第37話 霧に隠された真実
私を乗せた馬車は、昼前にはヴェノワ領内に入っていた。水色の空のもとで優美に揺れる、懐かしい、ヴェノワの美しい冬木立。私は、ガルディエ騎士団の二人に屋敷の裏門前で馬車を下ろしてもらい、笑顔で言った。
「二人とも、ありがとう。ここまでのお供、心から感謝します。それから、私の迎えは不要よ。騎士団長のシメオン殿から、オオカミ除けの鈴を一つ、借りて来たから。私がガルディエに帰る時には、ヴェノワの従者に送ってもらうわね。どうか気を付けてガルディエに帰ってね。辺境伯に、くれぐれも宜しく」
ガルディエの二人は笑顔で頷き、「はっ! では、アイリス様、またガルディエにて!」と敬礼して、馬車は元来た道を戻って行く。
私は鉄のアーチ型の裏門を抜け、あの離れに急ぐ。すぐにばたん! と勢いよく扉が開き、可愛いアンジュが飛び出して来た。
「姉様?! ……姉様だ!! うわあああん!! 姉様、姉様!!」
「アンジュ、久しぶりね!! 会いたかったわ……! 元気にしていた?」
私達は、固く抱き合う。離れから出て来たマーサが、驚きに目を丸くして、言った。
「おんや、まあ! アイリスお嬢様じゃありませんか! どうしたんです、いきなり! お帰りになるなら、ご連絡下されば……」
「マーサ! ごめんなさい、急に帰って。手紙で知らせたら、あのミゲルが怒って暴れるかもと思って、知らせずに帰って来たのよ。……あら、ギュスタフは? 今朝は一緒ではないの?」
「え? ええ、はい、うちの人でしたら、今、二階のミゲルの部屋に……」
不思議そうに答えるマーサに、私は「それなら、ちょうどいいわ!」と例の貴族院からの書簡を出し、二人の目の前に広げる。
「見て! これは、貴族院からの書簡よ。ミゲルを、アンジュの後見人とは認めない、という通達なの。喜んで、アンジュ! これでもう、ヴェノワは、完全にあなたのものよ! 来月のお誕生日が来たら、アンジュは正式に、ヴェノワ伯爵の爵位を継げるわ!!」
二人は、初めぽかんと顔を見合わせ。すぐに歓声を上げた。アンジュが私に抱き着いて言う。
「すごい!! すごい!! ねえ、それホント?! 姉様、魔法でも使ったの?!」
私は笑って、この可愛い弟を抱きしめた。
「そうね、法律の魔法ね。さあ、早くミゲルのところへ……」
と言った時だった。突然、屋敷二階の窓が、ガシャーン! と大きな音を立てて割れ、私達は驚いて二階を見上げる。二階の大きな窓から……何か、黒い塊が飛び出した。それは、驚く私達の前で、屋敷裏庭の木陰にどさっと落ちる。そしてそれは、そのまま生い茂る樹木の根元を這いずるように動き……裏庭の先にあるワイン蔵の影へと消えた。私達は、呆気に取られて、顔を見合わせる。アンジュが、ぽかんと口を開けて、私を見上げた。
「今の……なに?」
「さあ……何かしら。尻尾が揺れていたような……」
私達は再び、二階を見上げる。あの大きな窓のある角部屋は、元はヴェノワ伯だった父の部屋で、今はミゲルが居座っていた。水色の晴れた空の下、無残に割れた窓から、白いカーテンがはためいている。私は、先ほどの黒い塊が消えたワイン蔵を見て、眉を潜めた。
「ミゲルが、ネコでも拾って来たのかしら? うちのワイン蔵に、動物を入れるわけにはいかないわ」
ヴェノワ伯爵家の裏庭には、大きなワイン蔵がある。領内から届いた数々のワインが収められた、レンガ造りの大きくて立派な蔵だ。ここには、『その年で最高の出来』などという希少なワインも山ほど保管されているから、どこで拾ったとも分からない動物を入れるわけにはいかない。エルネストだって、『ヴェノワ最高のワイン』が台無しになったら、さぞ残念がるだろう。私が、彼のそんな様子を想像してくす、と笑っていると、アンジュが菫色の瞳を輝かせて言った。
