第29話 ガルディエ防衛戦
城壁上に、「シメオン団長ぉぉ!!! 火矢部隊、準備整いましたぁ!!」という絶叫が響いた。直後、シメオンの野太い声が、城壁の上に響き渡る。
「よおし!! 第一小隊、点火!!! ……撃てええええ!!!」
ヒュンヒュンヒュン!!! 次々に空を切る、弓矢の轟音。シメオンの大声に合わせて、燃える弓矢が一斉に放たれた。それらは眩い弧を描き、眼下を地獄の業火に染め上げていく。舞い散る火の粉が夜空を、濃霧を焼き尽くしていった。その轟音に、熱波に、私は小さく悲鳴を上げて顔を腕で覆う。けれど。こんな時なのに。私の頭の中は、エルネストに言われたことでいっぱいになっていた。
(エルネストが、そんなことを考えてくれていたなんて! ならばなおさら、私は、怖気づくわけにはいかない……! 私は、ここで、彼のそばで……)
「アイリス、見えるか? あれが……俺達の敵、人を食らう悪鬼、ラジールだ」
エルネストの冷静な声に、私はハッと顔を上げる。そうだ、ここは戦場。余計なことを考えている暇はない。私は急いで、エルネストの声に従って城外に目を凝らす。
そこには、燃え盛る炎に城外を逃げ惑うラジールの姿があった。灰色の岩に似た肌に、欲深そうに濁った金茶色の目。体躯は人間と同じくらいだが、恐ろしく敏捷に動き、耳まで裂けた青紫の唇からは、人肉を簡単に食いちぎれそうな黄ばんだ牙がずらりと見えている。ラジールは甲高く耳障りな声で喚きながら、あちこちで上がる火柱を避けている。私は、ガルディエの書物で学んだことを思い出していた。
(ラジールの弱点は……火よ!! 火矢を射かけるのも、戦術書で見たことがある! それに、あれが噂の新型火薬……聞いた通り、実戦でも凄い威力だわ!!)
太い火柱が、飛び回るラジールを黒焦げにしていく。騎士団の鍛錬場で火矢の火薬の取り扱いを教えてもらった時に聞いた。この新型火薬は、軍務部が試作を繰り返して、燃焼時間を長く、熱量を増大する改良を加えたらしい。おかげで、威力が上がると同時に、これまでより長時間の視界の確保も出来るようになったのだと、火矢部隊の人達は喜んでいた。
(良かった、このまま火で決着をつけることが出来れば……あっ?!)
私は、火矢の凄まじい威力に、少し安心して眼下を見ていたのだが。炎の包囲網を逃れたラジールが、鎌のように尖った手足の爪を石の隙間に突き立て、続々と城壁に上り始めている! 私は思わず、傍らに立つエルネストに叫んでいた。
「た、大変! どうするの?! ラジールが、城壁を、上って来ているわ!!」
エルネストは何も言わず、表情も変えず、腕組みをしてその場に堂々と立っていた。彼の真紅のマントが、夜風にバタバタとはためいている。シメオンが、城壁の縁に立って叫んだ。
「退けぇぇ!! こんの、ラジールの愚か者共!! ガルディエは、不滅!! 貴様ら如き悪鬼など、この軍神シメオンが、地に叩きつけてくれる!!」
シメオンは仁王立ちになって、頭上で何かをぶんぶんと振り回している。篝火の炎に鈍く輝く、鎖の付いた、棘のある大きな球体。それが鉄球だと気づいた時には、それはシメオンの、筋肉の盛り上がった両腕から凄まじい勢いで眼下に放たれていた。鉄球は轟音と共に城壁を上り来る食人鬼ラジールに突っ込み、恐ろしい断末魔が辺りに響き渡る。だが城壁を落ちて行くラジールは、あっという間に霧の底に隠れて見えなくなった。流れる白い霧が、ラジールの味方をするかのように辺りを覆い隠していく。シメオンが、間髪入れずに叫んだ。
