第20話 私は、どうしたら
エルネストは、ホッとしたように私から視線を外し、鋭く言った。
「どうした」
シメオンは「ははっ!」と主のそばに大股で歩いて来る。彼の声は大きくて、私にまで良く聞こえた。
「お食事中、申し訳ありません! 現在、霧がかなり濃くなってきておりまして……風詠み師の見立てによると、食人鬼の奴らが、予想より早く南下して来るのではないか、とのこと。篝火は絶やさぬようにしておりますが、万が一の夜襲に備え、例の火矢を城壁に設置しておくべきかどうか、閣下のご意見を賜りに参りました!!」
「駄目だ。お前も知っての通り、あれの火薬は、まだ全部揃ってない。中途半端な威力でやったところで、折角の火薬が無駄になるだけだ」
エルネストは即答した。シメオンは納得したように頷く。
「やはり、そうですよね。私も、閣下と同じ意見です!!」
「とりあえず、いつもの小隊を城壁に上げろ。俺もすぐに行く」
「御意!!! 城壁上にてお待ちします!!」
シメオンは勢いよく頭を下げ、配下を従えて慌ただしく出て行った。エルネストが私に顔を向ける。
「そういうわけだから、俺行くわ。あんたはゆっくりしていけよ。じゃあな」
エルネストが立ち上がる。私は腰を浮かせ、思わず彼に声をかけていた。
「エルネスト!」
立ち上がって大きな声で呼びかけた私に、彼が怪訝な顔を向ける。私は椅子を離れ、彼に少しだけ歩み寄って、言った。
「……気を付けてね」
「は……?」
エルネストは、ぽかんと口を開けた。本当に、この長方形のテーブルは、長すぎると思う。もう少し、近くでお話が出来たらいいのに。私は仕方なく、その場に立ったまま続けた。
「シメオンさんとの話。私には、詳しいことはよく分からなかったけれど。あなたが、これから城壁の方へ行くと言っていたから。食人鬼が、来るかもしれないのでしょう? だから、気を付けてね、って」
最強騎士団の主である彼に『気を付けてね』なんて、あまりにも子供っぽい、不似合いな言葉かもしれない。でも、私は伝えずにはいられなかった。彼のことが、心配だから。
エルネストは、彼のそばの扉に向かっていた足をこちらに向け、大股で歩いて来た。カツカツ。固い靴音と共に、彼が私の真正面に立つ。そして、彼を無言で見上げる私の頬に手を沿えた。私を見つめる翡翠色の瞳が、オレンジ色のランプの灯に照らされて深い輝きを放っている。
「心配はいらない。俺は……強い。俺は、命に代えても、ここを死守してみせる。俺は絶対に、負けるわけにはいかない。ここを突破されたら……我が国はおしまいだから」
そして彼はふっと微笑み、「心配ありがとな」と言って、私から手を離し、そのまま、私の背後の扉から出て行った。閣下、閣下、と彼を呼ぶ声が、あちこちから聞こえて来る。立ち尽くしてその後姿を見送っていた私のそばに、ラウラがそっと寄って来て、「ほう」と感嘆したように息を吐いた。
「閣下は、本当に凄いお方です! 閣下がいれば、絶対に大丈夫。この城砦は、不滅です!!」
「ええ、そうね……」
(命に代えても、ここを死守、か……。私と同じ若さで、なんという重責を背負っているのかしら……)
私は、エルネストの背負うものの重さを思い、ふう、と息を吐く。でも、あの傲岸不遜のエルネストなら。きっと、どんな難局でも、容易く切り抜けていくに違いない……。
私は、何事もありませんように、と祈りながら、エルネストの出て行った扉をいつまでも見ていた。
食事を終えて、私室に戻る。ラウラと一緒に三階への階段を上りながら、窓の外を見ると、城壁の上に煌々と篝火が焚かれているのが見えた。夜霧は白く流れ、その中に人食い鬼が潜んでいるのかもしれないと思うと、怖くて落ち着かない。城壁は遠すぎて、いくら目を凝らしてみても、エルネストの姿は、どこにも見えなかった。
