第7話 真夜中の訪問者
食後、私は逸る気持ちを抑えて、何食わぬ顔でラウラと共に部屋に戻った。ラウラが、結い上げていた私の髪を解いて、ナイトドレスを着せてくれる。私が持参したドレスはほんの数着だけれど、この雪のように白い絹のドレスは、着心地が良くて私の一番のお気に入りだ。眠り支度が全て済むと、ラウラが「お休みなさいませ」と笑顔で出て行く。
窓の向こうに、秋の大きな美しい月が輝いていた。私はリボンで軽く髪を束ね、ワードローブから毛皮のケープを引っ張り出す。先ほど食事室から帰る際、ラウラにさりげなく二階の指揮官室の場所を聞いておいたから、場所は頭に入っている。
「上手くいけば、いいけれど」
音を忍ばせて、そっと私室の戸を開ける。すかさず、扉の両側から鈍く光る長い槍が二本、十文字にクロスするようにぬっと伸ばされた。
「きゃあっ?!」
私は驚き、悲鳴を上げて身を引く。金属製の兜を目深にかぶった兵士の一人が、抑揚のない冷たい声で言った。
「閣下より、この部屋を出るな、とのお達しです。どうぞ、お部屋へお戻り下さい」
私は二の句が継げず、じりじりと後ずさりする。私の目の前で、扉が無情に閉められた。恐怖に、心臓がばくばくと音を立てている。私はよろめきながら、どさっと暖炉前の椅子に腰かけた。胸に手を当て、詰めていた息を長く吐く。動悸が、なかなか収まらない。あんな鋭い槍を間近で見たのは、人生で初めてだ。
「び、びっくりした……まさか、あんなに厳格に監視していたなんて! 辺境伯は、本当に、ここから私を出すつもりはないみたいね。護衛どころか……まるでこれでは、監禁だわ! 一体、どういうことかしら……」
私は暫くじっとその場で考えていたが、諦めて肩をすくめ、毛皮のケープを脱いだ。
「一人で考えていても、答えは出ないわね……。仕方ないわ。明日の朝ラウラに言って、是が非でも辺境伯に会わせてもらいましょう。平気よ、きっと上手くいくわ」
暖炉の火は変わらず、パチパチ、と優しい音を立てていた。私は、暖炉脇の籠から何本かの薪を取り、燃える火にくべた。頬が、炎に照らされてほんのり温かい。そのぬくもりが、次第に、私の瞼を重く、冷え切っていたこの身を、弛緩させていった。今朝ヴェノワの屋敷を出たのは、まだ夜も明けきらぬ頃だったのだ。私は、暖炉前の椅子に腰を下ろす。温かくて、いい気持だ。私は、ふかふかのクッションに埋もれ、いつの間にか目を閉じていた。
それから、どれだけの時間が経っただろう。する、と空気の動く気配に、私はハッと目を覚ます。
暖炉の炎は変わらず静かに燃えている、が、辺りは仄暗い闇に沈んでいた。カーテンの閉められていない窓から、白い月光が室内に差し込んでいて……目の前で動く大きな黒い影に、私の息が、止まりそうになる。
「だ……誰……!?」
私が驚いて体を起こす前に、その影は、いとも容易く私の体を抱き上げていた。体が宙に浮く感覚に、私は悲鳴を上げる。くすくす、と密やかな笑い声が聞こえた。
「……慌てんなって。俺だよ」
この声は……エルネスト? 私は訳が分からず、必死に抵抗する……が、彼はお構いなしに私を楽々と運び、ベッドに押し倒した。
「な、何を……」
「決まってんだろ? あんたは俺の、婚約者なんでね」
彼は笑って、私をベッドに組み敷いた。こちらを見下ろす彼の翡翠色の瞳が、月光を受けて、宝石の如く美しく、無慈悲に輝いている。
「やめ……」
エルネストに会って、話がしたいと思ってはいたけれど。こんな展開になるとは、予想もしていなかった。私はすっかり動転していたし、寝起きなのもあって、頭がうまく働かない。私は、混乱したまま、彼の背越しに見える自室の扉を見た。内鍵は、しっかりかかっている。私は、エルネストを見上げて言った。
「なぜ……部屋の鍵は、閉まっているのに。あなたは、一体どうやって、ここに……」
「あれ、ラウラに聞かなかった? あっちの扉のこと」
