一番強い声
王都への帰路は、行きよりも重い沈黙に包まれていた。父もエレノアも、窓の外を流れる雪景色を眺めながら、それぞれの考えに沈んでいた。
出発の朝、ガレスは玄関先まで見送りに来た。
「道中、お気をつけて。……エレノア嬢にお伝えしたいことがありますが、今は、時期ではないように思います。エレノア嬢には、まず片付けるべきことが、王都に残っているはずですから」
その言葉に、エレノアは小さく頷いた。何を言おうとしていたのか、深くは尋ねなかった。今の自分には、まず片付けなければならないことがある。それを終えないまま、別の感情に踏み込むわけにはいかなかった。
「また、お便りいたします」
「お待ちしております」
短いやり取りだったが、そこには、これまでの手紙のやり取り以上の、確かな重みがあった。
馬車が動き出すと、父はしばらく無言だったが、やがてぽつりと言った。
「あの方は、良い領主だな。……それに、悪くない人物だとも思う」
「お父様まで、そんなことを」
「お前の顔を見ていれば、分かる。この数日で、随分と表情が変わった」
エレノアは、それに何と答えていいか分からず、窓の外に視線を逃がした。父はそれ以上、深くは追及せず、ただ静かに外の雪景色に目をやっていた。
道中、エレノアは何度も、村での出来事や、ガレスの言葉を反芻していた。だが今は、その一つ一つを丁寧に見つめ直す前に、まず王都で片付けなければならない現実が、待ち構えていた。
王都に戻ると、エレノアはその日のうちにセドリックへ使いを出した。翌日、応接間で向き合った彼は、旅の疲れの残るエレノアを気遣いながらも、どこか落ち着かない様子だった。
「日取りの件、詳しく聞かせてください」
エレノアが切り出すと、セドリックは深く息を吐いた。
「モンド男爵家が、今度の春、遠方の親族の結婚式に招かれているらしい。その場で、リリアーヌの縁談の話も、それとなく持ち上がりそうだと、男爵から父上に相談があったそうだ」
「リリアーヌ様の、縁談」
「ああ。男爵としては、体調が万全でないうちに、そういう話が具体化するのは避けたいらしい。それで、うちとの婚姻を先に、はっきりした形にしておきたいと。そうすれば、周りも、モンド家の事情に、あれこれ口を挟みにくくなるだろうと」
エレノアは、その説明を、静かに聞いていた。理屈としては、分からなくもない話だった。だが、その理屈のために動かされているのが、自分たちの結婚式の日取りだという事実に、変わりはなかった。
「では、新しい日取りは、いつ頃を?」
「早ければ、来月の末。遅くとも、春の初めまでには、と父上たちは考えているらしい」
来月の末、という言葉に、エレノアは思わず息を詰めた。夏の終わりまで、まだ半年以上の猶予があると思っていたはずが、今や、二月足らずの話になっている。
「その話が持ち上がったのは、いつのことですか」
「……十日ほど前だ」
「十日前。私が旅に出る、少し前ですね」
「……そうなる」
エレノアは、その答えに、静かな失望を覚えた。十日という時間があれば、手紙一本、事前に送ることもできたはずだった。だが、その機会は使われないまま、事は既に父親同士の間で進められていた。
「セドリック様。以前、私は何をお願いしたか、覚えていらっしゃいますか」
「……何かを決める前に、相談してほしいと」
「ええ。今回、それが守られなかったことについて、どうお考えですか」
セドリックは、しばらく黙り込んだ。指を組んだり離したりしながら、言葉を探しているようだった。
「正直に言うと……父上から話を聞いたとき、僕もすぐには賛成しなかった。エレノアに、先に話すべきだと言ったんだ」
「それなら、なぜ」
「父上に、押し切られた。『お前は、いつも肝心なところで及び腰だ』と言われて……。それ以上、強く言い返せなかった」
その告白には、これまでのような無自覚さとは違う、明確な弱さがあった。彼なりに抵抗を試みた形跡はある。だが、その抵抗は、最後まで貫かれることはなかった。
「父上に、何と言われたのか、詳しく聞かせていただけますか」
「……『お前は、いつも肝心なところで及び腰だ。エレノア嬢の顔色ばかり窺って、家のためになる決断ができない』と。そう言われて、それ以上、何も言えなくなった」
