エレノアと、ガレスと
ヴォルグレイブ領に着いたのは、旅立ちから四日後の昼過ぎだった。前回の訪問のときと同じ屋敷が、今度は「滞在先」ではなく「これから働く場所」として、エレノアの前に立っていた。
出迎えたのは、ガレスだけではなかった。その隣に、上品な身なりの初老の女性が立っていた。
「エレノア嬢、ようこそ。こちらは、私の父方の遠縁にあたる、レジーナと申します。しばらくの間、屋敷のことを取り仕切ってもらっています」
「レジーナ・ヴォルグレイブと申します。ガレスから、お噂はかねがね伺っておりました」
レジーナは、穏やかな笑みを浮かべながらも、値踏みするような鋭さを、その目の奥に宿していた。エレノアは、丁寧に礼を返した。
「エレノア・フォスターと申します。このたびは、お世話になります」
「フォスター、ではなく……もう、お名前だけで結構ですわ。婚約は解消されたと伺っておりますから」
その率直な物言いに、エレノアは一瞬たじろいだ。だが、そこに悪意は感じられなかった。むしろ、余計な気遣いを省いた、実務的な態度だった。
「レジーナ様は、こちらには長くいらっしゃるのですか」
「もう十年になりますかしら。夫を亡くしてから、行く当てもなくて、ガレスの父の代からお世話になっています。年寄りの一人暮らしより、こうして誰かの役に立っている方が、性に合っていますから」
そう言って、レジーナは軽やかに笑った。飾らない笑い方に、エレノアは思わず好感を抱いた。
屋敷の中は、以前訪れたときよりも、さらに細やかな手入れが行き届いているように感じられた。廊下の隅々まで塵一つなく、暖炉には絶えず火が入れられている。屋敷の中を案内されながら、レジーナは淡々と説明を続けた。
「あなたのお部屋は、こちらです。仕事場は、書庫の隣の小部屋を使っていただきます。食事の時間、洗濯物の出し方、湯浴みの順番。この屋敷の決まりごとは、追い追いお教えします」
「よろしくお願いいたします」
「一つだけ、先に申し上げておきます」
レジーナは、足を止め、エレノアを正面から見据えた。
「ガレスは、良い領主です。ですが、いささか自分のことを後回しにする質でしてね。あなたがここに来ることを、彼がどれほど楽しみにしていたか、あなたはご存じですか」
「……いいえ」
「知らなくて結構です。今、知る必要はありませんから。ただ、覚えておいてくださいな。ここでの日々は、単なる仕事の話だけでは、済まないかもしれません」
その言葉に、エレノアはすぐには答えられなかった。レジーナは、それ以上何も言わず、また歩き出した。
廊下を進みながら、レジーナは思い出したように付け加えた。
「あの子は、昔からそうなんです。自分のことは後回しにして、領地のことばかり。両親を亡くしてから、誰かに甘えるということを、すっかり忘れてしまったみたいで」
「甘える、とは」
「頼ること、といってもいいかもしれません。あなたに帳簿の仕事を頼んだのも、あの子にとっては、随分と勇気のいることだったと思いますよ。誰かに頼る、という選択肢を、自分に許すことですから」
その話を聞きながら、エレノアは、これまでのガレスとのやり取りを思い返していた。几帳面な手紙、村での的確な差配、いつも冷静な判断。その裏に、こうした孤独があったのだと思うと、これまでとは違う角度から、彼という人を見つめ直す気持ちになった。
案内された仕事部屋には、これまでの帳簿や書類が、几帳面に整理されて積まれていた。窓からは、雪をかぶった畑が見渡せる。
「まずは、これまでの記録に一通り目を通していただけますか。分からないことがあれば、遠慮なく」
ガレスがそう言うと、エレノアは頷いて、早速書類を手に取った。数字の羅列を追いながら、ここに来た意味を、改めて実感した。誰かの都合に合わせるためではなく、自分の能力を、必要とされる場所で使うために、ここにいる。
書類を繰っていくうちに、いくつか気になる点が見つかった。同じ品目の仕入れ値が、月によって記載の仕方が異なっていたり、担当者ごとに単位の表記が揺れていたりする。
