分かることと、変わること
翌朝、モンド男爵の容体が持ち直したという知らせが届いた。峠は越えたものの、本復までにはしばらく時間がかかるだろうと、医師は告げたという。知らせを持ってきた使いの者は、疲れ切った様子ながらも、ほっとした表情を隠せずにいた。
「奥様も、リリアーヌお嬢様も、ようやく一晩ぶりに眠ることができたそうです」
その言葉に、フォスター家の朝食の席にも、静かな安堵が広がった。父も、心なしか肩の力が抜けたように見えた。エレノア自身も、昨夜の重苦しさが、少しだけ和らぐのを感じた。命に関わる話が最悪の結末を迎えなかったことは、素直に喜ばしいことだった。
だが同時に、式典での出来事そのものが消えてなくなるわけではないことも、エレノアには分かっていた。
その報せにほっとしたのも束の間、昼過ぎになって、セドリックが屋敷を訪ねてきた。一晩眠っていないのだろう、目の下には濃い隈があり、髪も乱れたままだった。
「エレノア……。昨日は、本当にすまなかった」
応接間に通されるなり、セドリックは深く頭を下げた。エレノアは、その姿を静かに見つめた。
「男爵様は、峠を越えられたと伺いました」
「ああ。医者が匙を投げかけた瞬間もあったが、何とか持ちこたえてくれた。リリアーヌは、今も付きっきりだ」
セドリックは、そこで一度言葉を切り、両手で顔を覆った。
「正直、怖かった。自分が幼い頃、母を亡くしたときのことを、否応なく思い出して。あの人まで失ったら、自分はどうなってしまうのかと、そればかり考えていた」
「男爵様は、あなたにとって、お父様のような存在だったのですね」
「……そうかもしれない。物心ついたときには、もう傍にいてくれた人だ。母が死んで、父も塞ぎ込んでいた時期、あの人とリリアーヌの母上が、僕を実の子どものように可愛がってくれた。それがなければ、僕はもっと、荒れていたと思う」
その告白に、エレノアは何も言葉を返せなかった。彼の恐れが本物であることは、疑いようがなかった。だがその本物の恐れが、昨日の壇上での孤独を、少しも軽くしてはくれない。二つの事実は、同時に存在していた。
一方で、エレノアの中には、小さな疑問も残った。同じように大切に思う相手でも、事情を打ち明けてくれるかどうかで、受け取る側の気持ちはまるで違ってくる。もし彼が、式典の朝にでも、男爵の容体が思わしくないことを一言でも伝えてくれていたら――昨日という日は、少しは違う形になっていたかもしれない。
「式典のことは、聞いた。エレノアが一人で、あんな場を乗り切ったって。……本当に、情けない話だ。婚約者として、最悪の振る舞いをした」
「侯爵様からも、招待客の皆様からも、色々な言葉をいただきました。称賛も、そうでないものも」
「そうでないもの、というのは」
「あなたのことを、頼りないと仰る方も」
セドリックは、その言葉に、唇を強く結んだ。反論もせず、ただ黙って受け止めていた。
「……その通りだと思う。何も言い返せない」
しばらくの沈黙のあと、セドリックは絞り出すように続けた。
「これから、ちゃんと変わる。エレノアに、もう二度と、あんな思いはさせない」
その言葉に、エレノアは静かに首を振った。
「セドリック様。……その言葉を、私はこれまでにも、何度か聞いた気がします」
セドリックの表情が、はっとしたように強張った。
「変わる、頑張る、次からは気をつける。そのたびに、私は信じてきました。でも、次の機会がくると、結局、同じことが起きてきました」
「今回は違う。本当に、分かったんだ」
「分かった、というお気持ちに、嘘はないと思います。ただ、分かることと、実際に変わることの間には、大きな隔たりがあると、私は最近学びました」
エレノアの声は、静かだったが、はっきりとしていた。責め立てるための言葉ではなく、ただ事実を並べるような口調だった。
「では……僕は、何をすればいい」
「まず、何かを決める前に、私にも一言相談してください。今回のように、事が起きてから謝るのではなく」
「相談する、というのは、具体的に」
「大きなことでなくても構いません。予定が変わりそうなとき、誰かのために時間を割くとき、一言でいいので、先に教えてほしいのです。決まってしまってから知らされるのと、前もって知らされるのとでは、受け止め方がまるで違います」
