雪原の屋敷
王都を発って三日目、馬車の窓の外には、これまで見たことのない景色が広がっていた。丘陵はいつしか平らな雪原に変わり、道の両脇には、丈の低い針葉樹が延々と続いている。
「思っていたより、ずっと寒いのですね」
エレノアは、ガレスの手紙にあった通りの二重仕立ての外套を着込みながら、そう呟いた。父も、毛皮の襟巻きに顔を埋めながら頷いた。
「これでもまだ、序の口だろう。本格的な冬は、これからだそうだ」
宿場ごとに馬を替え、暖を取りながらの旅は、王都での暮らしとはまるで違う時間の流れ方をしていた。エレノアは、道中何度も、ガレスが書き添えてくれた注意書きに助けられた。凍った坂道の手前で馬を降りるべき場所、体を温めるための茶を出す宿屋の名。どれも、実際に足を運んでみて初めて、その正確さがありがたく感じられた。
二日目の夜に泊まった宿では、女将が「ヴォルグレイブ卿のお手紙通りにいらしたんですね」と、懐かしそうに笑った。聞けば、彼は毎年、社交シーズンの行き帰りにこの宿を利用しており、常連客として顔なじみになっているという。
「あの方は、いつも荷物より先に、馬の様子を気にかけてくださって。貴族様には珍しいことです」
その話を聞きながら、エレノアは、手紙の端々に滲んでいた几帳面さの理由を、少しだけ理解した気がした。誰も見ていない場所でも、変わらない態度を貫く。それが、彼という人間の、地の性質なのだろう。
ヴォルグレイブ領に入ると、景色はさらに変わった。雪に覆われた畑の合間に、煙突から煙を上げる家々が点在している。人々は寒さに負けじと、忙しく立ち働いていた。
屋敷に到着すると、ガレス自らが、玄関先で出迎えた。
「遠いところを、よくお越しくださいました。道中、お疲れになったでしょう」
「思った以上に、実り多い旅でした。手紙でいただいた助言のおかげで、随分と快適に過ごせました」
エレノアがそう答えると、ガレスは珍しく、はにかんだような表情を見せた。
「お役に立てたなら、何よりです」
屋敷は、王都の貴族の邸宅に比べれば、決して華美ではなかった。だが手入れの行き届いた廊下や、無駄なく配置された家具の一つ一つに、この土地で生きる人々の暮らしぶりが表れているようだった。壁には、装飾のための絵画ではなく、領地の地図や、作物の作付け表が几帳面に貼られている。
使用人たちの動きも、きびきびとしていた。挨拶をする者、荷物を運ぶ者、それぞれが自分の役目を心得ている様子だった。中には、まだ十代と思しき若い使用人の姿もあり、その一人が、エレノアの荷物を運びながら、少し誇らしげに言った。
「旦那様が、遠くからお客様がいらっしゃると、朝から皆に伝えてくださって。おかげで、失礼のないよう準備ができました」
その言葉に、エレノアは小さな驚きを覚えた。主人が使用人に、来客の情報を前もって、しかも丁寧に伝えている。当たり前のようでいて、実際にそれを徹底できている屋敷は、多くないだろうと思った。
「随分と、統率の取れた屋敷ですね」
父がそう漏らすと、ガレスは少し照れくさそうに答えた。
「人数が少ない分、一人一人が多くを兼ねなければなりません。自然と、皆が周りを見て動くようになったのだと思います」
夕食の席では、地元で採れた根菜と、羊肉を使った料理が振る舞われた。王都の宴席のような華やかさはなかったが、素材そのものの味を活かした、温かみのある食卓だった。
「この土地の料理は、飾り気がなくて申し訳ないのですが」
ガレスが恐縮したように言うと、父はすぐに首を振った。
「いや、こういう料理こそ、旅の疲れには何よりだ。かえって、ありがたい」
その言葉に、ガレスは安堵したような笑みを見せた。王都の洗練された食卓とは違う、素朴な温もりに、エレノアもまた、不思議な心地よさを感じていた。
食事の合間、父がふと、住まいの候補地の話を持ち出した。
「実は、娘の嫁ぎ先の住まいの候補地を、先日視察したところでね。北東の分領と、南西の分領、どちらも一長一短で、まだ決めかねている」
「差し支えなければ、詳しく伺っても?」
