第21話 アイリスとメラニー
翌朝は、霧も晴れて穏やかな日だった。城砦内は緊迫の度合いを増し、ラジール防衛戦に備えた保存食や武器の準備などで、騎士団も使用人も、行ったり来たり。領内から大量の物資を調達するとのことで、人々の出入りも激しかった。
昨夜は、胸がざわついてよく眠れなかった。ベッドに入ったのはいいものの、エルネストのことが気になって、眠るどころではない。
(エルネストは、あれからどうしたのかしら……よく休めていると、いいけれど)
彼が、あんなにうなされていたなんて。昨夜はたまたまだったのか、今までもそうだったのだろうか。私が考えに沈んでいると、ラウラが申し訳なさそうに言った。
「アイリス様、本当にいいんですか? こんな作業、伯爵様のお屋敷ではなさったこともないのでは?」
「いいのよ。私は実家でも色々やっていたし、ピクルス作りは得意なの。任せて!」
私は朝から、厨房のピクルス作りを手伝わせてもらっている。周りには厨房や居館の使用人も大勢いて、私は既に、彼らのほとんどと顔見知りだった。私が姿を見せると、皆が笑顔で「アイリス様!」と声をかけてくれるので、とても嬉しい。まだ正式に結婚したわけではないのに、私もこの城砦の一員だと認めてもらったような気がする。
使用人が下の畑で収穫して来たニンジンやキュウリなどの野菜を、酢漬けにする。野菜を洗う水が冷たくて指先の感覚が無くなって来たが、別に大したことじゃない。ヴェノワの屋敷では、私はあのミゲルに、まるで使用人のようにこき使われていたのだから。
(アンジュと一緒に、あの離れでピクルスを作ったこともあったわ。アンジュは、元気かしら……でもまずは、こちらのお手伝いね。人食い鬼が国内に入ってしまったら。平和な日常は、滅茶苦茶になってしまうもの。アンジュ。姉様、エルネスト達と一緒に、頑張るから。あなたも、もう少し、辛抱していてね)
私は、ラウラと一緒に、洗い終わった野菜と、今朝ラウラと摘んだばかりのディルやローリエなどのハーブを丁寧に壺に入れ、厨房長特製だというヴィネガー液を慎重に注いでいく。途中、お昼の休憩を挟みながら幾つかの壺が完成する頃には、もう午後も遅くなっていた。ラウラが、「ふいー!」と袖をまくり上げた腕で額を拭き、笑顔を見せる。
「これで、今日の作業は完了ですね! アイリス様、本当にありがとうございました!!」
「いいえ、お役に立てたのなら良かったわ。仕上がりが楽しみね。美味しくなりますように」
出来上がったピクルスの壺は、使用人の男達が荷車に乗せてどこかへ運んで行った。ラウラが言うには、多くの保存食は、城壁に近い下居住区の貯蔵塔で保管するらしい。持ち場を離れられない兵士たちのため、だそうだ。
ラウラと一緒に荷車を見送っていると、ちょうど坂の下から、エルネストが上がって来た。シメオンや、騎士団の人達も一緒だ。彼は私に気付いたようだが、特に表情を変えることもなく、そのまま居館の中へと消えて行く。私は、その後姿を無言で見送った。
(エルネスト……どうしよう、どうすればいいの。私は……私は、どうやったら、彼のことを、支えてあげられる?)
