侵略のセントラルキッチン 5(了)
大きくなったら、なにになりたい?
そんな言葉を投げかけられて、僕らは夢を見てきた。
いつからだろう。
なにをしたいか――ではなく。
なにができるか――で、することを決めてしまうようになったのは。
いつしか夢を忘れて、死んだ目で働いていた前世。そのまま死んで、生まれ落ちた今生。
子供のころ、ああはなりたくないと冷めた目で見つめていたつまらない大人に、僕はいつしかなっていた。つまらない大人から、抜け出せなくなっていた。
そのまま、ずるずると――したいことより、できることだけやってきた。
問い直そう。問い正そう。
料理ってなんだろう。働くって、どういうことだろう。そして――マリウス・カリムとは、どういう人物なんだろう。
やあやあ、自分。元気かこの野郎。お前はなにがしたいんだ? わかりやすいよう、一文字変えて聞いてやる。
大きくなったが、なにになりたい?
答えは、とっくに出ていた。
ここ最近、考えていたことがある。
プリムに誇れるマスターって、どんなマスターなんだろう――と。
物事を複雑に考えなさい、と言った人がいる。けれど、愚かな僕には単純なことさえわからなくて、複雑なことなんてもっとわからなくて、向かうべき方向も、向かいたい方角も、霧の中から見出せず、ただ漫然と焦るように歩いていた。
じゃあ、霧が晴れたのかと言われれば、そんなことはない。この霧は、一生晴れることのない霧だ。
みんな、霧の中にいるんだ。酸いも甘いも噛み分けた老爺だって、霧の中で灯りを見失うことがある。――そう、灯りだ。
煌々とは輝かない。霧の中、たやすく見失ってしまうような、ぼんやりとした光。
それでも、自分自身が霧の中から見出した、大切な道標。
そこを目指すことが、生きるってこと。
――なんて、大層なことを言えるほど、僕は立派な人間じゃないけれど。
立派なマスターでありたいと思った。プリムに誇れるマスターとは、プリムが誇れるマスターだ。じゃあ、プリムが僕を誇るのは、どうして? 料理がおいしいから?
ううん、違う。料理はときにだれかの人生を左右する――そんなこともあるだろう。でも、あのとき、行き詰まった少女が錆びだらけのナイフを手にしていたとき、彼女の人生を救ったのはパンとスープじゃない。
「――料理ってさ」
舌先で唇を湿らせて、言葉を紡ぐ。カウンター席に座る赤毛の少女に向けて。
「すごいんだよ。人間の営みの傍らにずっとあって、僕らに教えてくれるんだ。温かさだったり、優しさだったり、希望だったり。それがたとえ、薄っぺらなバンズで肉を挟んだだけのハンバーガーであっても、ひとはそこに未来を見出せる」
エッジの効いたあいつ。歯車を自称した青年。六十年間パンを焼き続けた老爺。――行き詰まりから抜け出した少女も。みんな、料理をきっかけにして灯りを見つけ出した。
「おいしいか、おいしくないか。それは大切な要素。でも、そのどちらであっても、僕らはきっと意味を見出す。なにかを見つけ出す。灯りを――光を見つける」
おいしい、おいしくないは一つの尺度。安い、高いもそう。貴賤がないわけじゃない。貴いか、賎しいかという尺度があるだけ。
僕次第なんだ――僕ら次第なんだ。なにから光を見つけようが、僕らの自由で、勝手だ。
「ねえ、プリム。カフェ・カリムは、いいお店だったよね」
美味い料理を出すのが料理屋だ。でも、それだけじゃない――みんながこの店に見出していたものは。見つけ出した意味は。灯りは。
料理はこのお店を構成する一要素に過ぎなかった。みんな、居場所を求めていたんだ。
貴族も平民も、経営者も労働者も、マスターも従業員も、「ここにいたい」と思える場所。美味い料理。美味い酒。楽しい飯食い仲間に、酒飲み友達。話し相手になる店主。かわいい店員。ぜんぶ、大切な一要素。
そして、赤毛の少女が見出した、このお店の価値は――プリムのような行き詰った者を、決して見捨てない場所であること。
「いい、お店だった。少なくとも、僕にとってカフェ・カリムは大切な意味のあるお店になったよ。だって――プリムみたいな、立派な勇者を送り出せたんだから」
笑って、言う。プリムは、うつむいたまま、肩を震わせた。
「……やっぱり、閉めるんだね。カフェ・カリムを……終わらせちゃうんだね。アタシ、まだ――なんにもできてないのに。返しきれない恩があるのに、なにも……!」
「そんなことはないさ。だって、プリムは――僕を、救ってくれたじゃないか」
僕に意味を与えてくれた。僕を必要としてくれた。惰性で二周目をプレイしようとした愚か者に、居場所をくれた。――ありがとう。だから、
「カフェ・カリムは終わらせる。けれど、これは始まりなんだ。巣立ちの時――ってわけじゃないけれど。僕も、プリムも。もっと先を目指して歩き出す時なんだと思う。僕らは居場所を育んだ。でも、居場所は永遠には続かない――」
ねえ、プリム。僕は、ちゃんと向き合おうと思う。前世を持ち越してしまった我が魂と、前世を持ち込んでしまったこの世界に。
「――従業員のプリムに、最後の業務命令を出します。これは――まあ、したくなければ、しなくていいんだけど」