父から北東の人手不足、南西の土地の狭さについて聞くと、ガレスは興味深そうに耳を傾け、いくつか質問を重ねた。その視点は、エレノアたちが気づかなかった角度からのものも多く、思いがけず有意義な話し合いになった。
「土地というのは、良い面だけを見ていては、後々必ずつまずきます。両方の弱点を、あらかじめどう補うかまで考えておくことが、肝要かと」
その言葉に、父もエレノアも、深く頷いた。
食事の最中、屋敷の老齢の家令が、ガレスにそっと耳打ちをした。ガレスは軽く頷き、エレノアと父に断りを入れて席を立った。しばらくして戻ってきた彼は、何事もなかったかのように席に着いた。
「何か、問題でも」
エレノアが尋ねると、ガレスは静かに答えた。
「隣村で、家畜小屋の屋根が雪の重みで傾いたそうです。大事には至っていませんが、明日の朝、様子を見に行かねばなりません」
「今からでも、向かわれなくてよろしいのですか」
「夜間に動いても、かえって危険なだけです。今できることは、明日の朝一番に必要な道具と人手の手配を、今のうちに済ませておくことです」
そう言って、ガレスは食事を続けながらも、頭の中ではすでに翌朝の段取りを組み立てているようだった。慌てず、しかし後回しにもせず、必要な判断だけを的確に下していく。その姿は、王都で見せていた彼と、少しも変わらなかった。
エレノアは、その様子を見ながら、これまでセドリックと過ごしてきた時間を、思わず思い返していた。予定を告げられずに待たされること、事が起きてから初めて事情を知らされること。同じ「知らせを受ける」立場でも、これほどまでに違う扱いを受けるものかと、改めて実感させられた。
「見事な差配ですね」
父が感心したように言うと、ガレスは首を振った。
「差配というほどのことでは。ただ、慌てて動いて怪我人を出すよりは、落ち着いて動ける準備をする方が、結局は早いというだけです」
その考え方に、エレノアは深く頷いた。式典の一件から、自分の中に根付いた教訓と、どこか重なるものがあった。あのとき、慌てて誰かを責めることよりも、まず自分にできることを見極める方が、結局は物事を良い方向に運んだ。
「明日は、私どもも同行させていただけますか」
エレノアが尋ねると、ガレスは意外そうな顔をした。
「危険はありませんが、決して楽な道のりでは」
「帳簿の上の話だけでなく、実際の現場を見ておきたいのです。今後、何かの折に、お役に立てるかもしれませんから」
その申し出に、ガレスはしばらく考えるような間を置いてから、静かに頷いた。
「……分かりました。では、朝は早めにご用意を」
父も、横で興味深そうにやり取りを見守っていた。エレノアの申し出を止めることなく、むしろ小さく笑みを浮かべているようだった。
夕食を終え、案内された客室で一人になると、エレノアは窓の外に広がる雪景色を、しばらく眺めていた。この土地の厳しさと、それでも人々が丁寧に築いてきた暮らしの温もりが、同時に胸に迫ってくる。
手帳を開き、今日一日のことを書き留めた。
『ヴォルグレイブ領、到着。屋敷は質素だが、隅々まで行き届いている。夜、隣村の一件への対応を目の当たりにした』
書き終えて、エレノアはふと、この土地でなら、自分はどんな役割を果たせるだろうかと考えている自分に気づいた。まだ何も決まっていない未来のことを、こんなにも具体的に思い描くのは、初めてのことだった。
その考えが浮かんだ瞬間、エレノアは我に返り、小さく首を振った。自分には、すでに定められた将来がある。夏の終わりに式を挙げ、北東か南西、いずれかの分領で暮らしを始める。その道筋を、疑ったことなど、これまで一度もなかったはずだった。
だが今夜、この見知らぬ土地の静けさの中で、その道筋が、思っていたほど確かなものではないのかもしれないという予感が、静かに胸の奥に居座っていた。
廊下の向こうから、明日の同行のための足音や、使用人たちの控えめな話し声が、かすかに聞こえてくる。この屋敷の誰もが、それぞれの持ち場で、当たり前のように役目を果たしていた。その光景に、エレノアは言いようのない安らぎを覚えていた。
窓の外では、月明かりが、一面の雪原を静かに照らし出していた。




