北東の分領
式典から一週間が経った頃、セドリックから一通の手紙が届いた。
『来週の水曜、モンド男爵邸に見舞いに行く予定だ。よろしければ、その前に少し時間をもらえないか。庭園を少し歩きたい』
予定を、事前に知らせてきたのは、これが初めてだった。エレノアは、その一文を何度か読み返した。些細なことのはずなのに、これまでとの違いに、思いのほか驚いている自分がいた。
これまでなら、モンド邸に行くことも、その前後の予定も、すべて後になってから知らされるのが常だった。今回のように、前もって「行く」という一言だけでも知らされることが、これほど心の余裕につながるとは、エレノア自身、これまで実感したことがなかった。
返事には、日時を了承する旨と、庭園で少し話せることを楽しみにしている、という短い一文を添えた。書きながら、自分の気持ちが、以前より素直に動いていることに気づいた。
約束の日、二人はフォスター家の庭園を並んで歩いた。冬枯れの木々の間を、冷たい風が抜けていく。
「男爵様の具合は、いかがですか」
「だいぶ良くなった。もう起き上がって、短い時間なら会話もできるそうだ。リリアーヌも、少し笑うようになった」
セドリックの声には、心からの安堵があった。エレノアも、それを素直に喜ばしく思った。
「今日は、事前に知らせてくださって、ありがとうございます」
「約束したことだからな。……正直、こんな小さなことで、そんなに違うものかと、自分でも半信半疑だったが」
「小さなことの積み重ねが、大きな違いになるのだと思います」
その言葉に、セドリックは少し照れくさそうに笑った。この一週間、彼なりに努めているのが、言葉の端々から伝わってきた。式典の一言を代わりに述べた日から、まだそれほど時間は経っていない。だが、少なくとも今この瞬間、二人の間には、以前よりも穏やかな空気が流れていた。
「そういえば、招待客の何人かから、後日、丁寧な祝いの品が届いた。式典での君の対応を褒める言葉が添えられていて」
「……そうでしたか」
「僕にとっては、いたたまれない話だが。皆が褒めているのは、僕の不在を、君が見事に埋めてくれたことだ」
その言い方に、含みはなかった。ただ、事実をそのまま受け止めているような口調だった。エレノアは、それを聞いて、複雑な気持ちになった。褒められること自体は悪くない。だが、褒められる理由そのものが、本来なら起きるはずのなかった出来事に基づいている。
しばらく歩いたあと、セドリックがふと足を止めた。
「実は、もう一つ、話しておきたいことがある」
「何でしょう」
「父上から、結婚後の住まいの話が出た。ラングフォード領の中でも、北東の分領を、僕らに任せたいと」
「北東の……」
「モンド男爵領のすぐ隣だ。行き来もしやすいし、僕にとっては馴染みのある土地でもある」
その一言に、エレノアの中で、何かが静かに引っかかった。行き来のしやすさ、という言葉が、誰にとっての利便さなのかを、考えずにはいられなかった。
「それは、もう決まったことなのですか」
「いや、まだ候補の一つだ。ただ、父上は乗り気で……エレノアの意見も、聞いておきたくて」
「事前に相談してくださって、感謝します。ただ、正直に申し上げると、少し戸惑っています」
「戸惑う、というのは」
「北東の分領で暮らすということは、これから先も、モンド男爵家との距離が、今と変わらないということですよね」
セドリックは、その指摘に、少し虚を突かれたような顔をした。
「……そうか。そういう見方も、あるのか」
「悪気があって言っているのではありません。ただ、これから先の暮らしを考えるうえで、大事な視点だと思ったので」
「いや、エレノアの言う通りだ。僕は、住み慣れた土地というだけで、都合の良いことしか考えていなかった」
「悪いことだとは思っていません。ただ、これまでのような出来事が、また起きないとは、誰にも言い切れないと思うのです。距離が近いというのは、それだけ、関わる機会も多くなるということですから」
セドリックは、しばらく黙って庭木を見つめていた。