セドリックは、真剣な顔で耳を傾けていた。これまでの彼なら、途中でどこか気の抜けた相槌を打っていたはずだった。だが今日は、最後まで、口を挟まずに聞いていた。
「例えば、リリアーヌ様のところに毎日通うことも、式典の準備が疎かになっていたことも、私は後になってから知りました。前もって、状況を教えてくださるだけでも、随分と違ったと思います」
「……そんな些細なことで」
「些細なことでは、ありません。知らされていれば、私も心構えができました。式典の一言も、もっと早くから、一人で話す前提で用意できたかもしれません」
セドリックは、はっとしたように顔を上げた。エレノアの言葉には、これまでのような遠慮がちな響きはなく、事実を淡々と積み上げるような強さがあった。
「エレノアは……いつも、そうやって、僕の知らないところで、色々なことを一人で抱えていたんだな」
「抱えていた、というより、抱えることが当たり前になっていた、というのが近いと思います」
その違いを、セドリックが理解できているかどうか、エレノアには分からなかった。だが少なくとも、これまでのように、話をはぐらかそうとはしていなかった。
セドリックは、その言葉を噛み締めるように、しばらく黙っていた。
「……分かった。次からは、そうする」
その返事に、これまでのような軽さはなかった。だが、それが本当に続くのかどうか、エレノアにはまだ判断がつかなかった。約束の重さは、言葉そのものではなく、この先の行動によってしか測れない。
「リリアーヌ様の看病は、まだ続くのですね」
「ああ。もうしばらくは、あちらに通うことになると思う」
「分かりました。何かあれば、遠慮なく仰ってください」
セドリックは、意外そうな顔をした。
「怒らないのか」
「怒っていない、と言えば嘘になります。ただ、今怒りをぶつけても、何も変わらない気がして」
「……エレノアは、強いな」
その一言に、エレノアは静かに首を振った。
「強いのではありません。ただ、怒る力さえ、今は残っていないだけです」
正直な答えだった。昨日の壇上で使い果たした何かが、まだ戻ってきていない。怒りも、涙も、今のエレノアの中には、不思議なほど見当たらなかった。ただ、乾いた疲労だけが、体の奥に沈んでいた。
その答えに、セドリックは複雑な表情を浮かべた。安堵とも、居心地の悪さともつかない色だった。
セドリックが帰ったあと、エレノアは自室の窓辺に立ち、しばらく外を眺めていた。彼の言葉を、頭ごなしに疑うつもりはない。だが、信じ切ることも、もうできなかった。
しばらくして、ガレスから短い見舞いの手紙が届いた。式典での出来事は、招待客として、当然彼の耳にも届いているはずだった。
『昨日は、大変な一日でしたね。エレノア嬢のお心の負担が、少しでも軽くなることを願っております。もし気晴らしが必要なときは、いつでも遠慮なくお声がけください』
気晴らし、という言葉の選び方に、エレノアは小さく笑みをこぼした。慰めでも、同情でもなく、実務的な提案のような響きがあった。だがその不器用な気遣いが、今のエレノアには、ちょうどいい距離感に感じられた。
手帳を開き、今日のやり取りを書き留める。
『セドリック様、相談すると約束。ただし、これまでも同じ約束を聞いてきた』
書き終えて、エレノアはふと、これまで手帳に綴ってきた言葉の数々を、初めから読み返してみたくなった。だが今は、その気力が残っていなかった。いずれ、しかるべき時に、まとめて目を通そう。そう自分に言い聞かせて、手帳を閉じた。
そのとき不意に、応接間での父の言葉が、また頭をよぎった。判断の結果を、いつもお前一人に背負わせている。セドリックとの今日のやり取りも、結局はその延長線上にあるのかもしれない。相談する、と約束はしてくれた。だがその約束を守るかどうかを見届ける役目も、また自分に回ってくる。
エレノアは、その堂々巡りに、小さく息を吐いた。今すぐに答えの出る話ではないと分かっていたが、この違和感を、もう見なかったことにはできそうになかった。
窓の外では、モンド男爵邸の方角に、うっすらと夕焼けが差し込んでいた。式典の日から、まだ一日しか経っていないことが、信じられないほど、長い一日だった。




