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氷姫の婚礼 ー氷の令嬢と野獣辺境伯の危険な関係ー  作者: 愛崎アリサ


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第3話 野獣辺境伯エルネスト

 二日後。私は、ギュスタフの御す馬車で、ガルディエに向かっていた。空は透き通った水色で、秋風が、街道の左右に広がる白樺林を吹き抜けていく。


「アイリスお嬢様。もう間もなく、ガルディエ辺境伯領でございます。伯爵より、我らヴェノワ家の者は領内に立ち入らぬように、との厳命を頂戴しておりますれば……」


「ええ、分かっているわ。ここまでありがとう、ギュスタフ。あなたは約束の場所で私を下ろしたら、すぐにヴェノワに帰ってね。マーサにも伝えて。アンジュのこと、くれぐれも宜しく、と」


 ギュスタフが前方を向いたまま、泣き声で「はい」と頷き、馬に鞭をくれる。馬足が速くなった。私は吹き抜ける涼風に身震いし、白い毛皮のケープに首を埋める。ギュスタフが、顔を少し振り向けて言った。


「アイリスお嬢様。あちらに、人影が見えます。イチイの木……あれが、指定された待ち合わせ場所でしょうか」


 私は顔を上げる。街道脇に高く伸びる、イチイの木。たわわに実った小さな赤い実が、色彩のあまり見当たらないこの地で、鮮やかに揺れていた。


「ええ、そうね。赤い実を付けるイチイの下に迎えを寄越す、と言うことだったから。あの人が、そうかしら」


 木の下には、一台の立派な馬車と、一人の大男が立っていた。年齢は40代くらい。頬に大きな十文字の傷跡があって、いかにも歴戦の猛者と言う感じ。茶色い瞳に、刈り込まれた茶色い短髪の、うなじの一部だけを細い三つ編みにして垂らしている。ギュスタフが馬車を下りて挨拶すると、クマみたいな大男は、私をちらと見て野太い声で言った。


「ヴェノワ伯爵家のご息女様か。ガルディエ辺境伯の婚約者の」


「え、ええ、はい。こちらが、ヴェノワ伯爵令嬢、アイリス様でございます」


 ギュスタフが戸惑いながら答えると、巨躯の男は頷き、右腕を胸の前に、腰を折って堂々と礼をする。


「失礼。ご挨拶が遅れました。私はガルディエ騎士団長、シメオン・ジュアノ。我が主からのご命令で、貴女様をお迎えに上がりました。どうぞ、こちらで馬車をお乗換え下さい」


 ガルディエ騎士団長! すると、この男が、噂の……。


(辺境伯の最側近、そして、もしかして彼の愛人、の男性かしら……なんだか、すごく強そうな人ね)


 私は内心ドキドキしながらも澄ました顔で頷き、馬車を乗り換える。これは先方から指定された奇妙な条件だった。なぜこんな場所で馬車を乗り換える必要があるのか、理由は説明されていない。


 私がシメオンの手を借りて馬車に乗り込むと、シメオンがギュスタフに言った。


「お嬢様は、確かにお預かりしました。それでは、これで。失礼」


 シメオンは軽く頭を下げ、さっさと馬車を出した。ギュスタフの馬車が去る音に、私は振り向きたくなる気持ちをどうにかこらえながら、必死に前方に顔を向けていた。


 そんな私の視界に、ふと、何か黒い影が横切る。不思議に思って横に視線を向けた時には、辺りに獣の恐ろしい遠吠えが響き渡っていた。見ると、左右の林の中に何頭もの黒いオオカミが走っているではないか! 馬を御しているシメオンが、笑って言った。


「驚いたでしょう。あいつらは、ここらに生息するオオカミの群れです。よそ者が来ると、警戒して、ああして群がって来るんですよ。ですから、ヴェノワの従者の方には、あの場でお帰り頂いたわけですが」


 彼は言いながら、手慣れた様子で、御者台に(くく)り付けてあった鈴を鳴らした。オオカミ達は鈴の音が鳴り渡る中、こちらの様子を窺うように絶妙な距離を保って走っている。本当に、私は……とんでもないところに来てしまったみたいだ。


 馬車は、大きな城砦の堀に掛けられた跳ね橋を渡り、城内に入っていく。目の前には、高い城壁と防御塔に守られた巨大な城砦が、水色の空を背景に(そび)え立っていた。ここが北部防衛の最前線、ガルディエ辺境伯城……。


 馬車は、騎士団や使用人達で賑わうエリアを抜けて、居館に通ずる坂を上っていく。居館玄関の前では、侍女が数名、整列して待っていた。シメオンは私を馬車から下ろし侍女に預けると、そのまま行ってしまった。侍女の一人が前に進み出る。小柄で丸顔、黒い髪を顎で切りそろえた年若い少女で、浅黒い肌に白い歯が快活な印象だ。濃緑色の膝丈ドレスに、白いエプロンをかけた彼女は、明るい笑顔で言った。