「……正直、そこまで考えていなかった。ただ、慣れた土地だから、というだけで」
「それも、大事な理由だと思います。ただ、この機会に、少し考えてみていただけたら」
「分かった。父上には、もう少し時間をもらうよう伝える」
その返事は、これまでよりも慎重なものだった。即答で「大丈夫だ」と流されないだけでも、以前とは違う手応えがあった。
「他に、候補地はあるのですか」
「南西の分領も、話には挙がっている。土地は少し狭いが、王都にも近い」
「私は、どちらでも構いません。ただ、決める前に、一度きちんと考える時間を持てたらと思います」
「……そうだな。今までの僕なら、きっと、住み慣れた土地というだけで、深く考えずに決めていた」
その自覚を、セドリックが自分の口で語ったことに、エレノアは小さな驚きを覚えた。責められる前に、自分から気づく。それは、これまでの彼にはなかった動き方だった。
会話が一段落すると、セドリックはふと、思い出したように切り出した。
「そういえば、ヴォルグレイブ卿とは、その後もやり取りが続いているのか」
「ええ。領地の帳簿のことで、いくつか相談を受けています」
「エレノアが、そういうことに向いているとは、正直、最近まで知らなかった」
その言葉に、悪気は感じられなかった。だが、これまで知らなかった、という事実そのものが、二人の間にあった距離を、改めて示しているようにも思えた。
庭園を一周し終える頃、日はすでに傾き始めていた。セドリックを見送ったあと、エレノアは屋敷に戻り、父に今日の話を伝えた。父は住まいの件について、しばらく考え込んだ様子だった。
「北東の分領か……。悪い話ではないが、お前が戸惑うのも無理はない」
「お父様は、どうお考えですか」
「私が口を出す話ではないが……もし迷うなら、実際に一度、両方の土地を見てから決めればいい。話だけで決めるには、大きすぎる話だ」
父の助言は、いつも通り穏当だったが、エレノアにとっては、初めて聞く視点だった。これまで、住まいの話など、ただ与えられるものだと思い込んでいた。だが実際に足を運び、自分の目で確かめるという選択肢が、最初からあったのだと気づかされた。
夕食後、エレノアが帳簿の整理をしていると、ちょうどガレスから手紙が届いた。契約先の商会との話し合いが、無事にまとまったという報告だった。
『先日は、貴重な助言をいただき、ありがとうございました。おかげさまで、来季の見通しも立ちました。もしよろしければ、社交シーズンの終わりに、我が領地の様子を、書面だけでなく、実際にご覧いただく機会を設けられないでしょうか。父上様にも、ぜひご相談いただければ』
北方の領地へ、実際に足を運ぶ。これまで、帳簿の上でしか知らなかった土地を、自分の目で確かめる機会が、思いがけない形で差し出されていた。エレノアは、その手紙をしばらく見つめた。
住まいの話も、領地訪問の話も、共通しているのは、「話だけで決めない」という姿勢だった。片方は父から、片方はガレスから、同じ日にそれぞれ示されたことに、エレノアは小さな符合を感じた。
自室に戻り、手帳を開いた。
『北東の分領の話。モンド邸に近いことを指摘すると、セドリック様、初めて考え込んだ様子』
書き終えて、エレノアは小さく息をついた。今日のやり取りは、これまでよりも建設的だったと思う。だがそれと同時に、住まいという、これから先ずっと続く話の中に、既に古い問題の種が埋め込まれていることにも、気づかずにはいられなかった。
ガレスからの手紙のことも、手帳の隅に書き添えた。
『ヴォルグレイブ領への訪問、打診あり。父上に相談のこと』
一行書き終えて、エレノアはふと、この数週間で、自分の日々が随分と様変わりしたことに気づいた。式典の準備、男爵家の急変、セドリックとの向き合い方、そして今、初めて示された領地訪問という選択肢。どれも、これまでの自分なら、ただ流されるままに受け止めていたはずのことだった。
窓の外では、夕暮れの光が、庭木の影を長く伸ばしていた。小さな前進と、消えない不安が、同じ日の中に、静かに同居していた。




