二つの温度差
北東の分領を巡る話は、まだ結論が出ないまま、季節だけが進んでいった。その代わりのように、両家の間では、結婚式の日取りについての話が持ち上がった。
「年明けの春、というのが、両家の当主の間で出ている案だ」
セドリックがそう切り出したのは、視察から半月ほど経った、穏やかな午後のことだった。
「思ったより、早いのですね」
「ああ。父上たちは、なるべく早く形にしたいようだ。……でも、僕は少し、待ってほしいと思っている」
「待つ、というのは」
「モンド男爵が、まだ本調子ではない。せめて、あの人が自分の足で歩けるようになるまでは、僕も気持ちの整理がつかない気がして」
その言葉に、悪意は感じられなかった。むしろ、これまでのセドリックからは想像もつかないほど、率直な弱さの吐露だった。だがエレノアの中に、静かな既視感が広がった。今度もまた、モンド家の事情が、二人の予定より先に置かれている。
「お気持ちは、分かります。ただ、私にも、私なりの心づもりというものがあります」
「……そうだよな。すまない、僕の都合ばかりで」
「謝ってほしいわけではないのです。ただ、待つ理由があるなら、その理由を、最初から一緒に考えさせてほしいのです」
セドリックは、少し驚いたような顔をした。これまでのエレノアなら、待ってほしいという一言だけで、黙って頷いていたはずだった。だが今日は、その理由の中身にまで、踏み込んで尋ねている。
「責めているわけではありません。ただ、日取りを考えるときには、あなたの事情と、私の事情、両方を並べて考えていただきたいのです」
セドリックは、しばらく黙って、その言葉を咀嚼するようにしていた。
「エレノアの事情、というと」
「私も、いつまでも準備期間があるわけではありません。式の日取りが決まらなければ、支度も進められませんし、心の準備も、なかなか整いません」
「……そうだな。僕は、いつも自分の側の事情ばかり考えていた」
その自覚の言葉に、エレノアは小さく頷いた。以前なら、ここで話が終わっていたはずだった。だが今日は、セドリックがさらに続けた。
「分かった。父上たちには、僕から、夏の終わりを目安にしたいと伝えてみる。モンド男爵の療養にも、ある程度の目処がつく頃合いだろうし、エレノアの支度の時間も、十分に取れるはずだ」
具体的な時期を、自分から提案してきたのは、これが初めてだった。エレノアは、その変化を、素直に受け止めた。完全に満足したわけではない。それでも、以前とは確かに違う対話が、そこにはあった。
夕食の席で、父にその話を伝えると、父は少し驚いた様子だった。
「セドリック君が、自分から時期を示したのか」
「はい。夏の終わり頃を、目安にしたいと」
「そうか……。悪くない話だ。もっとも、実際にその時期まで、彼がその意志を保てるかどうかは、また別の話だが」
父の言葉には、皮肉というより、これまでの経緯を踏まえた冷静な観察があった。エレノアも、同じことを感じていた。今日の約束が、これまでの約束と同じ道をたどらない保証は、どこにもない。
「お前は、どう思っている。夏の終わり、という時期について」
父の問いに、エレノアは少し考えてから答えた。
「悪くない時期だとは思います。ただ……本当にその時期になったとき、また別の理由で先延ばしにならないとも限らない、という気持ちも、正直あります」
「それが、今のお前の本音か」
「はい。信じたい気持ちと、まだ信じ切れない気持ちが、半々というところです」
父は、それ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。エレノアの本音を、否定も肯定もせず、そのまま受け止める父の態度に、エレノアは小さな安心を覚えた。
式典以来、二人の会話は、以前より格段に増えていた。それでも、話の端々に、まだ埋まらない溝があることを、エレノアは感じずにはいられなかった。
話が一段落すると、エレノアは来月に控えたヴォルグレイブ領への訪問について、セドリックに伝えた。
「父と一緒に、来月、ヴォルグレイブ卿の領地を訪ねる予定です」
「ああ、聞いている。契約や帳簿のことで、色々お世話になっているとか」
「ええ。実際に領地を見せていただけることになりました」
セドリックは、特に気に留めた様子もなく、頷いた。
「良い経験になるといいな。エレノアがそういうことに関心を持っているのは、僕も嬉しいよ」
