第36話 凶事の前触れ
翌日、私はアメジスト色のドレスに、真っ白な毛皮のハーフマントを羽織って、居館のエントランスにいた。ヴェノワ行きの馬車には、六頭の立派な黒馬が繋がれ、御者として、騎士団の精鋭だと言う若者2人がついてくれている。当初はシメオンがついて来る、と言っていたのだが、私は丁重に辞退した。エルネストが言っていた通り、これから数日は、先日のラジール戦の勝利を祝した来客が、続々とここガルディエにやって来る予定だ。そんな中、騎士団長が不在では、騎士団の面目も立たないだろう。
私は、馬車の前で腕組みをして渋い顔をしているエルネストに、笑顔で言った。
「平気よ。ヴェノワは静かなところで、何も危険はないわ。ミゲルのことは、心配しないで。これは、ヴェノワ伯爵家の問題だから。私達で、なんとかします。ガルディエには、迷惑を掛けません」
私はこの日を見据え、かなり前から、散り散りになったヴェノワの元使用人達に手紙を出していた。いつ通達が下りてもいいように、彼らをヴェノワ伯爵家に呼び戻しておいたのだ。ミゲルが一掃した使用人の中には、腕っぷしの強い武闘派も、いくらかいたから。ミゲルを物理的に追い出す際には、彼らが大きな力になってくれるに違いない。
エルネストは、笑顔で断言する私に、「はあ」とため息をついて両手を上げた。
「……まあ、あんたが言うなら、そうなんだろうよ。だけど、何かあったら、すぐ知らせろよ? 飛んでいくから。絶対に、無茶すんじゃねえぞ」
「心配性ね、エルネストは。でも……ありがとう。お気遣い、嬉しいわ。ええ、気を付けるわね。では、行ってきます!」
私はエルネストと軽く抱き合い、馬車に乗った。渋い顔のエルネスト、そして、やっぱり心配そうなシメオンやラウラ達を残して、馬車は城砦を出て行く。あのオオカミの林を抜け、初めてここに来た時の待ち合わせ場所だったイチイの木を通り過ぎて、馬車は風の速さでヴェノワに向かってひた走った。私は思わず、振り返る。ここからではもう、エルネストのいるガルディエ城は見えない。私は、無性に淋しく、心細く思いながら、それでも背筋を伸ばして、ヴェノワへと視線を戻した。この先で、可愛いアンジュが、待っている……やっと、あのうらぶれた離れから、アンジュを助けてあげる時が来たのだ!
(エルネスト……どうかまた、すぐに会えますように! ヴェノワのことが、上手くいきますように! お父様、お母様。天国で、見守っていてね!!)
* * *
アイリスが、馬車を飛ばしてヴェノワに向かっている頃。ヴェノワ伯爵家の離れでは、アンジュが必死に、分厚い法律書を読んでいた。かまどの鍋をかき混ぜていた使用人のマーサが、笑ってアンジュを振り返る。
「こんなに早くから、お勉強ですか? 精が出ますねえ、アンジュ坊ちゃん!」
「うん。僕ね、姉様と約束したんだ。姉様が帰ってくるまで、絶対に諦めないで待ってる、って。姉様は僕のために、恐ろしい野獣のところで、一生懸命頑張ってくれてるんだもん。だから僕も、姉様みたいによく本を読んで、姉様みたいに頭が良くなって、いつか、姉様の助けになってあげたいんだ。今度は僕が、野獣から姉様を助け出してあげなくちゃ!」
アンジュは本から顔を上げて、真剣に言う。分厚い法律書の横には、姉アイリスから送られた何通もの手紙が、丁寧にひもで縛って置いてあった。ラベンダーのいい香りがするその手紙は、アンジュの宝物だ。
木の椀に野菜スープを注いでくれたマーサが、笑って頷いた。
「アイリス様とアンジュ様は、本当に仲良しでらっしゃいますからねえ! お嬢様も、どうしていらっしゃるのか……ガルディエで、酷い目にあっていないといいのですが」
「手紙には野獣のことは書いてないけど……姉様、ミゲルに見られてもいいように、手紙には嘘を書くかも、って言っていたから、本当のことは、僕分かんない。でも、もしも、野獣が姉様に意地悪してたら。僕が野獣を、ぶん殴ってやるから!!」
マーサは「あらあら、頼もしいですね」と笑った。アンジュは、朝食のスープを食べながら、窓の外に目を向ける。
「ところで、ギュスタフは? 今日もミゲルのところ?」
父に長く仕えていた執事であり、マーサの夫でもある老ギュスタフは、このところ、ミゲルの世話に駆り出されているらしい。マーサがうんざりした様子で「そうですよ」と頷いた。
「全く、ミゲルの奴! あいつの連れて来た使用人はクズばかりで、仕事なんてしやしない! アイリスお嬢様の計らいで、前の使用人がポツポツ戻って来てくれているからいいものの、そうでなければ、とっくにお屋敷は傾いてますよ! 今朝もうちの人が、あのろくでなしミゲルにお茶を届けに行くと言ってましたが……」
二人は揃って、屋敷二階の、ミゲルの部屋の窓を見上げる。元はヴェノワ伯の部屋であったその大きな角部屋の窓には、未だ分厚いカーテンがかかっていて、その室内の様子は伺い知れなかった。
その頃。老執事ギュスタフは、銀のトレイに今朝の雑報紙とティーセットを乗せて、ミゲルの部屋を訪れていた。本当はミゲルの世話などしたくなかったが、ミゲルの愛人から脅しのように命じられ、仕方なく引き受けたギュスタフだ。
「ミゲル様。おはようございます、ギュスタフでございます。お茶と、雑報紙をお持ち致しました」
老執事ギュスタフは、ノックをして言う。室内からは、くぐもった声が返って来た。ギュスタフは、「失礼します」と淡々と言い、中に入る。カーテンの引かれた室内は、薄暗い。彼は手慣れた動きでトレイを丸テーブルに置き、カーテンを開け始める。この部屋は、元は、主マイユ・ド・ヴェノワ伯のものだったのだ。何十年も主に仕えていたギュスタフは、この部屋のことなど、知り尽くしている。だからギュスタフは、多少暗くても、難なく動き回れた。
カーテンを開けてふと見ると、黒い巻毛に青白い顔をしたミゲルが、ベッドに体を起こしたまま、ぼんやりしている。いつもは欲望に濁ってギラギラしているその真っ青な目が、どこか虚ろな気もした。ギュスタフは、不思議に思って問いかける。
「ミゲル様? どうなさいましたか、お加減でも?」
「……喉が、渇いた」
そう言ってベッドを下りようとするミゲルだが、どこか、動きが緩慢で不安定だ。ギュスタフは不審に思いながらも、室内履きを持って彼に駆け寄る。
「少々お待ち下さい、ミゲル様。今、お履き物を……」
と言って、ミゲルの足元に室内履きを置いたギュスタフは、ふと、彼の足首に目を留めた。紺色のローブから覗くミゲルの素足に、見覚えのない、大きな赤黒いあざがある……。
「……ミゲル様? このあざは、どうなさいました? どこかで、お怪我でも……」
ギュスタフはそう言って、ミゲルを見上げる。ギュスタフの、長く白い眉毛に覆われた水色の瞳が、恐怖に大きく見開かれていった。
「あ、ああっ……ミゲル様!!」
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完結まであと僅か、続きもどうぞお楽しみに♪
明日から、更新時間が20:50に変更になります。宜しくお願いします。