その言葉を聞いて、エレノアは複雑な気持ちになった。侯爵の言葉は、皮肉にも、これまでのセドリックの姿勢を正確に言い当てていた。ただし、その矛先が、今度はエレノアとの約束を守ることに、向けられてしまっている。
「私に話すよりも、お父様に押し切られる方が、あなたにとっては大きかったということですね」
「……そういう言い方をされると、返す言葉がない」
エレノアは、しばらく黙って、彼の顔を見つめた。責める気持ちより先に、静かな諦めに似た感情が、胸の奥から立ち上ってくるのを感じた。
「セドリック様。あなたが、変わろうとしていることは、分かっています。式典の一言のことも、住まいの話も、以前とは違う姿勢を見せてくださいました。それは、素直に嬉しく思っています」
「……でも」
「でも、大事な場面になると、結局、一番強い声に従ってしまう。今回のことで、それがよく分かりました」
セドリックは、何も言い返せずに、うつむいた。
「私も、少し考える時間をいただきたいのです。日取りのことも、これから先のことも」
「……分かった。エレノアの気が済むまで、待つよ」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「何だ」
「もし、これから先も、ラングフォード侯爵様が強く仰ったとき、あなたは、今回と同じように、押し切られてしまうのでしょうか」
セドリックは、その問いに、長い沈黙で応えた。嘘をつくことも、安易に否定することもできなかったのだろう。
「……分からない。正直、自信がない」
その正直さを、エレノアは評価すべきなのか、失望すべきなのか、すぐには判断がつかなかった。ただ、少なくとも、ごまかしのない答えだったことだけは、確かだった。
「分かりました。今日は、正直に話してくださって、ありがとうございます」
その返事に、これまでのような軽さはなかった。だが、待つという言葉が、これまでの二人の関係そのものを、そのまま表しているようにも思えた。いつも、待つのは自分の側だったはずが、いつの間にか、その役割が入れ替わっている。
セドリックが帰ったあと、エレノアは応接間で一人、しばらく座ったままでいた。そこへ、父が静かに入ってきた。
「聞こえていたのですか」
「悪気はなかったが、扉越しに、少しだけ」
父は向かいの椅子に腰を下ろし、しばらく間を置いてから口を開いた。
「エレノア。私から、余計な口を挟むつもりはない。だが、一つだけ言わせてくれ」
「何でしょう」
「人は、そう簡単には変わらない。変わろうとする気持ちがあっても、長年染みついた性分は、そう易々とは覆らないものだ。セドリック君の場合、それが『一番強い声に従う』ということなのだろう」
父の言葉は、静かだったが、重かった。
「お前がこれから、どういう道を選ぶにせよ、私はお前の判断を尊重する。ただ、判断する材料は、今日、揃ったのではないかと思う」
その言葉を最後に、父は静かに部屋を出ていった。残されたエレノアは、しばらく一人、その言葉を噛み締めていた。
自室に戻り、エレノアは窓辺に立ち、しばらく外を眺めていた。手帳を開き、今日のやり取りを書き留める。
『セドリック様、父親に押し切られたと告白。「一番強い声に従う」ことが、彼の根本にあるのだと理解した』
書き終えて、エレノアはしばらく、その文字を見つめていた。これまで積み重ねてきた小さな前進と、今日明らかになった大きな限界。その両方を、同時に抱えたまま、この先どう進めばいいのか、まだ答えは出ていなかった。
これまでの手帳を、少しずつ読み返してみる。誕生日の夜の失望から始まり、慈善バザーの品、式典での孤独、そして今日の告白まで。一つ一つの出来事は、その都度、理由があり、事情があった。だが、それらを並べて眺めたとき、浮かび上がってくるのは、理由や事情の中身ではなく、繰り返されてきた「型」そのものだった。
セドリックは、悪人ではない。むしろ、誠実であろうとする気持ちは、本物だと思う。だが、誠実であろうとする気持ちと、実際に誰かのために強く踏みとどまる力は、別のものらしい。彼には、後者が、決定的に欠けていた。
エレノアは、手帳を静かに閉じた。答えを急ぐ必要はない。だが、この先いつまでも、答えを先延ばしにできるわけでもないことも、分かっていた。
窓の外では、王都の冬の空に、灰色の雲が重く垂れ込めていた。