その言葉に、含みはなかった。だがエレノアは、その屈託のなさに、かえって落ち着かない気持ちになった。もし本当に何かに気づいているなら、もう少し違う反応があってもおかしくない。だが、セドリックにとっては、あくまで実務上の交流としか映っていないようだった。
「父上とご一緒するなら、心配はいらないな。……羨ましいよ、そういう風に、新しい土地を見て回れるのは」
「羨ましい、とは」
「僕は、生まれてからずっと、この王都と、せいぜいラングフォード領の間を行き来するだけだった。エレノアの方が、よっぽど広い世界を見ているんじゃないか」
その言葉には、屈託のない羨望があった。エレノアは、それを聞きながら、彼の世界の狭さが、必ずしも彼自身の怠慢だけによるものではないのかもしれないと、ふと思った。生まれたときから決まっていた道を、疑うことなく歩んできた人と、その道の外側に、思いがけず足を踏み出しつつある自分。二人の間には、いつの間にか、そうした違いも生まれ始めていた。
その晩、屋敷では出発の準備が本格的に始まった。ガレスから以前届いた手紙には、道中の宿の手配や、必要な防寒具についての助言が、事細かに記されていた。それを片手に、北方は冬の寒さが厳しいと聞き、厚手の外套や、旅装に適した靴などを、マーサと一緒に一つ一つ確認していく。
「手紙に書いてあった通り、二重仕立ての外套があった方が良さそうですね」
マーサがそう言いながら、衣装箱から一枚を取り出した。エレノアは、その手紙の一言一句が、実際にこうして役立っていくことに、不思議な満足感を覚えていた。
「お嬢様、こんなに楽しそうな旅支度は、久しぶりですね」
マーサの一言に、エレノアは思わず手を止めた。言われてみれば、その通りだった。これまでの旅の支度といえば、社交界の行事のためのものばかりで、どこか義務的な気配が拭えなかった。だが今回は、明らかに違う種類の高揚があった。
「……そうかしら。単に、初めて訪れる土地だから、興味があるだけよ」
「そうですね。きっと、それだけですね」
マーサは、それ以上何も言わず、ただ静かに微笑んだ。その笑みの意味を、エレノアはあえて深く追及しないことにした。
荷造りを終えたあと、マーサは思い出したように付け加えた。
「そういえば、セドリック様との旅支度は、これまで一度もなさったことがありませんね」
「……言われてみれば、そうね」
「お嬢様が、こんなにも心を弾ませて支度をなさるのは、私、初めて見た気がします」
その一言に、エレノアは何と返せばいいか分からず、曖昧に微笑むだけにとどめた。図星を指されたような気まずさと、それを誰かに気づかれていたことへの、小さな安堵。相反する二つの感情が、同時に胸の中を通り過ぎていった。
出発の日取りは、来週の頭に決まった。父も同行し、道中は数日がかりになるという。
「久しぶりの遠出だな」
父は、旅程表に目を通しながら、どこか楽しげにそう言った。
「お父様も、北の方に足を運ばれたことは」
「若い頃に、一度だけ。お前の母と結婚する前のことだ。あの頃は、まさか将来、こうしてまた北へ向かうことになるとは、思ってもみなかったが」
その言葉に、エレノアは小さな縁を感じた。母の姉が嫁いだ土地へ、今度は自分たちが招かれて向かう。血のつながりというものが、こうして時を経て、思いがけない形で巡ってくることに、不思議な感慨があった。
旅の支度を整えながら、エレノアは手帳を開いた。
『結婚式、夏の終わりを目安に。セドリック様、初めて自分から時期を提案』
『ヴォルグレイブ領への出発、来週。楽しみにしている自分に、戸惑っている』
二つの出来事を書き並べてみると、自分の中で、明らかに温度差があることに気づいた。一方は、義務として整えている関係。もう一方は、まだ名前のつかない何かに向かって、心が先走っている関係。
これまでの自分なら、こうした温度差に気づいても、見て見ぬふりを続けていただろう。婚約者との関係を保つことこそが正しく、それ以外の感情は、心の隅に押し込めておくべきものだと、疑いもなく思っていたはずだった。
だが今、その考えに、静かなひび割れが生じているのを、エレノアは感じていた。誰かに強制されたわけではない。ただ、自分自身の心の動きが、これまで当然だと思っていた道筋から、少しずつ外れ始めている。その事実を、もう完全には無視できなくなっていた。
手帳を閉じ、エレノアは旅支度の続きに戻った。荷物の一つ一つを整えながら、来週から始まる数日間が、これまでの日々とは違う何かをもたらす予感を、拭い去ることができなかった。
窓の外では、来るべき旅路を予感させるように、澄んだ冬の風が吹き抜けていった。




