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氷姫の婚礼 ー氷の令嬢と野獣辺境伯の危険な関係ー  作者: 愛崎アリサ


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第38話 アイリスの活躍

 私が、アンジュに手を伸ばして叫んだ時。ミゲルの顔が、突然ぐにゃりと歪んだ。と同時に、口角がバリリッ! と激しい音を立てて耳まで裂け、黄ばんだ牙の並んだ口が現れる。ずるん、と黒い巻き毛の頭が剥(む)け、口からは青黒い分厚い舌が飛び出て唾が滴(したた)った。拳を固めて走っていたアンジュの叫び声が、怒りから恐怖へと変わる。私は「アンジュ!!」と悲鳴を上げていた。


「わ、わあああ?! ば、化け……」


 ミゲル、だったはずのものが、ワイン樽の上からアンジュに飛びかかる!


「きゃあああ!! アンジュ!!」


 私の悲鳴と、アンジュの「うわっ!」と言う声、どさっと倒れる音。アンジュは恐怖のせいか、足をもつれさせて転び、その上を化け物が飛び過ぎる。間一髪でアンジュは難を逃れたが……。私は、その『化け物』の姿を目の当たりにして、叫んでいた。


「ラ……ラジール?! まさか!!」


 目の前で灰色の尻尾を揺らし、凶悪な顔で舌なめずりをしているのは……ガルディエの城壁で見た、ラジールそのものだった。私の脳裏に、エルネストの言葉が鮮明に蘇る。


『人に入ったラジールが宿主の体を喰い尽くせば、奴は外に出て来てしまう……』


 あの霧の朝、ミゲルは庭にいたと言った……屋敷に入る直前、奇妙な高揚感を感じた、とも。では、ラジールの魂は、ミゲルの中に?! でも、どうして……。


(エルネストは、暫くヴェノワに兵を潜伏させて、異常がないか監視していたと言っていたわ。ラジールの魂が人の体内に留まるのは三月(みつき)程度であり、それを超えれば心配は無いから、兵を引き上げたと!)


 あの用心深いエルネストが、そんな重大なことを見誤るはずはない。だが、理由は分からなくとも、目の前には、現実にラジールがいる。私は、転んだまま呆然としているアンジュの腕を、ぐい、と引っ張った。


「アンジュ、立って!! 早く! 逃げるのよ!!」


 私達は全速力で扉目掛けて走る。ダンッ!という音と共に、ラジールがワイン樽を蹴って私達の前に躍り出た。速い! あの城壁で見た、敏捷(びんしょう)な奴らの動きを思い出す。


「わああっ、姉様!! 化け物が……!!」


「アンジュ!! こっちへ!!」


 私は叫ぶアンジュの手を引き、ワイン樽の列を器用に抜けて行く。ダンッ、ダンッ、と樽の上を渡りながら、ラジールが私達を追って来る!


(どうしよう……どうしよう! 焦ってはだめ、落ち着いて、考えるのよ! ラジールについて、知っていることは……)


 私は必死に、ガルディエの書物で学んだラジールの生態を思い出していた。霧深きラジール大森林に生息する奴らの弱点は……火と、陽の光! 私はアンジュと共にワイン樽の間を駆け抜け、開いた扉から差し込む陽光の中に滑り込む。


 私達を追っていたラジールの動きが、ぴたりと止まった。今にも私達に飛びかからんとしていたラジールは、ぐるる、と低い唸り声を上げて、体を揺らしながら、樽の影の暗がりに潜んでこちらを凝視している。一歩たりとも、光の中には出てこようとしない。やはり! 奴らは、陽光の下では動けない!


「アンジュ!! 急いで、外へ!! 奴をここに閉じ込めるのよ!!」


 私達はワイン蔵の外へと転がり出た。そして、二人で体当たりしながら、黒い真鍮の枠のついた重い木の扉を勢いよく閉める。太い閂をかけた時には、私もアンジュも、ぜえぜえと肩で息をしていた。アンジュが震えながら叫んだ。


「姉様!! あ、あの化け物は、なに?! ミゲルが……ミゲルが、悪魔になった!」


 私は、顔面蒼白なアンジュを見下ろし、口を噤(つぐ)む。ラジールのことは、絶対に、他言するわけにはいかない……ガルディエの……私の愛する、エルネストの名誉にかけて!


 私は、荒い呼吸をしながら言った。


「……分からない。けれど、姉様に考えがあるわ。急いで屋敷に戻りましょう!」


「で、でも、あいつが外に出てきたら!!」


 私は空を仰ぐ。今日は雲一つない晴天だ。空はどこまでも透き通った水色で、白い太陽が、冬の初めの大地を照らしている……。


 私は静かに言った。


「昼間は平気よ……多分ね。問題は、夜。霧が出る前に、なんとかしなければ!」


 アンジュと共に屋敷に入ると、邸内は騒然としていた。二階から、マーサに付き添われたギュスタフが、腰を押さえながらよろよろと下りて来る。


「ギュスタフ!!」


 駆け寄る私とアンジュに、ギュスタフは「お嬢様! アンジュ坊ちゃん!」と泣き笑いで言った。


「マーサに、アンジュ坊ちゃんのことを聞きました。この度は、本当に、おめでとうございます! この老ギュスタフ、やっと、天国にいる旦那様と奥様に嬉しい報告が……」


 おいおいと泣き始めるギュスタフに、私は慌てて言った。


「ギュスタフったら! 今は、そんなことより、あなたが心配だわ! 何があったの? 怪我は……」


 心配そうに覗き込む私に、ギュスタフは腰をさする。


「なに、大したことはございませんよ。ただ、ミゲル殿に立ち上がりざまに蹴っ飛ばされて、腰が痛むくらいで……」


 私の傍にいたアンジュが、わんわん泣きながら言った。


「ギュスタフが死ななくて、本当に良かったよ! あんな化け物なのに!!」


「はて? 化け物……まあ確かに、ミゲル殿は乱暴ですが……」


 ギュスタフは首を傾げる。恐らく、ミゲルは、まだラジールに変貌していなかったのだ。でなければ、ギュスタフはとっくに食われているに違いない。私は、静かに言った。


「何があったの?」


「いえ、それが……よく、分からないのです。ミゲル殿が酷い顔色だ、と思ったのは覚えているのですが、蹴飛ばされて気を失って……気付いた時には、この有様で。むしろ、ミゲル殿こそ、お怪我をされていたかと」