彼は顎をしゃくる。私は、顔だけをそちらに振り向けた。そこには……午後に私が何をしてもビクともしなかったあの扉が、あっけなく開かれていた。エルネストは美しく微笑んで、事も無げに言う。
「あの扉、俺の寝室と繋がってるから。悪いけど、ドアノブと鍵は、当主の、つまり男の方にしかねえんだよ。あんたの部屋の方からは開けられないし、鍵すらかけられない。つまり辺境伯夫人は、黙って夫の訪問を受け入れろ、ってわけだ。可哀想だね、女の人って」
エルネストは、微塵もそう思っていないだろう平坦な声で言い、私を見下ろした。私は焦って「やめて、待って」と身をよじるが、身動きが取れない。大体、目の前のこの男は、ただでさえ腕力に優れた武人なのだ。彼は私の両手首を優しく掴んでいるだけに見えるのに、私の両腕は、針で縫い付けられたように、ぴくりとも動かせない。
(落ち着いて。これは、最大のチャンスよ。彼に、私の話を……)
頭では、そう分かっているのに。私の喉は張り付いて、声が出ない。意思とは関係なく体が震え、動悸は激しく、呼吸が浅くなる。怖い……。エルネストは、私の首筋に、慎重な視線を這わせた。
「綺麗な肌してるな。でも……体の方は、どうなんだろうな?」
エルネストはそう言うや否や、私のドレスをいとも容易くはぎ取った。私の、未だ男を知らない無垢の裸体が、窓から差し込む白い月光の下にさらけ出される。エルネストの視線が、誰にも触れられたことの無い私の肌の上を、慎重に滑っていった。私は観念して、目をぎゅっと瞑る。
静かだった。窓ガラスが、カタカタと、淋しそうな夜風に揺れる。暖炉の火が、パチパチと静かに爆ぜる。永遠にも思える時間が、私の上を音もなく通り過ぎていった。
私は、ガタガタと、自分でも分かるほど震えていた。怖い。声が出ない。でも。
(アンジュが、私を待っているのよ……あの、古ぼけて寒々しい、離れの一室で)
私は、ぐ、と涙をのみ込んだ。そして、掠れた声で囁く。
「辺境伯、閣下……」
エルネストが、ぴた、と動きを止めた。私は、ドッドッと心臓が激しく体内で打つのを聞きながら、ゆっくり体を起こす。エルネストに押さえ付けられていたはずの私の体は、いつの間にか自由になっていた。髪を束ねていたリボンがするりと解け、私の長い菫色の髪が、私の素肌の上を滑らかに滑り落ちる。私は、怪訝な顔で私を見つめているエルネストに、真剣な声で訴えた。
「ガルディエ辺境伯閣下。私のこの身……喜んで、あなた様に差し上げます。いいえ、この体だけではありません。あなた様がこの婚姻で望むものを言って下されば、どんなことであれ、私はご協力致しましょう。だからどうか、私の願いを、聞いて下さい。私はあなた様に、どうしても助けて頂きたいことがあって、この求婚をお受けしたのです」
エルネストは、真正面で、驚いたように目を見開く。私の体は小刻みに震えて、唇も閉じていられない。しかも、私はこんな姿なのに、エルネストの方は、着衣も全く乱れておらず、絹のシャツはきちんとボタンもかけられたまま、焦げ茶のトラウザーズも、優雅な光沢で彼の長い足を覆っている。どこからどう見ても……彼は平常心だった。
(これじゃあ、あまりに不公平じゃないかしら。私だけが、裸だなんて……)
政略結婚なんて、こんなものかもしれないけれど。私は、この状況のあまりの恥ずかしさに耐えかねて、そっと目を伏せ、両腕で体を覆った。身を差し出す、とは言ったものの。今日初めて会ったばかりの男の前に、こんな姿を晒しているなんて。恥ずかしいにも、程がある。
ふいに、エルネストが私から目を逸らし、ベッドの端に腰かけた。そして、こちらも見ないまま、ブランケットを乱暴に放ってくれる。月光に淡く照らされた彼の整った横顔が、微かに上気していた。私は戸惑って、「あの……」と声をかける。一瞬、私達の視線が絡む。が、彼は再び、ふい、と目を逸らし……私から顔を背けたまま、ぼそりと呟いた。
「……ごめん……」
「……え?」




