第10話 相変わらず、無駄に色気のある男ね
翌日は、透き通った水色の空が広がる、秋晴れの朝だった。
朝食後、エルネストが私の部屋にやって来て、例の書類を差し出した。
「昨夜の約束だ。やるよ」
書面には確かに、ガルディエ辺境伯として、エルネストの署名がされていた。私は喜びに目を輝かせて、腰を折って恭しく礼をする。
「エルネスト、本当に、本当にありがとう! あなたの親切なご協力に、ヴェノワ伯爵家を代表して、心から感謝を申し上げますわ!!」
エルネストは照れくさそうに口を尖らせ、髪をかき上げた。
「いいよ、別に。それ、急ぎなら、ラウラに言って、今朝の便に乗せてもらえよ」
「いいの? ええ、そうさせて頂くわ。ありがとう!」
私は丁寧に貴族院の宛名を書き、エルネストの言う通り、ラウラに今朝の郵便に入れてもらうことにした。ガルディエから中央の貴族院に届くまでは、七日くらい。そこから審議に入るから、正式に沙汰が下るには、早くとも二月くらいはかかるはずだ。
早くアンジュにこのことを知らせたいが、ヴェノワにこのことを手紙で知らせるわけにはいかない。もしもミゲルに見られたら、折角の計画が水の泡だ。近いうちに、どうにか理由を付けて、ヴェノワに里帰りさせてもらうしかない。
(でも、提出さえしておけば、こちらのものよ! ミゲルは多分、このことに気付いていない。そもそも彼は、あの雑報紙のでたらめに惑わされて、私は生贄で死ぬ、と本気で考えているに違いないもの)
その時、私はハッと口元に手を当てた。いけ、にえ……? 私は思わず、真顔でエルネストを見上げる。エルネストは、郵便を持って部屋を出て行くラウラを何気なく見ていたが、私の視線に気づいたらしく、怪訝そうにこちらを見下ろした。
「……なんだよ? 怖い顔して」
私は軽く首を振り、動揺を悟られぬよう、涼しい声で言った。
「いえ、別に。今日はこれから、城内を案内してくれるのでしょう。楽しみだわ、と思って」
「ならもう少し、楽しそうな顔したらどうだよ? 相変わらず、無表情な女だな」
エルネストは呆れたように肩をすくめ、「ほら、行くぞ」と先に立って歩き出した。私はホッとして、彼のあとに続く。
(生贄、か……そんなもの、噂好きな人達の言い出した、大嘘だと思っていたけれど。少し、探る必要がありそうね。今日城内を案内してもらえるのは、幸いだったわ。城内の様子を、よく見ておこう。万が一生贄にされそうになっても、逃げ出す方法を考えておくために)
私はどんな時も、先々の備えを考えておく癖がついていた。私は、自分が非力な凡人であることを、よく分かっているから。それに、我が国の貴族社会での、女性の立場も。いくら身分の高い貴族の妻や娘でも、まるで政治の駒のように、結婚させられたり、離縁させられたり、悲惨な運命に翻弄される。
実はこんな私にだって、17の時に縁談を申し込んできた男がいた。私より5つ年上で、優しくて、私は彼をそれなりに慕っていたのに。彼は私より高位の貴族女性との縁談がまとまった途端、私との話をあっさり破談にした。その時、思ったのだ。私は、身勝手な男達のせいで、不幸になるのは御免だと。
私は、先を歩くエルネストの背をちらと見る。
(そもそも、この男の求婚には、おかしなところが幾つもある。従者は付けるな、荷物も、持参金も不要。極めつけは、あの、部屋の前の兵士よ。護衛、と言えば格好はつくけれど、昨夜の様子では、私の監視としか思えない。私が生贄だから、と考えれば、どれも説明がつくわ。でも、そうはさせない。私は絶対に、アンジュを一人にするわけにはいけないから)
私は、エルネストに連れられて、城の前庭に出て来ていた。城内を歩くのは、これが初めてだ。
エルネストは、今日は黒い絹の上下服に、金の縁取りのある真紅のマントを羽織っている。腰には、大粒のルビーの付いた銀の短剣を差していた。鍛錬の時以外は、この装いだそうだ。いかにも城砦の主らしい、堂々とした姿。エルネストが歩くと、どこからでも「閣下!」と皆の声がかかる。彼らは、遠くからでも尊敬と畏怖の念をこめて、エルネストに深々と頭を下げる。エルネストは、笑みも浮かべず鷹揚に手を上げてそれに応えていて、いかにも威厳ある城主、という感じだ。
「城主様は、人気者なのね」
私が感心して言うと、彼はあっさり頷いた。
「当然だろ。惚れた?」
エルネストのアッシュブロンドの柔らかそうな髪が、秋の陽に透けるように輝いている。美しい翡翠色の瞳が、からかうようにこちらを見下ろしていて、私は密かに呆れた。
(相変わらず、無駄に色気のある男ね。でも、彼のペースに巻き込まれたら駄目よ。今日は私にとって、この男の普段の人柄と、万が一、私が生贄として囚われた場合の、脱出方法を探る日なのだから)
と考えていたら。騎士団の鍛錬場に続く階段を下りていたエルネストが、突然腕を伸ばして、私をぐっと抱き寄せた。私は驚いて、小さく悲鳴を上げる。
「きゃあっ?! ちょっと、何を……」
「あんたさあ……さっきから何なんだよ、その冷淡な顔。もうちょっとこう、可愛く笑うとか、俺に媚びて甘えるとか、なんか出来ねえの? つくづく、愛想のない女だな。だから、『氷姫』なんて後ろ指さされんだよ」
私は動揺して「やめて、離して」と身をよじるが、エルネストは、意地悪な笑みを浮かべて私の腰をぴったり自分に抱き寄せ、耳元で囁いた。
「俺があんたに、女の色気、ってやつを教えてやろうか?」
「ちょっと、やめてったら!」
私が必死に、彼の体を押し返していると。石段の下から、ざわざわと人の声がして来た。
「閣下!! ……っと、これは、その、失礼しました!!」
こちらに向けられた声に、私は焦って階段の下を見る。階段下で敬礼しているのは、例の巨躯の男、騎士団長シメオンだ。彼の背後に、騎士団の人達がわらわらと集まって来ていた。鍛錬中だろう半裸の男達は、階段上の私達をじろじろと見上げている。私は未だ、エルネストに抱き寄せられたままだ。彼らから向けられる下世話な視線に、私の首から上がカッと熱くなる。
(この男……エルネスト! 一体、どういうつもり? こんな、皆の前で……)




