↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幼馴染ばかり優先する婚約者はいりません。私は辺境伯と静かに暮らします  作者: ローナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/50

これは、今日だけのことではない

壇上に立つと、大広間全体の視線が、一斉にエレノアへと集まった。静まり返った会場に、衣擦れの音だけが響く。


エレノアは、一度だけ深く息を吸った。用意していた言葉は、二人で述べるはずのものだった。互いの家族への感謝、これから築いていく生活への抱負――何度も練り直し、セドリックと分担する部分まで決めていた文章だった。だが今、隣に立つべき人はいない。その事実を隠すことはできない。ならば、隠さずに、自分の言葉で語るしかなかった。


頭の中で、練り上げてきた言葉を、瞬時に組み替える。二人称を一人称に、これからの二人の話を、今この瞬間の自分の話に。その作業を、壇上に上がるまでのわずかな時間で終わらせなければならなかった。


「本日は、私どもの婚約披露のために、遠方よりお集まりいただき、心より御礼申し上げます」


声は、思っていたよりも落ち着いて出た。招待客たちが、静かに耳を傾けている。


「セドリック様は、たった今、大切な方のご容体が急変されたとの報せを受け、急ぎ、そちらへと向かわれました」


会場に、小さなどよめきが広がった。エレノアは、それが収まるのを待ってから、続けた。


「人の命に関わる知らせを前にして、彼が迷わず駆けつけたことを、私は誇りに思っております。式典の場を離れることを、どうか、皆様には寛大なお心でお許しいただければと存じます」


その言葉に、嘘はなかった。人としての行動としては、正しい選択だったと、エレノアは今も思っている。ただ、その正しさが、自分の立たされた場所の孤独さを、少しも和らげてはくれなかった。


「本来であれば、これより婚約者と二人で、皆様への感謝の言葉を述べる予定でございました。恐れながら、その一言は、私一人の言葉として、お聞き届けいただければ幸いです」


会場のどこかで、誰かが小さく息を呑む音がした。だがそれ以上、動揺の色が広がることはなかった。エレノアの淡々とした語り口が、かえって場を静めているようだった。


エレノアは、そこで一度言葉を切り、会場を見渡した。ガレスの姿が、末席で静かにこちらを見つめている。父の顔には、心配と、それを上回る誇らしさが浮かんでいた。


「フォスター家とラングフォード家、二つの家が、今日という日を迎えられましたのは、両家の支えと、この場にお集まりくださった皆様のお力添えあってのことと、深く感謝しております。至らぬところの多い私ですが、これからも変わらぬご指導を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます」


言い終えると、会場には、少しの間を置いてから、温かな拍手が広がった。同情からの拍手であることは、エレノアにも分かっていた。それでも、その拍手が、今の自分を支える唯一のものだった。


壇上を降りると、真っ先に父が駆け寄ってきた。


「よくやった。……見事だった」


父の声は、わずかに震えていた。エレノアは、ようやく詰めていた息を吐き出した。


続いて、ラングフォード侯爵が青ざめた顔で歩み寄ってきた。


「エレノア嬢……。息子が、とんだ失礼を。何とお詫びすればよいか」


「いいえ、侯爵様。誰も悪くはございません。人の命に関わることですから」


「しかし、よりによって今日という日に……。あれほど念を押しておいたというのに」


侯爵は、悔しさを滲ませながら、そう漏らした。念を押していた、という言葉に、エレノアは小さな引っかかりを覚えた。父も、侯爵も、それぞれにセドリックへ念を押していた。それでもなお、彼は迷わず会場を後にした。念を押すという行為そのものが、そもそも彼には効いていなかったのかもしれない。


「侯爵様のせいでは、ございません。どうか、頭を上げてくださいませ」


「……エレノア嬢の寛大さに、甘えさせていただくことになる。本当に、申し訳ない」


そう答えながら、エレノアは自分の声が、驚くほど平坦であることに気づいた。怒りも、悲しみも、今はまだ、どこか遠くにあるようだった。ただ、やるべきことを、やり終えたという感覚だけがあった。


歓談の場が再開されると、招待客たちは口々にエレノアの落ち着きを称賛した。「あの状況で、あれほど立派に振る舞える令嬢はそういない」という声も、そこかしこから聞こえてきた。中には、遠回しにセドリックの不在を非難する声もあった。


