第35話 ヴェノワへ
微かな水音に、ふと目を覚ます。いつの間にか夜は明けていて、酒宴の賑わいももう聞こえない。窓の向こうからは、小鳥のさえずりが響いている。私がぼんやりしていると、ふいに、がちゃり、と音がして、バスルームの扉が開いた。寝室に温かな湯気が流れ込み、バスローブを羽織ったエルネストが出て来る。彼は、横たわったまま目を開けている私を見て、一瞬驚いた顔をし……すぐに、蕩けるような笑顔を見せた。
「あ、目、覚めた? ごめん、起こしたかな」
私は首を振って、ブランケットを首まで引き上げながら、体を起こす。彼は笑って、私のそばに腰を下ろした。
「なんだよ、今さら、恥ずかしがらなくても良くね?」
「そういうわけには……」
私が目を伏せてもごもご言うと、彼は笑ってベッドサイドに手を伸ばし、水差しからカップに水を注いで差し出してくれた。
「飲む? のど、乾いたろ。さっき、下から届けさせた」
「……ありがとう。頂くわ」
水は冷たくて、美味しかった。私はエルネストの視線を避け、そっと目を伏せる。なんだか恥ずかしくて、まともに彼の顔も見られない。両手にカップを抱えてじっとしている私に、エルネストがそっと手を伸ばした。私はびくりと肩を揺らすが、彼はお構いなしに私の頬に手を添え、心配そうに私の顔を覗き込む。
「体、大丈夫? どこも痛くない?」
私は赤面する。昨夜、エルネストは私が処女であったことを知ると、「おい、嘘だろ……」と呆然と呟いたのち、絶句して暫く動かなくなった。私は経験が無いことが彼にばれて恥ずかしかったのだが、エルネストは異常に喜んでいたから、これはこれで、良かったのかもしれない。
私は、冷たいお水を一口飲んだ。そして、心配そうに私を見つめているエルネストに、小声で言った。
「心配してくれて、ありがとう。私は、平気よ。それよりも、その……昨夜は、とても優しくしてくれて、ありがとう。私、とっても、幸せだった」
『俺は優しく出来ない』とか言っていたくせに。エルネストは、本当に、優しかった。だから私は、ただ御礼を言っただけなのに。エルネストは、暫く無言で私を見つめ……突然、「がはっ!」と言って、ベッドに突っ伏した。
「え、エルネスト?! どうしたの、何か……」
「う、ぐ……ああ!! 笑顔が、か、か、可愛すぎて心臓が止まるとか……お、落ち着け、息しろ、平常心だ、平常心……」
「ちょっと、何を言って……」
「落ち着け……深呼吸だ……正気、正気を取り戻して……」
エルネストは「うぐぐ!」と胸を押さえながら、ふらふらと立ち上がった。顔が赤くて、心配になる。
「ねえ、大丈夫? 頭に、血が上っているみたいだけれど。エルネストって、いつもは堂々としているのに、意外と興奮しやすいのね」
バスルームの扉を開けていたエルネストが、ぶっと噴き出して、真っ赤な顔で私を振り返った。
「なっ、なんだよ、いきなり、自分だけ冷静になって?! なんであんたは、いつもそう、淡々と……!! いいから、とにかく、風呂でも入れよ!! 早くしねえと、冷めるだろ!」
私達のバスルームには、歯車式の昇降機が付いている。これは湯の運搬用で、あの、城壁に上がる昇降機と仕組みは同じらしい。これは、階下の給湯室と繋がっているそうだ。使用人達は、主の求めに応じて湯を沸かし、それを専用の甕に入れて上階に上げている、と前にラウラが教えてくれた。
エルネストは、「分かったわ」と言ってバスローブに手を伸ばした私を、いきなり抱き上げた。
「き、きゃああ?! な、何をするのよ、エルネスト!?」
「お仕置きだ、アイリス! もう冷静でなんて、いられないようにしてやるからな!」
私はエルネストに抗ったものの……結局、私達はバスルームでひとしきりじゃれあい、ベッドに戻って、その日は一歩も、外に出なかった。エルネストは食事も全て私室に運ばせ、私達は一日中、二人きりの幸せな時を過ごしていた。
幸福の夜が過ぎ、新しい朝が訪れて。二人だけの閉じられた時間を過ごしていた私達は、快楽と倦怠に浸りつつ、安らかな眠りから目覚めた。体を起こすのも気怠くて、エルネストの腕の中でうとうとしていた私の耳に、ふと、微かなノック音が聞こえる。エルネストは「誰だよ、こんな早くに」と呟いてベッドを下り、バスローブをぞんざいに羽織る。
「ごめん、俺、ちょっと出てくるわ。あんたはまだ寝てていいよ」
そう言って彼は、寝室の扉をぱたん、と後ろ手に閉めた。私は、ドキドキしながらブランケットにくるまり、隣室の様子を窺う。隣の彼の私室から、扉の開いた音と、人の靴音、それから、よく知った声が微かに聞こえてきた。
(この声は、シメオンさんだわ。何か、あったのかしら)
暫く続く、話し声。やがて、再び靴音がして、シメオンが部屋を出て行ったのが分かった。私は素肌にブランケットを巻き付けたまま、体を起こす。カツカツ、と靴音がして、エルネストが寝室に戻って来た。「どうしたの、何か……」と問いかける私に、彼はニッと笑って、書簡を差し出す。
「貴族院からだ。今朝の便であんた宛に届いた。開けてみろよ」
私は驚き、受け取った書簡を急いで開封する。中には。
「……ミゲル・ド・ヴェノワの、後見人申請を却下する……!! やったわ!! これで、ヴェノワは、完全にアンジュのものになるのね! ああ、エルネスト!! 本当に、ありがとう!! あなたのおかげよ!!」
私は、歓喜してエルネストに抱き着いた。彼は、嬉しそうに私の額にキスを落し、そのままぎゅっと抱きしめてくれる。
「良かったな、アイリス。これで、ヴェノワも安泰、か。じゃ、約束通り。いつか、ヴェノワ最高のワインを、俺にくれよ?」
私は笑って頷いた。そして、彼の首に両腕を回し、その美しい翡翠の瞳を見つめて問いかける。
「ねえ、私、少しの間、ヴェノワに帰っても、いいかしら? アンジュに早速、このことを知らせたいの。ミゲルを、一刻も早く、あの屋敷から追い出さなくちゃ!」
エルネストは私を抱き寄せ、「ああ」と頷いた。
「早く行ってやるといい。俺も一緒に……と言いたいところだが、俺は生憎、ここを留守に出来ない。戦勝祝いで、あちこちから使者が来る予定だからな」
「ええ、もちろんよ! あなたはこの城の主だもの、ここを空けるわけにはいかないわ。私は、一人で平気よ。この通達さえあれば、ミゲルも大人しく出て行くはずだから」
貴族院の通達に逆らえば、厳罰が下る。あの頭の悪いミゲルだって、そのくらいは承知しているはずだ。エルネストは私にキスをして、頷いた。
「馬車を出してやる。……けど、アイリス。あまりヴェノワに長居すんじゃねえぞ? その……」
頬を掻いて赤い顔で言い淀んでいるエルネストに、私は笑って頷いた。
「ええ! 用事が済んだら、出来るだけ早く帰って来るわ。だって私……あなたと何日も会えないなんて、淋しくて耐えられないもの!」




