自分の意志で選ぶ
それから三日間、エレノアは誰にも会わず、自室で静かに過ごした。マーサだけが、食事を運びながら、時折静かに声をかけてくれた。
「お嬢様、お加減はいかがですか」
「大丈夫よ。ただ、少し、考える時間が必要なだけ」
「……何か、お力になれることがあれば」
「マーサ。もし私が、これまで築いてきたものを、自分の意志で手放すとしたら、あなたはどう思う?」
マーサは、少し驚いた様子だったが、すぐに落ち着いた声で答えた。
「私は、お嬢様がご自分で決めたことなら、何でも支持いたします。……ただ、この数か月のお嬢様を見ていて、一つだけ思うことがあります」
「何かしら」
「お嬢様は、いつも誰かのために、我慢することを選んでこられました。今度は、ご自分のために、選んでもよろしいのではないでしょうか」
その一言が、これまでの迷いに、静かな後押しを与えた。エレノアは、これまでの手帳を、最初の一行から、丁寧に読み返した。
誕生日の夜の失望。慈善バザーの品の変更。三人でのお茶会。式典の日取りの重複。壇上に一人残された夜。北東の分領の話。そして、今回の結婚式の日取りの変更。
一つ一つの出来事には、そのたびに理由があった。幼馴染との深い絆、家族のような結びつき、父親の強い言葉。どれも、頭ごなしに否定できるものではなかった。だが、理由の中身がどうであれ、繰り返されてきた結果は、いつも同じだった。エレノアが後回しにされ、エレノアが調整し、エレノアが我慢する。
同じ頃、王都には冬の終わりを告げる雪解けの気配が、少しずつ漂い始めていた。窓の外を眺めながら、エレノアは、この数か月の自分の変化を、静かに振り返っていた。
三日目の夜、エレノアは静かに、しかし迷いのない筆致で、手帳に一行を書き加えた。
『私は、都合の良い相手ではなく、対等な相手として見てもらいたい。それが叶わないのなら、この関係を続ける意味はない』
書き終えて、初めて、心の奥にあった重しが、少しだけ軽くなったのを感じた。
翌朝、エレノアは父に、自分の決意を伝えた。
「婚約を、解消したいと思います」
父は、しばらく黙って娘の顔を見つめていた。驚きよりも、覚悟を確かめるような視線だった。
「……よく、そこまで考え抜いたな。後悔は」
「今の時点では、ありません。ただ、この先、後悔する日が来るかもしれないとは思います。それでも、このまま流されるように結婚するよりは、自分で選んだ結果を、抱えて生きていきたいのです」
その言葉に、父は静かに頷いた。
「一つ、聞いておきたい。ヴォルグレイブ卿のことは、この決断に、どれくらい関わっている」
その問いに、エレノアは一瞬、言葉に詰まった。
「……関わりがない、とは言い切れません。ですが、この決断そのものは、あの方のためではなく、自分自身のためにしたものです。セドリック様との関係を続けることが、これから先の人生にとって、正しい選択だとは、もう思えなくなりました」
「そうか。それで十分だ。誰かに惹かれたから別れる、というのと、この関係そのものが、お前にとって健全でなくなったから終える、というのは、まったく別の話だからな」
父の言葉に、エレノアは静かに頷いた。自分でも、まだ整理しきれていなかった部分を、父の一言が、きちんと言葉にしてくれたような気がした。
「分かった。侯爵家との話は、私が引き受けよう。お前は、セドリック君本人に、まず伝えなさい」
その日の午後、エレノアはセドリックを呼び出した。応接間で向き合うと、彼は、これまでとは違う張り詰めた空気を感じ取ったのか、いつになく静かだった。
「セドリック様。この数日、考えました。……婚約を、解消させていただきたいと思います」
セドリックは、しばらく言葉を失っていた。予想していなかったわけではないだろう。だが、実際に告げられると、受け止めるまでに時間が必要なようだった。
「……理由を、聞かせてもらえるか」
「あなたが悪人だからではありません。むしろ、この数か月、あなたなりに変わろうとしてくれたことは、分かっています」
「なら、なぜ」
「変わろうとする気持ちと、実際に踏みとどまる力は、別のものだと、先日、あなた自身が仰いました。私も、同じ結論に至りました。あなたは、一番強い声に従ってしまう。それは、これから先も、きっと変わりません」