「あーら! そこにいらっしゃるのは、もしかして、閣下のご婚約者様の、アイリス様ではなくって?」
突然かけられた明るい声に、私とラウラは飛び上がって振り向く。露出の高い黒いドレスに、高いヒール靴。杏色の豊かな髪を一本に高く結った、メラニーだ。彼女は、男達の興奮した視線に大きく手を振って応えながら、私の元までやって来た。
(メラニーさん……華やかで綺麗な人だわ。私と違って、色気もあるし……)
私は沈んだ気分で、歩いて来る彼女を見つめる。ラウラがなんとなくムッとした顔で私のそばに仁王立ちしている中、メラニーは、優雅に腰を折って挨拶した。
「初めまして、アイリス様。わたくしはメラニー。しがない旅芸人ですわ。どうぞお見知りおきを」
「……初めまして、メラニーさん。アイリス・ド・ヴェノワですわ」
私は、腰を折ってゆったり会釈した。彼女はやけに明るい笑顔を見せる。
「うふふ! 今日も、アイリス様は素敵な装いですわね。ライラック色のドレスが、とてもお似合いですわよ! けれど」
と言って、彼女は突然、私のそばにずい、と近づき、鼻をくんくんさせる。私は困惑して「あ、あの……?」と身を引いた。メラニーは、軽く鼻をつまんで顔を顰める。
「嫌ですわ、なんですの? この酸っぱい匂いは! 伯爵家のご令嬢、しかもこの城砦の主である辺境伯閣下のご婚約者様ともあろうお方が、酢の匂いを撒き散らすなど、言語道断ですわよ!」
慌ててあちこち嗅いでいる私の横で、ラウラがムッとしたように口を挟む。
「アイリス様は、城砦の兵士たちのために、ピクルス作りを手伝って下さっていたんです!! 閣下のご婚約者様の城砦の皆への心遣い、私達は大変ありがたく、尊く思っておりますので!! ちなみに言っておきますと、いつもアイリス様は、とても清潔で良い香りの花の香水をお召しになっておられます!!」
ふん!! と鼻を鳴らして言うラウラを、メラニーは楽しそうに眺め回した。
「うふふ! 元気で可愛らしい方ね。あなた、アイリス様の侍女さん? ちょうど良かったわ。わたくし、喉が渇きましたの。ねえ、アイリス様。作業も一段落したように見受けられますし……お茶でもご一緒しませんこと? ほら、あちらに」
と、メラニーは背後の、ハーブ庭園の片隅を指さした。
「テーブルと椅子がございますでしょう。あちらは、代々の辺境伯夫人の、お気に入りの場所だったんですのよ。特に……エルネスト閣下のお母様は、お天気の良い日には、必ずあの場でお茶を楽しんでらしたわね?」
メラニーは意味ありげにそう言って、私を妖艶な視線で見つめた。私はラウラと顔を見合わせる。メラニーが「ほほほ!」と色気のある笑い声をたてた。
「なぜそんなことを知っているのか、ですわね? うふ! 生憎、理由は明かせませんけれど。わたくしと閣下との付き合いはとても長い、とだけ教えて差し上げましょう。そう、もうずっと昔から、わたくしは、あの方を存じておりますのよ。と言っても、恋愛感情などはございませんから、安心して下さいませね?」
彼女のしっとりした口調に、私は口を噤む。彼女の言葉に、改めてよく見てみると。なんだか、この女性は非常にミステリアスな気がしてくる。
(この人……旅芸人にしては、立ち居振る舞いがやけに上品だわ。それに、年齢も、よく分からない? なんだか不思議な人ね。この人は、一体……)
メラニーは、警戒心を隠さずに突っ立っている私に、微笑んで言う。
「ですから、アイリス様。もし宜しければ、わたくしと少しお話しませんこと? 特に……もし何か、閣下に関してお悩みのことがあるのでしたら、このメラニー、何かお役に立てることがあるかもしれなくってよ?」
私は目を見開いた。メラニーが軽やかに笑う。
「ほーら、やっぱり! ねえ、アイリス様? お一人で悩まれるのは、良くありませんわよ? 言った通り、わたくしは、あの方のことを昔から知っておりますの。閣下は、見目麗しく豪胆で、それはもう、悪魔のように魅力的なお方ですわ! けれど、だからこそ」
メラニーはニッと笑って身を乗り出し、私の耳元で色っぽく囁いた。
「年若いお嬢様には……扱いが、難しすぎるのではなくって?」
私は思わず彼女を見つめる。彼女は再び「うふふ!」と笑って身を引いた。
「ね、如何でしょう? アイリス様が抱えるお悩み。わたくしに、打ち明けてみませんこと?」