「花婿殿は、いささか頼りない方のようですな」


年配の貴族が、笑いを含んだ声でそう漏らすのが聞こえた。悪意というより、単なる世間話のつもりなのだろう。だがその一言は、エレノアの胸に、思いのほか深く刺さった。称賛の言葉も、こうした揶揄も、結局は同じ光景――婚約者を欠いた壇上の令嬢――から生まれている。称賛の言葉は、耳を素通りしていくばかりで、心には何も残らなかった。


式典が終わり、招待客たちが帰り始めた頃、ガレスが静かに近づいてきた。


「見事な対応でした」


短い一言だった。だがその声には、他の誰の称賛とも違う響きがあった。


「本来、あってはならない事態でした。褒められるようなことでは」


「あってはならない事態の中で、最善を尽くすことと、事態そのものが起きなかったことにするのは、別の話です。エレノア嬢は、前者を成し遂げられた」


その言葉に、エレノアは初めて、今日一日で張り詰めていたものが、少しだけ緩むのを感じた。


「正直に申し上げますと、壇上に上がられる前、エレノア嬢の顔から血の気が引いているのが見えました。それでも、話し始めてからは、誰一人、その動揺に気づかなかったでしょう」


「……見ていらしたのですね」


「はい。何もできませんでしたが、見ておりました」


何もできなかった、という言葉に、エレノアは小さく首を振った。


「見ていてくださっただけで、十分でした」


自分でも、思いがけない言葉だった。だが口にしてみると、それが偽らざる本心であることに気づいた。誰かが自分の孤独を、遠くからでも見ていてくれたという事実が、あの壇上での時間を、少しだけ違うものに変えていた。


「……ありがとうございます」


ガレスはそれ以上、多くを語らず、静かに一礼して帰っていった。その背中を見送りながら、エレノアは、称賛の言葉と、認められた実感の違いを、改めて噛み締めていた。


帰りの馬車の中で、父はしばらく黙ったまま、窓の外を見つめていた。エレノアも、疲れ切った体を座席に預け、何も言わずにいた。


「エレノア」


屋敷に着く直前、父がようやく口を開いた。


「今日のお前は、立派だった。だが、私は父として、素直に喜べない気持ちもある」


「……どういうことでしょう」


「本来、あの壇上に一人で立たされるようなことが、あってはならなかった。お前がどれほど立派に振る舞おうと、そもそもそうした場面を作らせてしまったことに、私にも責任がある」


父の声には、これまで聞いたことのない自責の色があった。


「セドリック君のことは、これまでも、多少のことは目を瞑ってきた。だが、今日という日にまで、それが及ぶとは、私も見誤っていたのかもしれない」


エレノアは、その言葉に、すぐには何も返せなかった。父の自責を否定することも、肯定することも、どちらも今の自分には難しかった。


「……お父様のせいでは、ありません。それに、セドリック様の判断そのものは、間違っていなかったと思います」


「判断は、間違っていなかったかもしれない。だが、判断の結果を、いつもお前一人に背負わせているという事実は、変わらない」


その一言が、これまでエレノアがぼんやりと感じていたことを、はっきりとした輪郭に変えた。


屋敷に戻ったエレノアは、疲れ果てた体を椅子に沈めながら、手帳を開いた。今日一日のことを、どう書き記せばいいのか、しばらくペンが進まなかった。


やがて、静かに一行だけ書いた。


『今日、私は一人で壇上に立った。誰も、私の代わりにはなってくれなかった』


書き終えて、エレノアはその文字を、じっと見つめた。これまで、誰かのために、当たり前のように立ってきた。だが今日、初めて、自分がその「当たり前」の中で、どれほど一人だったかを、はっきりと思い知らされた。


父の言葉が、繰り返し頭の中に蘇る。判断の結果を、いつもお前一人に背負わせている――それは、式典の壇上だけの話ではなかった。誕生日の夜も、慈善バザーの品も、この数か月のあらゆる場面で、繰り返されてきたことだった。


これまでは、その一つ一つを、仕方のないこととして受け流してきた。だが今夜、それらが初めて、一つの線としてつながって見えた。


エレノアは、もう一行だけ書き加えた。


『これは、今日だけのことではない』


短い一文だったが、これまで手帳に記してきたどの言葉よりも、はっきりとした重みを持っていた。


窓の外は、すでに夜の帳が下りていた。モンド男爵の容体が、その後どうなったのかは、まだ何も知らされていない。式典は終わった。だが、エレノアの中では、何かが終わったのではなく、むしろ、これからが始まろうとしている気配があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。