「ミゲルが、怪我ですって?」


「はい。お履き物をお持ちした時に、気付きました。ミゲル殿の足首に、大きな、赤(・)黒(・)い(・)あ(・)ざ(・)が……」


 赤黒いあざ……間違いない。私は、ギュスタフに奥の部屋で横になるよう言い、成り行きを不安そうに眺めている使用人達に言った。


「誰か、早馬の用意を! うちで一番早い馬よ! それから、馬を御せる者の中で、一番小柄な者は私と一緒に来て! 急いで!」


 私の気迫に、使用人達は困惑しながらも背筋を伸ばして答えた。


「「は、はいっ! 畏まりました、お嬢様!!」」


 ヴェノワには、俊足の馬が一頭だけいる。身の軽い者が飛ばせば、数刻でガルディエに着くだろう。私は、早馬に身の軽い若者を乗せ、シメオンに借りたオオカミ除けの鈴を渡して言った。


「いい? ガルディエに着いたら、真っ先に、辺境伯に会うのよ。『様子のおかしい者がいる、赤黒いあざがある』と言えば、すぐに伝わるから。頼んだわよ!!」


「は、はい、お嬢様!! 風よりも速く、お伝えに参ります!!」


 彼は馬に鞭をくれ、疾風の如く出て行った。私は彼を見送りながら、祈る。


(エルネスト、助けて……私に、力を貸して!!)


 * * * * * * * *


 その頃。エルネストはシメオンと共に、城二階の応接間にいた。ラジール撃退の報(しら)せを受け、戦友の東部砦ジャルダンから祝いの品を持った遣いが来ていて、先ほど帰ったところだ。騎士団の正装に身を包んで背後に立つシメオンが、朗らかに言った。


「ジャルダン辺境伯は、息災でいらっしゃいますかね。長らくお会いしておりませんが」


「あの爺さんなら元気だろ。相変わらず、斧振り回して暴れてると思うぞ」


 エルネストは、ジャルダン辺境伯から届けられた密書に目を通しながら言う。エルネスト宛の密書には、ジャルダンで最近発見したラジールの生態について、事細かに書かれていた。


(ラジールは、生物の肝(きも)を特に好んで食す……か。ジャルダン辺境伯も、気味の悪い実験をしやがって)


 ジャルダンでは長年、戦の際に捕獲したラジールに実験を行い、その生態を研究している。彼らが共有してくれる報告は確かに有益だが、多少の薄気味悪さも感じるエルネストだった。


(肝の弱った生物を与えると、著しく、ラジールの捕食行動が鈍化する。肝の働きの悪い生物の肉は、奴らにとって『上等』ではないために、捕(・)食(・)に(・)非(・)常(・)に(・)時(・)間(・)が(・)か(・)か(・)る(・)ようだ……)


 密書は、ジャルダン辺境伯の豪快な直筆で『よって、わしのような酒飲みは、奴らに喰われる優先度が低かろう! わしの肝は、酒浸しだからな!』と結ばれていた。エルネストは呆れて密書を畳み、傍らで控えているシメオンを見上げる。


「やっぱ元気だわ、あの爺さん。ラジールは、酒飲みの肉は嫌いだってさ」


 シメオンが「うへえ?」と間の抜けた返事をした。エルネストは立ち上がって笑う。


「すげえよな、あの年で。戦も酒も女も現役だろ? ジャルダン辺境伯には妻が6人いて子沢山だから、ジャルダンでは子供部屋が足りなくて困ってるらしいし」


「ははは! さすがは歴戦の勇士、ジャルダン辺境伯ですな! 閣下も、お早くアイリス様との婚儀を終えて、お子の一人や二人、いえ、五人でも六人でも、為されたら如何でしょう。私共は、お二人のお子に会えるのが、今から楽しみで仕方ありません!」


 実家が孤児院のシメオンは、鼻を膨らませて赤黒い顔で言った。エルネストは微かに笑う。


(アイリスとの子か……彼女の子なら、さぞ可愛いに……)


 と思って、何気なく腰に手をやった時。ふいに、何かが落ちた感触がして、エルネストは視線を落とす。見ると……アイリスからもらったお守りが、音もなく床に落ちていた。エルネストは驚き、急いで身を屈めてそれを拾う。アイリスが腰ベルトに付けてくれたお守りの糸が、ぷつりと切れていた。シメオンが眉を潜める。


「それは……アイリス様の?」


 エルネストは、無言でそれを見つめる。アイリスが丁寧にガルディエの紋章を刺繍してくれた、大切なお守り。エルネストは、不吉に糸の切れた美しいお守りを、ぎゅっと握りしめた。


(なんだ、この胸騒ぎは……! アイリスに、何か……)






いつもお読み頂き、ありがとうございます!

更新時間のお知らせです。

明日  11:30

明後日 15:30

続きもどうぞお楽しみに〜♪

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