その夜。
部屋を覆う冷気に、夜半頃に目が覚めた。見ると、暖炉の火が、熾火になって燻っている。私は、眠い目をこすりながら呟いた。
「寝る前に入れた薪が、足りなかったのね……火が、消えちゃいそうだわ」
私は毛糸のケープを羽織ってもぞもぞと起き出した。窓の外を見ると、相変わらず、城壁の上では篝火が燃えている。赤々と燃える火の下には、人の影もちらほら見えた。夜番をしている騎士団の人達だろう。
(こんな時間まで、大変ね……ラウラが前に、騎士団は三交代で一日中警戒に当たっていると教えてくれたわ。彼らのお陰で、私達は、平和に暮らせていたのね)
今が何時頃か分からないが、夜襲は、少なくとも今の段階では無いらしい。エルネストは、あれからどうしたのだろう。もう、部屋に戻れたのだろうか。彼の寝室は隣だが、辺りはしんと静まっていて、何の物音も聞こえない。彼が部屋に戻っているのかどうか、私には分からなかった。
私は、夜の警戒に当たる人々に、窓越しにそっと頭を下げてから、暖炉の方へと歩いて行く。やはり、火はかなり弱々しい。私は、暖炉脇のかごから薪を何本か取って、暖炉にくべた。
「少し、時間はかかりそうだけれど。これで、朝まで……」
両手に息を吐きかけながら呟いた私は、ふっと口を噤む。何か、聞こえた気がした。私は辺りを見回す。しん、と静まった寝室には、当然ながら私しかいない。ビロードのように静かで冷たい夜が、辺りを包んでいる。
(空耳、かしら……。今、人の声が……)
私はドキドキしながら耳を澄ます。どこかから微かに聞こえる、苦しそうな呻き声。私は、その声の持ち主の誰であるかに気付いて、眉を潜める。
「この声は……まさか、エルネスト?」
一瞬、もしかして、彼が女性と一夜を共にしているのだったらどうしよう、という考えがよぎる。が、明らかにこの声はエルネストで、しかも、とても快楽によるものとは思えない。
(さっきラウラが、メラニーさんはもう下の部屋で寝ていると言っていたし……他に、今この城砦に、エルネストが寝室に呼ぶような女性はいない、はずよね?)
私は心臓をバクバクさせながら、足音を忍ばせて、例の一方通行のドアの前に行った。やはりドアの向こうから、苦しそうな呻き声が、断続的に聞こえて来る。
(エルネスト……うなされている?)
私はドアに耳を寄せて、様子を窺った。やはり、うなされている。その苦しそうな声に、私が思わずドアをノックしようとした寸前。
ドアの向こうで、一際大きなうめき声と共に人の動く気配がして、私は飛び上がる。こちらまで聞こえる、大きなため息と、激しく繰り返される呼吸音。暫しして、再び大きなため息と共に、人の動く気配がした。カツカツ、と大きな足音と共に、彼が歩み去って行ったのが分かった。どこかの扉が開く音がして、微かにザーザーと水音がする。
(どうしよう、どうしよう……ノックをしていいの? それとも……そっとしておいた方が……)
私の、ノックをしようと上げた手が震える。ややあって、エルネストの深いため息と共に、彼がまたベッドに戻った雰囲気が分かった。
静寂が訪れる。私の部屋の暖炉で、薪が再び勢いを盛り返してぱちぱちと音を立て始めた。
私は震える手を引っ込め、胸の前でぎゅっと握る。
(やめましょう……誰にだって、誰にも知られたくないことが、あるはずよ。少なくとも、今は、私は出て行くべきじゃない。折を見て、彼が起きている時に、直接……)
私は再び、気配を消して、足音を消して、そっとベッドに潜り込んだ。エルネストの部屋からは、もう何も聞こえなかった。