「今回のことだって、僕なりに悩んだ。すぐに賛成したわけじゃない」
「悩んだことは、伝わっています。ですが、悩んだ末に、結局は流された。その結果だけが、私にとっての現実です」
セドリックは、反論しようと口を開きかけ、そのまま深く項垂れた。何を言っても、否定材料にならないことに、彼自身も気づいているようだった。
「私は、誰かに強く言われたときに、自分を後回しにされる関係を、これ以上続けたくありません。それは、あなたを罰したいからではなく、私自身の人生を、私の意志で選びたいからです」
その言葉には、怒りも、涙もなかった。ただ、静かで、揺るぎない意志だけがあった。
「僕は……これから、変わっていけないだろうか」
「変わろうとすること自体は、否定しません。ただ、それを見届ける役目を、これ以上、私が引き受ける必要はないと思うのです」
「それは、僕のためではなく」
「あなたのためでもあり、私のためでもあります。あなたが本当に変わるとしたら、それは、誰かに見張られているからではなく、あなた自身の中から、そうしたいと思う力が生まれたときだと思います。私がそばにいる限り、あなたは、また私に頼ってしまうでしょう」
その指摘に、セドリックは何も言い返せなかった。図星だったのだろう。
「……エレノアは、強くなったな」
「強くなったのではありません。ようやく、自分がずっと望んでいたものに、気づいただけです」
長い沈黙のあと、セドリックは深く頭を下げた。
「すまなかった。これまでの、すべてのことを」
「謝罪は、受け取ります。ですが、それで関係を続ける理由にはなりません」
セドリックは、それ以上、何も言わなかった。ただ、静かに頷き、力なく立ち上がると、来たときよりもずっと小さく見える背中で、屋敷を後にした。
その背中を見送りながら、エレノアは、不思議なほど涙が出ないことに気づいた。これほど長く続いた関係の終わりに、もっと大きな感情が押し寄せてくると思っていた。だが実際には、これまでの疲労が、ゆっくりと引いていくような、静かな感覚しかなかった。
数日後、父から、ラングフォード侯爵家との話し合いの結果が伝えられた。侯爵は、当初こそ困惑した様子だったが、これまでの経緯を聞くと、最終的には静かに受け入れたという。
「侯爵も、薄々気づいていたようだ。……セドリック君のことは、あの人なりに、案じているらしい」
「リリアーヌ様には」
「セドリック君本人から、伝えるそうだ。……あちらも、思うところはあるだろう」
エレノアは、リリアーヌの顔を思い浮かべた。あの日、村の女性が口にした「良いご縁があるといい」という言葉が、今になって、また別の意味を帯びて胸に蘇る。誰も悪くない。それでも、物事は、思うようには進まなかった。
その日の夕方、エレノアは自室の机に向かい、一通の手紙をしたためた。宛先は、ヴォルグレイブ辺境伯ガレスだった。
『婚約を解消いたしました。これから先、自分の人生をどう歩むか、改めて考えているところです。もし差し支えなければ、以前お話しいただいた領地の帳簿の仕事について、正式にお手伝いできる形がないか、ご相談させていただけないでしょうか』
書きながら、エレノアは、これが単なる仕事の依頼ではないことを、自分でも分かっていた。だが今は、その先の感情にまで名前をつける必要はない。まず、自分の足で立つこと。それが、今のエレノアにとって、何よりも大切なことだった。
手紙を書き終えると、エレノアは手帳を開き、最後の一行を書き加えた。
『婚約を解消した。誰のせいでもなく、自分の意志で』
これまでの記録は、いつも誰かの言動を書き留めるものだった。だが今日の一行は、初めて、自分自身の行動を記したものだった。その違いを、エレノアははっきりと感じ取っていた。
手紙を封じ、エレノアは窓の外を見上げた。冬の終わりを予感させる、澄んだ夕焼けが、王都の空いっぱいに広がっていた。
これまでの人生で、初めて、自分の意志だけで選んだ道だった。その先に何が待っているのか、まだ何も分からない。だが、その分からなさこそが、これまでとは違う、確かな一歩だった。




