壇上に、一人
式典当日は、雲一つない冬晴れだった。
フォスター家の大広間は、朝から花と燭台で飾り立てられ、これまで見たことのない華やかさに包まれていた。エレノアは、何度も見返した式次第を手に、最後の確認を済ませていく。招待客は続々と到着し、両家の使用人たちが忙しく立ち働いていた。
身支度を整えている間、マーサが鏡越しに声をかけた。
「お嬢様、緊張なさっていますか」
「……少しだけ。でも、これだけ準備をしたのだから、あとは臨むだけだわ」
そう答えながら、エレノアは自分の声が、思ったよりしっかりしていることに気づいた。この数か月、招待客の名簿と、席次と、進行の手順に向き合い続けてきた。今日という日を、誰よりも隅々まで知っているのは、自分だという自負があった。
「エレノア嬢。今日は、おめでとうございます」
招待客の列の中に、ガレスの姿もあった。旅装ではなく、きちんと仕立てられた式典用の装いに身を包んだ彼は、いつもより少し硬い表情をしていた。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「末席から、静かに見届けさせていただきます」
その一言に、エレノアは小さく頷いた。多くの祝いの言葉に囲まれる中で、その簡潔な一言が、不思議と一番心に残った。
「本日は、良いお式になりそうですね」
「ええ。ここまで来られたのも、多くの方のおかげです」
エレノアがそう答えると、ガレスは小さく目を細めた。
「多くの方、の中に、エレノア嬢ご自身の力が、一番大きいと思いますが」
その一言に、エレノアは何と返せばいいか分からず、曖昧に微笑んだ。他の招待客からの祝いの言葉とは、少し違う響きが、その言葉にはあった。
式典は、滞りなく進んでいった。開式の辞に続き、ラングフォード侯爵が両家を代表して挨拶に立った。長年の付き合いと、二つの家の未来について語る侯爵の声は、朗々と会場に響いた。次いで父が短い謝辞を述べ、婚約の正式な披露が高らかに宣言される。招待客たちの拍手が、大広間いっぱいに広がった。
父もラングフォード侯爵も、これまでの苦労が報われたような、穏やかな表情を浮かべていた。エレノアは、その光景を見ながら、これまでの数か月の慌ただしさが、ようやく形になったことを実感していた。
セドリックは、式典の前半、いつになく真面目な顔で挨拶回りをこなしていた。エレノアの隣に立ち、招待客の一人一人に丁寧に頭を下げる姿は、これまで見てきた彼とは、少し違って見えた。
「今日は、ちゃんとやるよ」
開式の前、セドリックは小さくそう囁いた。エレノアはその言葉に、わずかな期待を抱いた。今日という日を、初めて彼が自分のこととして受け止めているのかもしれない、と。
会場の外では、冬の澄んだ空気の中、馬車が次々と到着していた。フォスター家に縁のある親族、ラングフォード侯爵家の関係者、社交界の名だたる面々。誰もが、今日という日の意味を分かった上で、この場に集まっていた。
歓談の時間になると、招待客たちがそれぞれに二人へ祝いの言葉をかけに来た。エレノアは、その一人一人に礼を返しながら、視界の端でセドリックの様子をうかがっていた。彼は終始、隣に立ち、これまでにない真剣さで応対を続けていた。
「今日のあなた、いつもと少し違いますね」
歓談の合間、エレノアが小さくそう言うと、セドリックは照れくさそうに笑った。
「今日ぐらいは、ちゃんとしないと。エレノアには、これまで散々世話をかけてきたから」
その言葉に、嘘は感じられなかった。式典の意味を、彼なりに受け止めようとしている様子が伝わってきた。エレノアは、その変化を素直に喜ばしく思った。
式次第は順調に進み、あとは締めくくりとして、二人からの一言を残すだけになった。招待客たちの視線が、壇上に立つ二人へと集まり始める。エレノアは、これまで練り上げてきた言葉を、静かに頭の中で確認していた。
そのとき、会場の隅で小さなざわめきが起きた。息を切らした使いの者が、人混みをかき分けるようにして、セドリックのもとへ駆け寄ってくる。
「セドリック様……! 大変です、モンド男爵様が……!」
囁くような声だったが、近くにいたエレノアの耳には、はっきりと届いた。セドリックの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……容体が」
「先ほど急変されたと。お医者様も、今夜が山だろうと。リリアーヌお嬢様が、セドリック様にすぐ来ていただきたいと」
