凍った坂道で
翌朝、まだ薄暗いうちに、エレノアはガレスと共に隣村へと向かった。父は、前日の疲れもあってか、屋敷で留守番を申し出た。
「私まで同行しては、足手まといになるだけだろう。エレノア、しっかり見てくるといい」
その言葉に押される形で、エレノアは厚手の外套に身を包み、馬車に乗り込んだ。
村までの道は、昨夜の雪でところどころ凍りついていた。ガレスは、御者の隣に座り、時折自ら手綱を取って、危険な箇所を慎重に避けていく。
「危ないところは、私が。エレノア嬢は、中で温かくしていてください」
その気遣いに、エレノアは素直に頷きながらも、窓の外で黙々と馬を操る背中を、しばらく見つめていた。
道中、ガレスがふと口を開いた。
「この道は、毎年冬になると必ず一度は凍結します。何年か前、私が代を継いだばかりの頃、この坂で馬車がひっくり返ったことがありまして」
「まあ……。お怪我は」
「幸い、軽い打撲で済みました。ですが、それ以来、この時季はいつも自分で手綱を握るようにしています」
その話しぶりには、恐怖を誇張するでも、苦労を売り込むでもない、淡々とした実感があった。一つ一つの経験を、その都度、自分のやり方に反映させていく。そういう積み重ねの上に、今の彼の几帳面さが成り立っているのだと、エレノアは改めて感じた。
村に着くと、崩れかけた家畜小屋の周りに、すでに数人の村人が集まっていた。ガレスの姿を見るなり、彼らの表情に、明らかな安堵が浮かんだ。
「旦那様、朝早くからありがとうございます」
「大事な羊たちだ。私が来ないわけにはいかない」
ガレスはそう言うと、すぐに屋根の様子を確認し、修理に必要な材木の量や、人手の配分を、村長らしき老人と手早く相談し始めた。羊たちは、隣接する空き小屋に一時的に移され、湯気を立てながら身を寄せ合っている。エレノアは、少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
「お嬢様も、暖を」
村の子どもが、恥ずかしそうに、温めた石を布に包んだものを差し出してきた。エレノアは驚きながらも、礼を言って受け取った。掌に伝わる素朴な温かさが、これまで経験したことのない種類の心地よさをもたらした。
「お嬢様も、遠くからよくいらっしゃいました」
村の女性の一人が、エレノアに声をかけてきた。人懐こい笑顔だった。
「王都から、こんな辺鄙な土地まで。退屈なさったのでは」
「いいえ。とても興味深いです。皆さんの暮らしぶりを、直接見せていただけて」
エレノアがそう答えると、女性は少し驚いた様子で、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「旦那様が、いつも大事にしてくださるので、私たちも安心して暮らせています。……あの方に、良いご縁があるといいのですが」
その一言に、エレノアは思わず言葉を詰まらせた。女性に他意はなく、ただ領主の幸せを願う、素朴な言葉だったのだろう。だが、その一言が、エレノアの胸の奥に、小さな棘のように刺さった。
「旦那様は、村のことをいつも第一に考えてくださって。でも、ご自分のことは、後回しにされてばかりで」
「後回し、というのは」
「もう長いこと、独り身でいらっしゃるでしょう。私たちも、心配しているんです。……でも、こうしてお嬢様のような方が、わざわざ遠くから足を運んでくださるのを見ると、少し安心します」
その言葉に、エレノアはどう答えていいか分からず、曖昧に微笑むしかなかった。だが、村人たちの目に、自分たちの関係が、すでにある種の期待を伴って映っているらしいことに、小さな戸惑いを覚えずにはいられなかった。
修理の算段が一通り決まると、ガレスがエレノアのもとへ戻ってきた。
「材木が、思ったより早く手配できそうです。エレノア嬢の助言のおかげで、輸送費の交渉にも慣れてきましたから」
「私は、大したことをしたわけでは」
「いえ、実際に役立っています。今日も、村長との相談で、記録の付け方を少し変えてみたところ、話がまとまるのが早くなりました」
その言葉に、エレノアは小さな誇らしさを覚えた。自分の助言が、遠く離れたこの土地で、確かに何かを動かしている。それは、これまで婚約者との関係の中では、あまり感じたことのない種類の実感だった。