「この辺り、記載の形式を統一した方が、後で見比べやすくなると思います」
エレノアがそう指摘すると、ガレスは書類を覗き込み、感心したように頷いた。
「言われてみれば、その通りです。文官が何人か入れ替わった時期があって、それぞれのやり方が、そのまま残ってしまったのでしょう」
「少しずつ、整えていきましょう。急ぐことではありませんから」
その一言に、ガレスは小さく笑みを浮かべた。急がなくていい、と言われることが、彼にとっては、思いのほか珍しい経験らしかった。
夕食の席では、レジーナが屋敷の歴史や、周辺の村々の様子を、ざっくばらんに語ってくれた。ガレスは、それを聞きながら、時折補足を加える。三人の食卓は、王都での宴席とはまるで違う、静かで、それでいて温かみのある時間だった。
「そういえば、隣村の家畜小屋の修理は、無事に終わったのですか」
エレノアが尋ねると、ガレスは頷いた。
「ええ、おかげさまで。あの後、村長から丁寧な礼状が届きました。エレノアの記録の付け方を参考に、村の共有物の管理台帳も、少し整理したそうです」
「それは、良いことですね」
「あなたの助言は、思っていた以上に、色々な場所に広がっているようです」
レジーナが、二人のやり取りを、興味深そうに眺めていた。
「随分と、息の合ったお話をなさるのね」
その一言に、ガレスは少し照れたように咳払いをした。エレノアも、頬が熱くなるのを感じながら、話題を変えるように、レジーナに周辺の村の名前を尋ねた。
食後、エレノアが自室に戻ろうとすると、ガレスが廊下で呼び止めた。
「その……エレノア嬢と、どう呼べばいいのか、少し迷っていて」
「エレノアで、構いません。もう、堅苦しい間柄でもありませんから」
「では、私のことも、ガレスと。……仕事の場では、これまで通りで構いませんが」
その提案に、エレノアは小さく笑みを返した。呼び方一つにも、これまでとは違う距離感が、静かに芽生え始めていた。
「今日は、色々とありがとうございました。慣れない土地で、緊張していたのですが、思っていたより早く、馴染めそうな気がします」
「それは、良かった。……こちらこそ、来ていただいて、感謝しています」
ガレスは、そこで一度言葉を切り、少し迷うような間を置いてから続けた。
「正直に言うと、婚約解消の知らせを受け取ったとき、心配する気持ちと、それとは別の気持ちが、同時に湧きました。……不謹慎かもしれませんが」
「別の気持ち、というのは」
「それは、また、いずれ」
ガレスは、それ以上は語らず、静かに一礼して自室へと戻っていった。その背中を見送りながら、エレノアは、何を言われるはずだったのか、想像せずにはいられなかった。
自室に戻り、荷解きを終えると、エレノアは持ってきた手帳を開いた。真新しいページに、初めての一行を書き記す。
『ヴォルグレイブ領、初日。レジーナ様という方が、屋敷を取り仕切っている。仕事部屋を与えられ、明日から本格的に記録の整理を始める』
書き終えて、エレノアは窓の外に広がる、月明かりに照らされた雪原を見つめた。王都での日々とは、何もかもが違う。だが、その違いの一つ一つが、これまでにない静かな充足を、エレノアの心にもたらしていた。
レジーナの言葉、ガレスの言いかけた言葉。どちらも、まだ形になっていない何かを、エレノアの前にちらつかせていた。以前のエレノアなら、そうした曖昧さに、不安ばかりを感じていたかもしれない。だが今は、その曖昧さすら、悪くないものに思えた。急いで答えを出す必要はない。ここでの日々が、ゆっくりと、その答えを教えてくれるはずだった。
手帳を閉じ、エレノアは寝支度を整えた。明日からは、本格的に仕事が始まる。王都での暮らしとは違う種類の疲れと、それに見合うだけの手応えが、これから毎日、積み重なっていくのだろう。その予感に、エレノアは静かな高揚を覚えながら、灯りを消した。




