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幼馴染ばかり優先する婚約者はいりません。私は辺境伯と静かに暮らします  作者: ローナ


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新しい道への一歩

ガレスからの返事は、思っていたよりも早く届いた。


『お手紙、拝見いたしました。婚約解消のこと、驚きましたが、エレノア嬢が自らの意志でそこに至られたのであれば、私が口を挟むことではないと思います。ただ、お力になれることがあるなら、これほど嬉しいことはありません』


待ちわびていた三日間、エレノアは何度も窓の外を眺め、使いの者が来るのを気にかけていた。ようやく届いたその手紙を、封を切る手が、わずかに震えていた。


続く文面には、これまでのやり取りの延長とは思えないほど、具体的な提案が記されていた。


『領地の帳簿と、文官たちの記録の整備を、正式にお願いしたいと考えております。もちろん、相応の報酬と、住居の手配もいたします。ただ、独身の女性が単身で我が家に滞在するのは、外聞上、好ましくありません。差し支えなければ、しばらくの間、私の遠縁にあたる年配の女性が、屋敷の管理を手伝ってくれています。彼女のもとで、形式を整えた上でお迎えできればと思います』


その一文に、エレノアは小さく安堵した。ガレスが、実務の話だけでなく、こうした体裁の部分にまで、きちんと目を配ってくれていることに、改めて彼の誠実さを感じた。


手紙の最後には、こう締めくくられていた。


『正直に申し上げますと、エレノア嬢のような方に、正式にお手伝いいただけるとしたら、これほど心強いことはありません。ただ、決して無理はなさらず、ご自身の心の整理がついた上で、お返事をいただければと思います』


決して急かさない、その一文に、エレノアはこれまでのセドリックとのやり取りとの違いを、改めて感じずにはいられなかった。相手の都合よりも先に、自分の意志を確かめることを促してくれる相手。それは、これまでの人生で、あまり出会ったことのない種類の気遣いだった。


手紙を読み終えると、エレノアはすぐに父の書斎を訪ねた。


「ガレス様から、お返事が届きました。正式に、領地の仕事を手伝ってほしいとのことです」


父は、手紙に目を通しながら、しばらく黙っていた。


「……本気で、行くつもりか」


「はい。ここに残っていても、私にできることは限られています。それに、実際に手を動かして、誰かの役に立てるという実感は、これまでの暮らしでは、あまり得られなかったものです」


父は、手紙を丁寧に畳み直しながら、ゆっくりと頷いた。


「エレノア。お前がそう決めたのなら、私から反対することはない。ただ、婚約を解消したばかりで、すぐに他家へ身を寄せるような真似は、外聞上、色々と言われることになるだろう。それは、覚悟しておきなさい」


「はい。分かっています」


「それに、これは仕事としての話だ。私的な感情を、性急に形にする必要はない。まずは、しっかりと役目を果たすことに集中しなさい」


父の言葉には、娘を思う気遣いと、世間を知る者としての冷静な忠告が、同時に込められていた。エレノアは、その両方を、素直に受け止めた。


「分かった。ただ、一つだけ条件がある。マーサを、お前について行かせよう。見知らぬ土地で、一人きりというのは、私も心配だ」


「マーサが、良ければですが」


その日の夕方、エレノアはマーサに事情を話した。マーサは、驚いた様子を見せながらも、すぐに表情を明るくした。


「もちろん、お供いたします。……お嬢様が、あんなに生き生きとしたお顔で、新しい場所へ行こうとなさっているのを見て、私まで嬉しくなりました」


その言葉に、エレノアは胸が熱くなるのを感じた。


婚約解消の噂は、思いのほか早く社交界に広まった。エレノアが外出するたびに、好奇の視線や、遠回しな詮索の言葉を向けられることもあった。中には、憐れみを装いながら、内心では優越感を隠しきれない者もいた。だが、それらに一つ一つ心を乱されるほど、今のエレノアは弱くなかった。


「エレノア様、大変なことになりましたわね。これから、どうなさるおつもり?」


ある夜会で、顔見知りの令嬢からそう尋ねられたとき、エレノアは静かに微笑んで答えた。


「北の領地で、少しの間、お世話になる予定です。新しい暮らしを、一から始めてみようと思っています」


その答えに、令嬢は意外そうな顔をしたが、それ以上深く追及することはなかった。以前のエレノアなら、こうした視線に晒されるたびに、身を縮めていたかもしれない。だが今は、自分の選んだ道を、堂々と語れる自分がいた。


