第8話 私の願いを聞いて下さる?
喉から絞り出した私の声は聞き取れないほど小さく、震えて、掠れている。エルネストは、ベッドの端に腰かけたまま、その柔らかそうな髪を掻きむしり……深く息を吐いて、両手で頭を抱えた。沈黙が、私達の間を支配する。私は、ブランケットを身に巻き付け、彼に小声で問いかけた。
「……何も、しないのですか」
エルネストは、暫く頭を抱えていたが。やがて、両手を上げて首を振った。
「……震えてる女をいたぶるほど、俺はゲスじゃねえよ」
再びの、沈黙。暖炉にくべられた薪が、パッと一瞬赤く燃え上がる。それを合図にしたように、エルネストは「はあー」と大きく息を吐いて、ベッドに仰向けに寝転んだ。私は、咄嗟にブランケットを肩まで引き上げて、ヘッドボードに背を押し付ける。彼は横たわったまま髪をかき上げ、「ははっ」と笑った。
「だから、ごめん、って。怖い思いさせて、悪かったよ。……ほら」
彼は先程剥ぎ取った真っ白なドレスを、こちらに放り投げる。私は何も答えなかったが、彼は気にも留めない様子で、目を閉じて言った。
「着ろよ。風邪引くと可哀想だし。俺、こうしてるから」
彼は、目を閉じたまま動かない。私は、訳も分からないまま、そっと手を伸ばしてドレスを引き寄せ、ブランケットの中でごそごそと着直した。少しして、エルネストは「もういいよな?」と目を開けて、申し訳なさそうに言った。
「そのドレス、少し破いちまった。ごめん。雪みたいに真っ白で、あんたにピッタリだったのに。代わりのを用意してやるから、許せよ」
私は無言で彼を見つめる。彼は「ははっ。そう簡単には許してくれないか」と呟き、体を起こして私と向き合った。
「で、何だって? 俺に、頼み事があるって?」
エルネストの雰囲気からは、先程のような攻撃性はもう消え失せている。私は、何が何だか分からず、戸惑いながら頷いた。彼は「へえ?」と楽しそうに笑った。
「俺に乱暴されるかもしれない、って時に、体と引き換えに頼み事、か。初対面の時にも思ったけど、あんた、度胸あるね。さすがは噂の氷姫さんだな。……面白い。言ってみろよ」
彼は低く魅惑的な声でそう言って、私を見つめた。どうやら、真剣に聞いてくれそうだ。私は頷き、ずっと考えていたお願いを切り出す。
「……辺境伯閣下のお力を、貸して頂きたいのです。ヴェノワ家を……私の弟を、助けるために」
彼は無言で聞いている。続きを待っているらしい。私は覚悟を決めて、ヴェノワ伯爵家の現状を、順序立てて彼に伝えた。彼は時折頷きながらも、余計な口を挟まずに聞いている。
話が全て終わり、沈黙が下りる。ベッドに寝転んで肘をついて聞いていたエルネストが、「なるほどな」と笑って体を起こした。彼の陶器のような肌に、翡翠の瞳に、アッシュブロンドの髪に、月光が冷たい陰影を作る。その悪魔的な美しさに、私の背筋がぞくりとした。
「つまりあんたは、俺に、そのミゲルって奴を屋敷から追い出すために、武力を貸せ、と言うわけか」
「……いいえ。辺境伯には、ある書類にサインをして頂きたいのです」
首を振ってきっぱり言う私に、彼は驚いたように目を見開いた。
「書類にサイン? どういうことだよ」
私はベッドをするりと下り、持参した小さな荷物から、ヴェノワ家の紋章入りの封筒を取り出した。私はベッドの端に腰かけ、それを恭しく彼に差し出す。
「これは、私が貴族院から取り寄せた、異議申立書ですわ」
エルネストは封筒を開け、中の書類に目を走らせている。私は言った。
「それは、ミゲルをアンジュの後見人とすることに反対する、申立書です。こちらに、署名人の欄があります。辺境伯も御存じでしょう、貴族法が、この春に改正されたことを? 後見人制度は、以前は、申請に異議を唱えることが出来なかった。けれど今は、親族のうち、2名以上の者が反対すれば申請を無効に出来る。ミゲルはそれを知らない」
私は、貴族法の改正を、論考紙で知った。相次ぐ貴族の相続不正を防止するための、今回の改正。けれどミゲルは、それを知らない。あの男には、私の計らいで、論考紙ではなく、ゴシップだらけの雑報紙しか渡していないから。
エルネストは書類から目を上げ、面白そうに私を見ている。私は冷静に続けた。
「ヴェノワには、他に親族はいません。このままだと、異議申立人が足りずに、ミゲルが後見人に決まってしまう。でも、もしも、辺境伯閣下が私の夫となって下さるのなら。あなたはヴェノワの姻族となり、ここに署名することが出来る。……どうでしょう、辺境伯閣下? どうか、私達に、助力をお願い出来ませんか。アンジュが13になるまで、あと半年なのです。今すぐにこれを出さなければ、ミゲルが彼の後見人に決まってしまう」
「……あんた、面白い女だな」
「えっ?」
彼は、膝の上に肘をつき、いかにも興味深そうに私を見ている。
「あんたの言う通り、確かに、貴族法は春に改正された。内容も、その通りだ。だが、爵位も持っていない、ただのご令嬢がそんなことを知っているとは驚いた。……どこで知った?」
「……論考紙、ですわ」
「論考紙? あんたがあれを、読んでんのか?」
「ええ。私は以前から、父に届く論考紙を、よく読んでいました。ヴェノワの屋敷には、大きな書庫があって、私はよくそこで本を読んでいたので。論考紙も、私にとっては楽しい読み物ですわ」
エルネストは顎に手をかけ、「なるほどね」と感心したように頷いている。私は言った。
「それで、辺境伯閣下……」
エルネストは「ああ、それだけど」と気軽な様子で右手を振った。
「俺のことは、エルネストでいいよ。敬語も不要だ。俺、堅苦しいの嫌いだから。そもそもあんた、今23だろ? 俺と同い年だ、って知ってた?」
エルネストと私が、同い年? それは初耳だ。私が驚いていると、エルネストが笑った。
「あ、知らないか。実はそう。だから、ってわけでもないが、気遣いは不要だ。気軽に話せよ」
「……分かったわ。では、エルネスト。教えてもらえる?」
エルネストは目を見開き……魔性の微笑みを浮かべて、甘く沈んだ声で囁いた。
「いいね、それ。その方がずっと……そそられる」
エルネストはスッと手を伸ばし、胸元を流れ落ちる私の髪を、指先でゆっくりと梳いていく。私の鼓動が高まるが、勘違いしたら恥ずかしい。きっとエルネストのこの行動に、大した意味は無いのだ。単に彼が、天性の女たらしなだけ。だから私は、彼の指先の優しさなど無視し、真顔で言った。
「あなたは、なぜ私に求婚を? あなたと私は、面識などないのに」