「ネコ?! 僕が捕まえるよ、姉様! 僕、ネコと遊びたい!」
「え? でも、まだネコと決まったわけじゃ……あっ、こら! 待ちなさい、アンジュ!」
アンジュは私の制止も聞かず、「ネコちゃん、どこだー!」と言って、ワイン蔵へ入って行ってしまった。私は「アンジュ!」と呼びかけながら、呆れて腰に手を当てる。
「もうっ! 仕方ないわね! ……マーサ。悪いけど、二階に行って、ギュスタフを呼んで来てくれる? ギュスタフには、この家の執事として、使用人達に指示を出して欲しいの。私が手紙で呼び集めておいた使用人の皆が、屋敷に戻っているでしょう? ギュスタフに彼らを取りまとめてもらって、ミゲルを追い出す手伝いをお願いしたいのよ」
「ええ、ええ、それはもう! 遂に、この時が来たんですねえ! あのミゲルを追い出して、アンジュ坊ちゃんが伯爵様になるなんて! もう、あたしらは感無量です! うちの人なんか、感極まって泣いちまうんじゃないかね!」
「ありがとう、マーサ。そう言ってもらえて、嬉しいわ。……それなのに、全く、アンジュったら! 早くこの通達をミゲルに突き付けたいのに、主役のアンジュがいないと話にならないじゃない!」
「あはは、坊ちゃんは、動物がお好きですからねえ! あたしが、厩番か、下働きの若い男を呼んでおきますよ。ネコはそっちに任せて、お二人は早く屋敷に来て下さいね。待ってますから!」
私はマーサに礼を言って別れ、ワイン蔵へ向かう。中からアンジュの、ネコに呼びかける声が聞こえてきた。蔵の入り口に向うと、開かれたアーチ形の立派な木製扉の中から、ワインの芳醇な香りが漂ってくる。私は蔵の中へ大きな声で呼びかけた。
「アンジュ! ネコは放っておいて、早く屋敷に……あら? 何かしら、これ」
私は足元に目を留める。地面にぱたぱたと落ちた、赤黒い染み。初め赤ワインかと思ったそれは……。
「……血?」
私は顔を上げる。よく見れば、点々と、この赤黒い染みは続いている……屋敷脇の木立の下から、ずっと! 私の背筋がゾッとし……同時に、私は、ワイン蔵に飛び込んで叫んでいた。
「アンジュ!! アンジュ、どこにいるの、今すぐ戻って来なさい!!」
薄暗いワイン蔵の奥から、「ええ?」という呑気な声と共に、アンジュがひょっこり顔を覗かせた。
「姉様? どうしたの? そんなに慌てて」
私は、きょとんとしているアンジュにほっとしつつ、叫んだ。
「いいから早く!! そこにいるのはネコじゃないわ!! 何か、とても危険な……」
アンジュが「えっ?!」と青ざめた時だった。ふいに、整然と並んだワイン樽の奥の暗がりから、聞き覚えのある耳障りな声がした。
「危険だと? 相変わらず口の減らない女だな、アイリス」
私はぎょっと身を強張らせる。この声は……ミゲル? なぜ彼が、ここに? アンジュがサッと顔色を変え、一目散に私の元へ駆けて来る。私は、咄嗟にアンジュを背中に庇って、樽の向こうの暗がりを凝視した。
「何だ、その顔は? 化け物でも見たみたいに」
この蔵に窓はない。その代わり、上部のレンガの幾つかをずらして、明り取りのための小さな隙間が作られている。そこから差し込む淡い陽光が、立派なワイン樽を照らし……その上の暗がりに、黒い巻き毛のミゲルの頭が、ぽこん、と現れた。青白いミゲルの顔が、こちらを虚ろに見下ろしている。
「「ミゲル!!」」
私とアンジュは、同時に叫び……と当時に、私の足元から、言い知れない恐怖が這い上って来る。私の全身が総毛だった。アンジュもまた、顔を強張らせて私にしがみついている。
(何かしら……とても、嫌な感覚だわ。この恐ろしい感覚、どこかで……)
私はアンジュを抱き寄せ、眉を潜めてミゲルを見た。彼の口が、まるで操り人形のように無感情に動く。
「何故貴様がここにいる、アイリス。ガルディエで生贄になって、死んだのではなかったのか」