中には、遠回しに同情を寄せる者もいた。


「婚約破棄されるなんて、お気の毒に」


その言葉に、エレノアは静かに訂正を入れた。


「破棄されたのではありません。私から、解消を申し出ました」


その一言に、相手は少し驚いた様子を見せた。憐れまれる立場ではなく、自ら選んだ立場として、自分の状況を語る。それだけのことに、これまでにない誇りを感じている自分がいた。


出発を控えたある日、リリアーヌから短い手紙が届いた。


『エレノア様、このたびのこと、セドリック様から伺いました。何とお詫びすればよいか分かりません。ですが、エレノア様が新しい道を選ばれたことを、心から応援しております』


その一文には、これまでと変わらない、素朴な誠実さがあった。エレノアは、その手紙を読みながら、リリアーヌに対して、もう複雑な感情を抱く必要はないのだと、静かに感じた。彼女もまた、誰かに悪意を持って動いていたわけではない。ただ、それぞれの立場で、それぞれにできることをしてきただけだった。


出発の前日には、セドリックからも短い手紙が届いた。


『北の領地へ発つと聞いた。エレノアらしい選択だと思う。……最後に、一つだけ伝えさせてほしい。これまで、本当にすまなかった。そして、ありがとう』


短い文面だったが、これまでのような言い訳や、取り繕う言葉は、一切含まれていなかった。エレノアは、その手紙を静かに読み終えると、丁寧に畳んで、これまでの手帳と一緒に、荷物の奥にしまい込んだ。過去を消し去るためではなく、これまでの日々を、確かにあったものとして、心のどこかに留めておくためだった。


出発の朝、フォスター家の玄関先には、荷物を積んだ馬車が停まっていた。父が、見送りのために立っている。その手には、小さな包みが握られていた。


「これを、持って行きなさい」


差し出されたのは、以前、ガレスが持参してくれた、あの古い手紙だった。


「ヴォルグレイブ卿が、届けてくださった手紙だ。お前の母の姉が、北の地へ嫁いだとき、あちらの家の方が、迎える気持ちを込めて書かれたものだと聞いている。お前も、これから同じように、新しい土地へ向かう。何か心細くなったときは、これを読み返すといい」


エレノアは、その包みを、両手で丁寧に受け取った。かつて、見知らぬ土地へ足を踏み出した人がいて、その人を、温かく迎えようとした人がいた。色褪せた紙に残るその気持ちを思うと、不思議な勇気が湧いてくる気がした。


「体に気をつけて。何かあれば、すぐに知らせなさい」


「はい。お父様も、お体を大切に」


馬車に乗り込む直前、エレノアは、これまで過ごしてきた屋敷を、もう一度振り返った。ここで過ごした二十年あまりの日々には、我慢と諦めが多く積み重なっていた。だがそれも、今の自分を形作る、確かな一部だった。


「お嬢様、忘れ物はございませんか」


隣に座ったマーサが、旅装の襟元を整えながら尋ねた。


「ええ、大丈夫よ。……マーサ、一緒に来てくれて、本当にありがとう」


「何を仰いますか。お嬢様のお供をするのは、私にとって当然のことです。それに、私自身も、新しい土地を見てみたい気持ちがあります」


マーサの明るい笑顔に、エレノアも自然と頬が緩んだ。この数か月、誰よりも近くで、自分の変化を見守ってくれた人が、これから始まる新しい生活にも、共に歩んでくれる。それだけで、心強さが違った。


馬車が動き出すと、エレノアは窓の外に流れる王都の景色を、静かに見つめた。この先に待っている暮らしがどんなものか、まだ分からない。だが、初めて、自分の意志で選んだ道を歩んでいるという実感だけは、確かにそこにあった。


遠ざかっていく王都の街並みを見つめながら、エレノアは、これから北へ向かう道のりの先に、どんな日々が待っているのかを、静かに思い描いていた。不安がないと言えば嘘になる。だがそれ以上に、今は、まだ見ぬ未来への期待の方が、確かに大きかった。

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