「第二小隊、点火!! ……撃てえええ!!」
再び、火矢が一斉に放たれる。真昼のように明るくなる城外。そこに……奇妙なものが見えた。先程、シメオンにやられた個体だろうか。地面に、幾つものラジールの死体が折り重なっている……と思ったら。死体が、ごぶごぶと気味悪く動き始めた。私はぞっとして、思わず後ずさりした。城壁の縁に仁王立ちになっていたシメオンが、こちらを振り返って鬼の形相で叫んだ。
「閣下!!! 遊離します!! くそうっ、奴ら、またしても!!!」
と当時に、冷たい風が、城下から吹き荒れる。不吉と恐怖を運ぶその風に、城壁上に緊張と動揺が走った。私のドレスが、鎖帷子が、バタバタと風に舞う。背筋が凍り付きそうな、嫌な感覚。足元から、言い知れぬ恐怖が這い上ってくる。
(何かしら……なんだか、体がぞくぞくする。怖い、一体、何が)
「アイリス。下がってろ」
エルネストの低い声に、私はびくりと身を強張らせる。彼はこちらを振り返らず、腰の大剣をゆっくりと抜いた。銀の大剣が、青白い光を放つ。まるで内側から湧き出るような、不思議な光。エルネストが、吹き荒れる風に真紅のマントを翻らせて、低く言った。
「……アイリス。あんたは、ラジールに関する書物を読み漁っていたようだが……そこには絶対に書かれていない事実を一つ、教えてやろう」
「書物には書かれていない、事実……?」
私は眉を潜める。先刻から、嫌な胸騒ぎが収まらない。エルネストは、城壁の下を凝視しながら、ゆっくりと言った。
「ああ。これは……ここガルディエと、東部ジャルダンにしか伝わっていない、ラジールに関する重大な秘密だ。ラジール共は、己の肉体が滅びると見ると……稀に、多くの瀕死個体で連携して、ある一体の魂を、死に行く肉体から遊離させる。ある一体の魂に、死に行く大勢の望みを賭けて、生き永らえようとするんだ。肉体を遊離したラジールの魂は、霧に紛れて人の体に入り込み、その魂をゆっくりと時間をかけて食らう。人間の体内で力を取り戻した奴らは、やがて、その人間の肉体を食い破って、外へ出て来るんだ」
私は目を丸くした。ラジールの魂が……肉体から遊離して、人間に入り込む?
シメオンが「皆の者、下がれぇっ!! 閣下の邪魔をするなあ!!」と絶叫し、城壁の縁に並んでいた火矢部隊の人々が、統制の取れた動きで続々とその場を離れて行く。エルネストが、美しい輝きを放つ大剣を、両腕に構えた。
「これは、我がガルディエ家に伝わる神器、聖剣グランダル。初代当主が、ラジールと闘うために、ガルディエ地方を統べるオオカミの王と契約して手に入れた、と言い伝えられているが……もう伝説みたいなもので、真偽は定かじゃない。この神器は、ガルディエの当主が手にすると、その力を発揮する。ラジールの肉体を離れ、実体を失った奴らの魂は、このグランダルか、東部ジャルダンに伝わる聖なる斧でしか倒せない」
ごぶぶっ! と恐ろしい音と共に、眼下のラジールの死体が弾け飛ぶ!
辺りの音が、一瞬、消えた気がした。と当時に、眼下から、一際強い風が吹き上がって来る。
……来る!!!
城壁を瞬く間に這い上がって来る、奇妙な灰色の影。それは城壁をあっという間に飛び越えて、遥か夜空に高く舞い上がった。そして私は見た、篝火に、地上で燃える炎に照らされる、灰色の悪霊を。欲望と怨念を凝縮したような、その邪悪で恐ろしい死の顔を。それは、エルネスト目掛けて、一直線に突っ込んで来る!
「きゃあああ!! エルネスト!!」




