先回りしてくれる人
父の勧めに従い、エレノアは候補地を実際に見て回ることになった。セドリックには、あらかじめ日程を知らせておいた。彼はモンド邸への見舞いと重なると告げたうえで、「二人で決めるべきことなのに、同行できなくてすまない」と、これまでにない詫びの言葉を添えてきた。以前なら、それすら告げずに終わっていたはずだった。
『代わりと言ってはなんだが、視察の後、感想を聞かせてほしい。僕なりに、資料には目を通しておく』
その一文にも、以前とは違う意志が感じられた。実際に足を運べないなら、せめて話を聞いて判断材料にする。小さなことではあったが、その姿勢の変化を、エレノアは素直に受け止めた。
北東の分領へは、馬車で半日の道のりだった。父とエレノアを乗せた馬車が丘陵地帯に差しかかると、遠くにモンド男爵領の境界を示す標識が見えた。
「思ったより、近いのですね」
「馬なら、半刻もかからないだろう」
その距離感を、エレノアは自分の目で確かめた。数字で聞くのと、実際に目にするのとでは、感じ方がまるで違った。
分領を管理する代官の案内で、屋敷や畑を見て回った。土地は肥沃で、灌漑の設備も整っている。だが、村の規模は小さく、代官自身が「人手が足りない」と繰り返し口にした。
「北東は、土地の質は良いのですが、いかんせん働き手が」
村を歩く途中、畑仕事をしていた老いた農夫が、足を止めて頭を下げた。エレノアが労いの言葉をかけると、農夫は少し驚いた様子で、それでも嬉しそうに応じた。
「お嬢様のような方に、直接声をかけていただけるとは。……近頃は、若い者が皆、王都や南の方へ出てしまって。畑仕事をする手が、年々減っていくばかりで」
その言葉に、エレノアは軽々しく相槌を打つことができなかった。土地の豊かさと、そこで暮らす人の数は、必ずしも比例しない。数字の上では良い土地でも、実際に支える人手が足りなければ、いずれ立ち行かなくなる。
その言葉に、エレノアはヴォルグレイブ領の話を思い出した。似たような悩みを、遠く離れた土地でも聞かされている。貴族の暮らしの裏には、どこも同じような、地道な苦労があるのだと、改めて実感した。
翌日、今度は南西の分領を訪ねた。こちらは王都に近い分、活気があり、市も定期的に開かれているという。ただし、土地はやや狭く、収穫量は北東に及ばない。
市場では、様々な商人たちが威勢よく声を張り上げていた。北東の静かな村とは、まるで違う空気だった。代官の説明によれば、王都に近いおかげで、若い働き手も定着しやすいのだという。
「こちらは、逆に土地が足りないことが悩みでして。畑を広げようにも、隣接する土地が既に他家の所有で」
どちらの土地にも、それぞれの事情と、それぞれの悩みがあった。完璧な選択肢など、どこにも存在しないのだと、エレノアは実感した。
「王都に近いというのは、色々な意味で暮らしやすいでしょうね」
エレノアがそう漏らすと、父は静かに頷いた。
「便利さを取るか、豊かさを取るか。悩ましいところだな」
「私は……どちらか一方だけでは、決められない気がします」
「ならば、両方の要素を、どう組み合わせるかを、これから考えていけばいい。今日という日は、そのための材料集めだ」
父の言葉に、エレノアは小さく頷いた。これまで、住まいのことも、暮らしのことも、与えられるものだと思い込んでいた。だが実際にこうして土地を歩き、代官の話を聞き、自分の目で確かめてみると、選ぶという行為そのものに、これまで知らなかった手応えがあった。
帰りの馬車の中で、父がふと尋ねた。
「セドリック君は、こうした視察に、これまで一度でも同行したことは」
「……いいえ、一度も」
「そうか」
それだけ言うと、父はそれ以上、深くは踏み込まなかった。だがその短い問いかけの奥に、父なりの案じる気持ちが透けて見える気がした。住まいを決めるという、これから先の暮らしに直結する話にすら、当人が一度も足を運んでいない。その事実を、父も静かに気にかけているのだろう。
視察を終えて屋敷に戻ると、ちょうどガレスから手紙が届いていた。