「初めまして、アイリス様! 私の名前は、ラウラ・ペロー。これからアイリス様の身の回りのお世話をさせて頂きます、どうぞ宜しくお願い致します!」


 ラウラはそう言って、ぴょこんと頭を下げた。私は、人柄の良さそうな彼女の様子にほっとして頷く。


「初めまして、ラウラ。これからお世話になるわ」


「はい! では早速ですが、お部屋にご案内します。どうぞ、こちらへ」


 ラウラは私の荷物を手に、先に立って歩いて行く。他の侍女は、頭を下げると昼食の支度だとかで厨房へ去って行った。ラウラが、明るい笑顔で私を振り返る。


「道中、お疲れさまでした! 驚かれたでしょう、この辺りにはオオカミが多くて」


「ええ。私は、ガルディエ領には初めて入ったから。とても驚いたわ」


「お客人は、みんなそう仰いますよ! と言っても、ここに来るお客人など、戦勝祝いの時以外、ほとんどいらっしゃいませんけどね!」


 それは例の、悪名高い狂乱の宴のことだろうか。だがラウラは、特にそのことには触れず、先を歩きながら元気に続ける。


「私も、ここに来た当初は恐ろしくて眠れませんでしたよ。今は、すっかり、でもないや、少しは、慣れましたけど! ……あ、ここです。こちらが、アイリス様のお部屋です。どうぞ!」


 ラウラに案内されるまま、部屋に入る。室内にはオリーブ色のラグが敷かれ、天蓋付きの大きなベッドと、白い木製の優美な家具が並んでいる。大きな窓には美しい水色のカーテンがかかり、暖炉の上には風景画が飾られていた。暖炉には既に火が入れられていて、室内はほんのり暖かい。


「素敵なお部屋ね……」


 私は思わず呟いていた。ラウラは嬉しそうに笑い、たった一つの私の荷物を優美なベンチに置く。


「良かった! アイリス様のために、先日内装を一新したんですよ! ここは代々、辺境伯夫人の寝室だったのですが、長い間、使われていませんでしたから」


 私が「そう」と頷いた時、ふいに窓の下の方から、がらんがらん、と鐘の音が響いた。ラウラが「あっ、まさか!!」と窓辺に駆けて行って下を覗き込んだ。


「大変だ! もう閣下がお戻りだ!!」


 ラウラは血相を変えて飛んで来て、私に大きく頭を下げる。


「アイリス様、ご到着したばかりのところ、申し訳ありません! これから、閣下とのご対面です。お早く、下のお食事室へ!」


 私達は急いで一階に向かった。私は、焦るラウラを横目で冷静に眺める。


(ラウラがあんなに怯えている……。辺境伯は、よほど恐ろしい男なのね。彼に助力をお願いするのは、簡単ではなさそうだわ。でもきっと、何か方法はあるはずよ)


 私は、何食わぬ顔で居館内を観察しながら考える。


(まずは、彼がこの婚姻に、何を望んでいるかを知ることだわ。それ次第で、どう交渉を進めるか考えよう……待っててね、アンジュ。姉様、きっと上手くやってみせるわ)


「アイリス様!! こちらが、食事室で……」


 ラウラが言うのとほぼ同時に、食事室前の廊下に居並ぶ使用人達が、一斉に頭を下げた。


「「おかえりなさいませ、閣下!! 朝の鍛錬、お疲れ様でございました!!!」」


 私はドキリと顔を上げる。廊下の先、黄金の薄日の差し込むホールに現れたのは……配下らしき男を何人も従えた、長身の男性だ。一瞬、淡い光の中に彼の輪郭だけが切り取られ、全ての背景が、灰色の影となって沈んだように見えた。


 男が、こちらに顔を向ける。はだけた絹のシャツに焦げ茶色のトラウザーズ、足元には革のブーツ。均整の取れた体つきは、シャツの上からでも分かるほど引き締まっている。ラウラが私の前に躍り出て、大声で言う。


「おかえりなさいませ、閣下!! ご案内が遅れまして、大変申し訳ございません! 閣下のご婚約者様の、アイリス・ド・ヴェノワ伯爵令嬢がご到着でございます!」


 その場にいた人々が、一斉に私に視線を向ける。真正面の男が少し目を見開き、スッと前に進み出た。皆の視線が怖いが、私は(ひる)まず、ラウラの前に歩み出る。皆が、軽く息をのむ気配。だが私は構わず、優雅にカーテシーをした。私のアメジスト色のドレスが、秋の黄金の陽ざしを受けて優美に揺れる。


「初めまして、ガルディエ辺境伯閣下。私は、アイリス・ド・ヴェノワ。この度は、ヴェノワ伯爵家へのご丁寧な書簡、誠にありがとうございました。あなた様からの求婚のお申し出、この上なき幸せと存じ、謹んでお受け致します」


 私はゆっくり顔を上げた。真正面の男は、腕組みをして、こちらを眺めている。


(この人が……『野獣』辺境伯? 思っていたのと、少し違う……)


 鼻筋の通った、彫刻のように端正な顔。柔らかく波打つミディアムヘアはアッシュブロンドで、窓から差し込む黄金の陽に透けるように輝いている。綺麗なアーモンド形の目は優しく微笑んでいるが、その実、その翡翠色の瞳の眼光は非常に鋭く、まるで獲物を狙う猛獣を思わせた。この男には、どこか、抗い難い威圧感がある……。


(なんだか、ぞくぞくするわ。不思議な人ね)


 彼はふいに組んでいた腕を解き、静まり返った廊下を、カツカツ、と靴音を響かせて私の前に来る。私は無言でそれを見つめていた。彼は私の前に来ると、突然、私の顎に指をかけて上向かせた。幾つかの大きな黄金の指輪の嵌まった、長くて冷たい指。私のそばで、ラウラが「あわわわ、閣下……」と焦ったように呟いているのが聞こえたが、それ以外の人々は、水を打ったように静まり返っている。


 私は無言で彼を見上げていたが……彼はそんな私をじっと見つめ、ふっと微笑んだ。弦楽器のように奥行きのある魅力的な声が、真正面から降って来る。


「……へえ。あんたが、世間で噂の『ヴェノワの氷姫(ひょうき)』か。綺麗な顔してるな」


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