村での用件を一通り終えると、村長が改めてガレスに深く頭を下げ、修理に必要な人手を、翌日から総出で集めると約束した。ガレスは、その様子を見届けてから、ようやくエレノアの方を振り返った。
「お待たせしました。……つまらないものをお見せしたかもしれません」
「いいえ。とても、興味深いものを見せていただきました」
その言葉に嘘はなかった。帳簿の数字だけでは分からない、土地と人の結びつきの手触りを、今日という一日で、確かに感じ取っていた。
帰り道、馬車が凍った坂道に差しかかったとき、車輪が滑り、大きく揺れた。エレノアは思わず体勢を崩し、隣に座っていたガレスが、とっさに肩を支えてくれた。
「大丈夫ですか」
「……ええ、ありがとうございます」
その距離の近さに、エレノアは一瞬、言葉を失った。ガレスもまた、すぐに手を離し、少し気まずそうに視線を逸らした。
「失礼しました。とっさのことで」
「いいえ。助けていただいて、感謝しています」
それだけのやり取りだった。だが、馬車が再び動き出したあとも、エレノアの心臓は、まだ小さく速い鼓動を刻んでいた。
「……村の方々は、皆さん、あなたのことを、大切に思っておいでなのですね」
沈黙に耐えかねたように、エレノアがそう切り出すと、ガレスは少し驚いたように目を瞬かせた。
「私こそ、彼らに支えられています。一人でここまでやってきたつもりでいましたが、実際には、そうではなかったのだと、最近、ようやく気づき始めたところです」
その言葉には、以前、両親を早くに亡くし、独学で領地を運営してきたと語ったときとは、少し違う響きがあった。孤独を当然のものとして受け入れていた人が、その孤独の輪郭を、少しずつ問い直し始めている。そんな気配が感じられた。
「独り身でいらっしゃることを、心配なさっている方も、いらっしゃるようでした」
エレノアが、村の女性の言葉を思い出しながらそう言うと、ガレスは苦笑した。
「耳が早いですね。……正直、これまでは、そういう話に向き合う余裕もありませんでした。ですが」
そこで言葉を切り、ガレスは少し考えるような間を置いた。
「最近は、少し違う考え方をするようになりました」
それ以上、彼は何も続けなかった。だがその一言の余韻が、馬車の中の空気を、これまでとは違う色合いに染めていくのを、エレノアは確かに感じ取っていた。
屋敷に戻ると、父が心配そうな顔で出迎えた。
「無事で何よりだ。……ところで、王都から使いが届いていた。フォスター家宛てに、急ぎの手紙だそうだ」
エレノアは、差し出された手紙の差出人を見て、小さく息を呑んだ。セドリックからだった。
封を切ると、そこには、これまでの穏やかな流れを一変させる知らせが記されていた。
『急な話で申し訳ないが、父上たちの間で、結婚式の日取りを春に早める話が持ち上がっている。モンド男爵家との関係で、色々と事情があるらしい。詳しくは、帰ってから話したい』
夏の終わり、という約束は、まだ交わされたばかりだった。それが早くも、当人の与り知らぬところで、覆されようとしている。
「どうした」
エレノアの様子に、父が気づいて声をかけてきた。手紙の内容を伝えると、父の表情が、みるみる曇っていった。
「約束したばかりだというのに……。しかも、当人の口から直接ではなく、こうして手紙で知らされるとは」
「モンド男爵家との関係で、事情があるとしか、書かれていません」
「事情、事情と、いつもその言葉で片付けられる。だが、事情があること自体は、責められない。問題は、決まってから知らされる、その順番だ」
父の言葉に、エレノアは静かに頷いた。セドリックに求めてきたのは、まさにその「順番」だった。事が起きる前に、一言相談してほしい。それだけの、単純な願いだったはずだ。
「エレノア。……この旅で、色々と感じることがあっただろう」
父の問いに、エレノアはすぐには答えられなかった。村での温かい出迎え、ガレスの淡々とした誠実さ、そして帰り際の、あの意味深な沈黙。この数日で積み重なったものが、今、目の前の手紙一枚によって、否応なく現実に引き戻されていく。
「……はい。色々と、考えさせられました」
それ以上は、言葉にならなかった。父もまた、それ以上は問わず、ただ静かにエレノアの肩に手を置いた。
エレノアは、その手紙を、しばらく手にしたまま立ち尽くしていた。窓の外では、日が傾き始め、雪原が茜色に染まっていくのが見えた。