『先日ご相談した領地訪問の件、日程が固まりました。来月の第二週、社交シーズンの終わりに合わせて、こちらの屋敷にお招きできればと存じます。父上様にも、ぜひご一緒いただければ幸いです』
続けて、几帳面な字で、訪問の際の道中の宿の手配や、寒さ対策についての具体的な助言が記されていた。北方の冬は厳しく、王都の装いのままでは体を壊しかねない、という注意書きまで添えられている。宿場ごとの馬の乗り換えの目安や、途中で立ち寄るべき町の名まで、丁寧に記されていた。
社交辞令の招待状であれば、これほど細部まで気を配る必要はない。それでも彼は、実際に道中を歩く者の視点で、必要な情報を漏らさず書き連ねていた。
『……そういえば、住まいの候補地を見て回られると伺いました。差し出がましいようですが、もし参考になればと、我が領地で分領を選ぶ際に気をつけてきた点を、いくつか書き添えておきます』
その後に続いていたのは、水利、道の状態、冬季の孤立のしやすさなど、代官の説明にはなかった視点からの、具体的な指摘だった。エレノアは、その一つ一つを読みながら、思わず頬が緩むのを感じた。
誰かに相談されることには、この数か月ですっかり慣れていた。だが、こうして頼んでもいないのに、必要なことを先回りして届けてくれる相手には、これまで出会ったことがなかった。セドリックとの間では、いつも自分が相手のために先回りする側だった。立場が逆になる、というだけのことが、これほど新鮮に感じられるとは、思ってもみなかった。
手紙を読み終えて、エレノアはしばらく、それを手元に置いたまま過ごした。用件はすでに頭に入っている。それでも、もう一度、文面を目で追ってしまう。
その行為に、はたと気づいて、エレノアは自分でも戸惑った。これは、単なる実務的な文通のはずだった。だが最近、彼からの手紙が届くたびに、自分の中に、それだけでは説明のつかない小さな高揚があることに、気づかないふりをするのが、少しずつ難しくなっていた。
「……きっと、頼れる相手が増えたから、安心しているだけだわ」
自分に言い聞かせるように、そう呟いてみる。だがその言葉が、どこまで本心なのか、エレノア自身にも、はっきりとは分からなかった。
セドリックとのやり取りは、この一週間、確かに以前より穏やかになっていた。事前の相談も、住まいへの向き合い方も、少しずつ形になりつつある。それは喜ばしいことのはずだった。だが、その喜ばしさとは別の場所で、エレノアの心は、まったく違う種類の動きを見せ始めていた。
婚約者との関係を立て直そうとしている自分と、遠縁の相手からの手紙に、説明のつかない高揚を覚えている自分。その二つが、同じ胸の内に同居していることに、エレノアは薄々気づきながらも、まだそれを正面から見つめる勇気を持てずにいた。
手帳を開き、今日の視察のことを書き留めながら、エレノアはその最後に、いつもとは違う一行を加えた。
『ヴォルグレイブ卿の手紙を、また読み返してしまった。なぜだろう』
書いてから、少し恥ずかしくなり、その文字を指でなぞって消そうかと思った。だが結局、そのままにしておくことにした。
翌日、視察の感想を求めてきたセドリックに、エレノアは北東と南西、それぞれの土地の事情を包み隠さず伝えた。彼は資料に目を通していたと言う通り、いくつか的を射た質問を返してきた。以前なら、話半分に聞き流していたはずの話題に、少しずつ本気で向き合おうとする姿勢が見えた。
「どちらが良いか、僕なりにも考えてみる。すぐには決めず、もう少し時間をもらえるか」
「もちろんです。焦って決めることではありませんから」
その受け答えは、以前の二人には見られなかったものだった。良い方向へ進んでいる実感は、確かにあった。だがその実感と同じだけの重さで、ガレスからの手紙に対する自分の心の動きも、日に日にエレノアの中で存在感を増していた。
窓の外では、冬の夜空に、いくつもの星が瞬いていた。住まいの選択も、恋の行方も、まだ何も決まってはいない。だが、どちらの道にも、これまでとは違う光が差し込み始めていることを、エレノアは静かに感じ取っていた。