セドリックの手から、招待客への挨拶のために持っていた扇子が、音もなく床に落ちた。彼はそれを拾うことも忘れ、ただ呆然と使いの者を見つめていた。
セドリックは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。周囲の招待客たちは、まだ何が起きているのか気づいていない。壇上に上がる二人を、笑顔で待っている。
使いの者は、さらに声を潜めて付け加えた。
「お屋敷を出る前、リリアーヌお嬢様は、涙を堪えながら『どうか、来てほしい』とだけ仰いました」
その言葉に、セドリックの表情が、目に見えて崩れた。エレノアは、その顔に浮かぶ苦悩が、演技でないことを理解した。誰かを見捨てる決断など、彼にはこれまで一度も迫られたことがなかったのだろう。
「セドリック様」
エレノアが小さく呼びかけると、彼は弾かれたようにこちらを見た。その目には、これまで見たことのない、追い詰められたような色が浮かんでいた。
「……エレノア。すまない」
「今夜が山、と」
「ああ……。行かないと」
その一言に、エレノアは何も答えられなかった。式典はまだ終わっていない。壇上には、これからまさに二人で立とうとしていた。招待客たちの視線は、すでにこちらに集まり始めている。父も、離れた場所からこちらの異変に気づいた様子で、眉を寄せていた。
「一言だけでも、済ませてからでは」
「……分からない。もし、間に合わなかったら」
セドリックの声は、震えていた。演技でも、言い訳でもない、本物の恐れが滲んでいた。エレノアは、その恐れを否定する言葉を持たなかった。人の命に関わることの前で、式典の体裁を優先しろとは、口が裂けても言えなかった。
もし今、自分がここで彼を引き止めたなら、それは一体、誰のための引き止めになるのだろう。式典の体裁のためか、自分の誇りのためか。エレノアには、とっさにその答えが見つからなかった。
だが同時に、壇上に一人残される自分の姿が、否応なく頭をよぎった。この数か月、招待客の名簿を整え、席次を決め、進行の一つ一つを詰めてきたのは、他ならぬ自分だった。その締めくくりの瞬間に、隣に立つはずの人がいない。
「エレノア。……頼む。あとのことは」
その先の言葉を、セドリックは最後まで言わなかった。ただ深く頭を下げると、招待客たちの視線を振り切るようにして、足早に会場を後にした。
その背中を見送りながら、離れた場所に立っていたラングフォード侯爵が、こちらの異変に気づいたのが分かった。侯爵の眉間に、深い皺が刻まれる。父もまた、何かただならぬ事態が起きたことを察したらしく、こちらへ足を向けようとしていた。だが、招待客たちの間を縫って進むには、あと少し時間がかかりそうだった。
残されたエレノアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。壇上に上がる時刻は、もう目の前まで迫っている。招待客たちのざわめきが、少しずつ大きくなっていくのが分かった。セドリックの姿が急に消えたことに、誰もが気づき始めていた。
人混みの向こうに、末席に控えていたガレスの姿が見えた。彼は立ち上がりも、こちらに歩み寄りもせず、ただ静かにエレノアの様子を見つめていた。声援でも同情でもない、ただ「見ている」という事実だけが、なぜか今のエレノアには、かすかな支えのように感じられた。
「エレノア様、そろそろお時間が」
進行役の家令が、遠慮がちに声をかけてくる。その声には、隠しきれない戸惑いが滲んでいた。式次第のどこにも、婚約者不在の壇上など、書かれてはいない。
エレノアは、視線を上げた。両家の名誉のかかった式典の壇上に、婚約者のいないまま、一人で立たなければならない瞬間が、すぐそこまで来ていた。これまで幾度となく、彼の代わりに何かを引き受けてきた。だが今日という、二人にとって最も大切なはずの日に、これほど大きな形でそれを引き受けることになるとは、想像もしていなかった。
招待客たちのざわめきの中に、戸惑いと、小さな同情の色が混じり始めているのが分かった。誰もが、婚約披露の壇上に一人で立つ令嬢という、前例のない光景を、固唾を呑んで見守っている。
深く息を吸い込み、エレノアは壇上へと続く数段の階段に、足をかけた。今この瞬間、何を話し、どう振る舞うかによって、フォスター家とラングフォード家、そして自分自身の立場が、大きく左右されることを、痛いほど分かっていた。




