第34話 アイリスとエルネスト
私は泣きながら囁いた。
「だから、あなたはあの時、私を裸に……」
「そうだ。あんたの体のどこにも、あざは無かった。愚かな俺は、全身を確認出来たことにほっとして……その時初めて、あんたが、ひどく震えていることに気付いた。その時俺は、雷に撃たれたみたいに、ハッとしたんだ。あんたは……非力で……美しい、ただの女だってことに。俺は……なんて酷いことをしたんだろう、と思った」
彼は、必死に涙を飲み込んで、言った。
「俺は、あんたを……殺すつもりだった。それは、自分の不手際は、自分で始末を付けねばならない、という、今思えば、恐ろしく身勝手な使命感に突き動かされていただけだった。ラジールから民を守るのが、ガルディエの当主たる俺の責務。それなのに、人に入れば取り返しがつかなくなるラジールの魂を取り逃すなど……俺にとっては、死にも等しい、重大な失態だ。だが俺は、そのことばかりに気を取られ……アイリス、あんたという一人の素晴らしい女性の命を、人生を、この手で摘み取ることの罪を、軽んじていたんだ!!」
エルネストは、震えていた。彼は私をきつく抱きしめ、涙声で続けた。
「俺は……怖かった。俺が、奴を逃したせいで……俺のせいで、多くの民を死なせるようなことになったら、と! 俺は毎晩、恐ろしい夢を見た。俺の逃したラジールが、人の体を食い破って世に解き放たれ……人々を手当たり次第に食い荒らしていく、恐ろしい夢を!!」
だから……だからエルネストは、毎晩うなされていたのか。彼は、たった一度の自分の失敗を、悔いて、悩んで、苦しんでいた。人知れず、ずっと! 私は、私を抱きしめる彼の背にそっと手を回して、囁いた。
「……あなたは、精一杯、やっているわ。私は今日、あの闘いを見て、そう思った。あなたは……エルネストは、命を懸けて、この国を、民を、守ってくれている。そんなあなただからこそ、この城砦の人達は皆、あなたを敬愛し……深く崇敬しているのだわ。あなたがいなければ、とうの昔に、人間は、ラジールに敗北していることでしょう。あなたは、ガルディエの当主として……この城の主として、とても立派だと、私は思うわ!」
城壁の上で。鍛錬場で。あの、城内を案内してくれた時の、金色の陽ざしの差し込む階段で。彼はいつも、堂々と、胸を張って立っていた。その身を苛む恐れも、不安も、苦しみも。エルネストは、針の先ほども見せることはなかった。
エルネストが顔を上げる。そして、私の頬を両手で包んで、私を見つめた。その翡翠の瞳が、涙で潤んでいる。
「俺に言わせれば……立派なのは、アイリス。あんたの方だ。あんたは、あの夜……俺が、身勝手な事情であんたの寝室に忍んで行った、あの夜。あんたは、あんな状況で、弟のために力を貸してくれ、と言った。俺に服を剥ぎ取られて、恐怖に震えているのに、それでもあんたは、涙をこらえて『弟を助けたいから、力を貸してくれ』と言ったんだ。俺は、身勝手な自分を恥じた。どうしようもなく。あんたの、弟を思うその優しさと強さに……俺は、すっかり打ちのめされていた」
エルネストは、ぐ、と涙を飲み込んで続ける。
「それから俺は、あんたが気になって、仕方なくなった。でも、あんたを知れば知るほど、俺はあんたに相応しくない男だ、と思えて……とても、自分のあんたへの恋情を、認められなかった。本当は……あんたが『違う』と確認できた時点で、この婚約の話を白紙に戻し、あんたをヴェノワに帰すつもりだったのに。だから俺は、婚礼荷物も何もいらないと言ったのに。あんたを手放すことは……俺には、どうしても出来なかった。俺が、あんたと、離れたくなくて。アイリスに、俺のそばにいて欲しくて。俺はいつしか、アイリス、あんたなら……誰も知らない本当の俺を、誰にも言えない俺の苦しみを、理解してくれるんじゃないかと、そんな身勝手な希望さえ抱くようになっていた。俺は……自分の勝手な都合であんたを殺そうとした、最低の人間なのに!」
そして彼は、震える声で言った。
「ごめん……いや、謝って許されることじゃないよな。こんなことにならなければ、あんたは、俺の婚約者になることはなかった。最低だよな、こんな理由で求婚する男なんて。憎んでくれていいよ。今から婚約を破棄してくれてもいい。自分を殺そうとしていた男と結婚するなんて、あんたにとっては、苦痛で、しか……」
エルネストの言葉が途切れた。私が、彼の唇を塞いだからだ。私は、彼の首に両手を回して、夢中で口づけをしていた。深く、甘い口づけ。顔を少し離すと、彼は驚いたように目を見開いて、私を見つめている。私は瞳を閉じて、再び彼にキスをした。角度を変えて、何度も。気づいたら、私はエルネストにきつく抱き締められ、私達は、お互いを貪るように、激しい口づけを繰り返していた。ひとしきり唇を重ねたところで、彼は私からゆっくり顔を離した。私は、荒い呼吸をしながら、エルネストの胸に縋り付く。
「どうして……どうしてあなたは、今になって、こんなことを言うの?! 私は、ここに来て……あなたに会えて、幸せだった。あなたが、私を殺すつもりでここに呼び寄せたのだとしても……今さら、私は……私は、あなたのことを、嫌いになんて、なれないのに!!」
私は、彼の腕で泣きじゃくった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何を言ったらいいのか、分からない。エルネストが「アイリス、俺は……」と呟いた。私は、自分の涙に溺れそうになりながら、それでも必死に言葉を紡いだ。この人に、どうしても、伝えたいことがあるから。
「私は、もう、あなたのいない生活など考えられない。私は、あなたと離れたくない……私は、ずっと、あなたのそばにいたい! 私は、あなたの、妻に……」
エルネストが突然、私を抱き上げた。私は抵抗もせず、ひっくひっくと嗚咽しながら、その腕に身を任せる。
エルネストは大股で私室を横切り、寝室の扉を乱暴に開けた。私はこの部屋に入るのは、初めてだ。私の寝室と繋がっていると言う例の扉が、奥に見えた。こちら側から見ると、彼が言っていた通り、ドアノブもきちんとついた普通の扉になっている。
エルネストは一直線に寝台に向かい、私を優しく横たわらせた。私の、ダイアモンドを散りばめたドレスが大きな寝台に広がり、窓から差し込む朧な月明りにキラキラ輝いた。
エルネストが、私の顔の両側に手を付いた。私を見下ろす翡翠の瞳が、惑うように揺れている。
「……いいんだな? 俺は、あんたを、殺そうとした男なんだぞ?」
私は頷いた。彼は躊躇するように一度視線を逸らし……やがて再び私に目を向けた時、その美しい翡翠の瞳は、情欲に燃えていた。私の体の奥が、ぞくりと泡立つ。彼は、私の頬に顔を寄せ、囁いた。
「悪いが俺は、そんなに優しく出来ないぞ。もし途中であんたの気が変わったとしても……絶対に離してやらないから」
私は溢れる涙もそのままに、密やかに笑う。そして、彼の首にゆっくり手を回し、その耳元で囁いた。
「愛しているわ、エルネスト」
他に、言うべき言葉などなかった。彼は、深い吐息と共に、私を抱きしめた。この寝室に明かりは灯っていないが、暖炉の火だけは入っていて、温かい。階下からは、祝宴の賑わいが、遠く響いて来ていた。




