束の間の静けさが戻ってきた。玄関先の片付けを手伝っていると、レジーナが、にんまりとした笑みを浮かべて近づいてきた。


「見ましたよ。ガレスが、あなたの方を見た瞬間を」


「……気のせいだと思います」


「あら、私の目は、そう節穴ではありませんよ」


エレノアは、それ以上答えず、片付けに集中するふりをした。だが、頬が熱くなるのを、隠しきれなかった。


「エレノアさん。今日、シャーロット嬢のことで、少し心が乱れたのではありませんか」


図星を指され、エレノアは思わず手を止めた。


「……分かりやすかったでしょうか」


「長年、人を見てきましたから。でも、それは、悪いことではありませんよ。自分の気持ちに、正直になるのは」


その言葉に、エレノアはしばらく黙り込んだ。自分でも、まだ整理できていない感情を、他人にはっきりと言い当てられることの、恥ずかしさと、同時に訪れる、小さな解放感があった。


夕食の後、エレノアは自室に戻ってから、手帳を開いた。今日の出来事を書き記そうとして、いつものような淡々とした記録とは違う言葉が、自然と手から零れ落ちた。


『ハーヴィー男爵令嬢のことを聞いて、落ち着かない気持ちになった。これは、嫉妬というものなのだろうか』


そこまで書いて、エレノアは自分の書いた文字を見つめ、小さく息を吐いた。これまで、誰かに対して、こうした感情を抱いたことはなかった。セドリックとの関係では、覚えのない感覚だった。


婚約者だったはずの相手に対して、これほど心を波立たせたことは、一度もなかった。彼が幼馴染と過ごす時間に、苛立ちや失望を覚えたことはあっても、今日のような、胸の奥がざわつくような、落ち着かない感覚とは、明らかに違う種類のものだった。


その違いに気づいた瞬間、エレノアは、これまで漠然と感じていたものに、ようやく輪郭を与えることができた気がした。セドリックへの感情は、義務感と、積み重ねてきた時間への情によるものだった。だが今、ガレスに対して抱いているのは、もっと単純で、もっと切実な、名前のはっきりした感情だった。


『これは、恋なのだと思う。今更ながら、認めることにする』


その一行を書き終えると、エレノアは、これまでずっと胸の奥に押し込めていた何かが、ようやく解き放たれたような、不思議な軽さを覚えた。


窓の外には、夕暮れの光が、雪原に長い影を落としていた。まだ、誰にも言葉にしていない。だが、その感情そのものは、もう見なかったことにできないほど、はっきりとした形を持ち始めていた。

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