私は得体の知れない恐怖感を覚えながらも、ぐっとお腹に力を入れて答える。
「……残念だったわね、ミゲル。私は、帰って来たのよ。アンジュに爵位を継がせ……あなたを、ヴェノワ伯爵家から追い出すためにね!」
私はそう言って、貴族院からの書簡をミゲルの前に突き出した。彼は無言でそれを見つめている。
「これは、貴族院からの通達よ。貴族院は、あなたの後見人申請を却下した。あなたは、二度と、アンジュの後見人にはなれない。アンジュは来月のお誕生日が来たら、ヴェノワ伯の爵位を正式に継ぐのよ!」
ミゲルが、地底を渡る風のような、奇妙な唸り声と共に低く言った。
「この、死に損ないの小娘が! 目障りな貴様は、やはりあの時、殺しておくべきだった! 霧が、晴れさえしなければ。奴らさえ、現れなければ。あの朝、貴様は、死んでいたのに!」
「なんですって?」
私は眉を潜める。ミゲルは、虚ろな顔で続けた。
「この夏の終わり……あの、素晴らしい白霧の朝。わしは、井戸に水を汲みに来た貴様を殺そうと、ナイフ片手に待っていた。庭の片隅で、深い霧に身を潜めて。だがあの時、奇妙なことに、遠くから馬を駆る一団がやって来た。奴らは霧の中、松明を幾つも掲げてやってきて……先頭にいたのは、恐ろしい速さで飛ぶように走る黒馬と、それを御す真紅のマントの男だった。突然現れた奴らの姿に、わしがナイフを手に惑っていたら、霧が晴れて来て……夜明けの光から逃れるように、わしはやむなく屋敷に戻った。あの忌々しい奴らのせいで、わしは、貴様を殺す機を失ったのだ……永遠にな!」
私は目を見張る。夏の終わり……霧の朝!! それは……それは、間違いなく、エルネストだ!! では、私は……彼のおかげで、命拾いしていたというの? 私はあの夜の、エルネストの告白を思い出す。彼の話を聞いた時に抱いた、微かな違和感。
(エルネストは、ラジールの魂を追ってヴェノワ家に来て、私を見つけたと言った。『ばたん、とドアの閉まる音がして』霧が晴れ、庭には、『井戸で水を汲もうとしている私』以外はいなかった、と。でも、井戸は、屋敷の前庭にある……私は、裏庭の離れから前庭に行ったのだから、ドアを閉めたのは、私ではないわ。前庭の正面玄関を出入りできるのは、伯爵家の人間だけ。ああ、では!!)
エルネストがあの朝聞いた『ドアの閉まる音』が……まさか、私を殺すのを諦めたミゲルが、屋敷に入る時の音だったなんて!!
ミゲルは、奇妙にしゃがれた声で続ける。
「貴様を殺しそびれたわしは、あの時……屋敷に入る直前、突然、雷に撃たれたような衝撃を感じた。と同時に、腹の底から、溢れんばかりの力が漲って来る。わしは直感した、幸運の女神が、やっと比類なきわしの値打ちを認め、わしに微笑んだのだ、と。こんなに胸がスッとする喜びはいつ以来だったろう……そうだな、アイリス。貴様の父を、殺した時以来の高揚感だったな!!」
「なんですって……父を……殺した?!」
私は思わず叫んでいた。ミゲルは、歪んだ口角を上げながら言った。
「そうだ! お前の父マイユが、肺病で死んだだと? ははは! 世間の医者共の目は、街角の泥水並みに濁っているらしい! マイユを殺したのは、このわしだ! わしが、奴のワインにヒ素を混ぜた……それも、毎日、少しづつ。これも、奴が若い頃にわしを屋敷から追い出した、報いだ!!」
「ふざけないで!! あなたの悪行は、ヴェノワの者なら誰でも知っているわ!! それなのに、それを逆恨みして、父を……実の兄を殺すなど、何て罪深いことを!!」
ミゲルが……私達の大切な父を! 私の全身が、怒りの激情にわなわな震える。突然、アンジュが「うわあああ!!」と絶叫してミゲルに向かって駆け出した。
「父様を……父様を返せ!! このクソ野郎ー!!!」
「アンジュ!? 待ちなさい、ダメよ、こっちに……!!」