笑って、少女に語り掛ける。どんな表情をしているのか、下を向いた彼女の顔が見えないのは、少し残念だ。
「僕はこれから、世界を見てくるよ。いままで行ったことのある場所も、行ったことのない場所も、きちんと――世界に向き合って。僕の故郷の――前世の人たちがいたかもしれない場所を巡って。その道行きの道中で、料理を作ろうと思う。だから、プリムは――ここで」
木製のカウンターを撫でる。かんなで削った表面は、使い込んだことでつるりとした感触を与えてくれた。この店を出したばかりのときは、まだざらざらしていたのに。惜しい気持ちも、悲しい気持ちもある。それ以上に、うれしい。僕は、ここに居て――ここに居た。
「居場所を、作ってください。プリムがいて安心できる居場所を。街のみんなが居たいと思えるような場所を。そして――いつか、僕が帰ってきたときに、迎えてくれる場所を作ってくれたら――」
嬉しいな。と、その言葉は続かなかった。顔を上げた少女に、唇を封じられたから。
あ、と思った。唇に触れた柔らかさが、数秒後に離れた。
少女は泣いていた。泣いて、けれど、笑っていた。
「――プリム、僕はキミのことが――」
「言わないで。行きづらくなるでしょ。それに――着いて行きたくなっちゃうじゃない。だから、言わないで」
ヘタレの一世一代の勇気は、すげなくインターセプトされた。
「その言葉の続きは、帰って来てから――聞かせてね」
――まいったな。いつだってプリムは、僕に意味を与えてくれる。
「うん。必ず」
「じゃあ――行ってらっしゃい、だね」
「そうだね。行ってきます、だ」
プリムの笑顔を目に焼き付ける。次、見ることができるのは、五年後か、十年後か――もしかすると、五十年後かも。その時まで待っていてくれるだろうか。きっと待っていてくれる――と思う。
不安はあるけれど、わからないことだらけだけれど、それでいい。霧の中、自分が見つけた光を信じて進んでいく。そこに居場所があると信じて、歩き続ける。
荷物を背負い、店を出て、北を見る。そちらには、貴族円街と王城がある。さようなら。
大通りを歩いて、商人円街を抜ければ、貧民円街がある。下水道ができて、道もむき出しの土ではなく、徐々に石レンガのものに変わってきている。だれかの起こした旋風の影響が、ここにある。
貧民円街の終わり、南門の前に、客でにぎわう店があった。赤と黄色のハンバーガーチェーン店。看板にはKの文字。その看板を横目に見て、少し笑う。
――ノックアウトバーガー。まさにそうだ。してやられたよ。完敗だ。
斑髪の女が、果たして本当に世界を変えられるのかどうか――僕にはわからない。
でも、少なくとも、僕は変わった。
「グッドゲーム。ありがとう。リベンジは――機会があったら、ね」
そう呟いておく。
門をくぐる。風が頬を撫でた。荷物を背負いなおして、南を向く。馬はない。歩いていく。どこに行くかは、この足が決める――ひとまずの目標は共和国だけれど、寄り道はいくらでもしていいはずだ。それじゃあ。
「またね」
僕は帝都に背を向けて。
まずは、一歩を踏み出した。
――数年後、とある港町の酒場で、酔っぱらった行商人が言った。
「帝都に、いい飯屋があったんだ。アンタ、帝都出身なんだってな。知ってるかい?」
問われたのは、ここ最近、この酒場の厨房で働いている流れの料理人だ。腕はいいが、じきにこの町も去るのだという。次は船に乗って、違う国へ行くのだとか。
「……いえ。美味い飯屋ってだけじゃ、さすがに――」
「店名はな、えーと……なんだっけな。アレだ。店主がな、えらい美人なのさ」
「へえ。それはいいですねぇ」
「だろぉ? ああ、また会いたいなあ……こう、身体つきが見事でなあ」
「はあ」
「でな、髪が長くて、それがまた特徴的でなあ」
「長髪――ああ、斑髪ですか。新しく飯屋でも開いたんですか? あの女」
ああん? と酔っぱらいは怪訝そうに顔をしかめた。
「ちげえよ、だれがあんな恐ろしい女の話なんざするか。おれが言ってんのはぁ、赤毛が綺麗なオンナノコがやってる――ああそうだ、店名思い出した。『マリウス』って店の話だよ!」
料理人は少しだけ手を止め、ややあって、また手を動かし始めた。
「――そうですか」
「おお、そうとも! 美人だが、待ち人がいるらしくて、未婚でなあ。もったいねえなあと思ったんだがよ。どうだ? 知ってるか?」
料理人は首を横に振って、少し笑った。
「いえ。知らない店です。でも、いまの話を聞いて、ちょっと、帝都に帰りたくなりました」
「へぇえ? アンタ、さらっとした顔してんのに、美人には目がないタイプ?」
「ま、そんなトコです。――はい、パスタお待ち」
「おお、これこれ! ――そういや、『マリウス』で出た料理と、なんか味付けが似てンだよな。気のせいか?」
「さあ、どうでしょう」
料理人は笑って、また別の料理を作り始めた。
そして、だれにも聞こえないように、
「さすがに名前をそのまま付けられると、恥ずかしいよなあ」
小声でぼやいた。
出国の日は近い。他国を回るのは、帝国から共和国を回ったときよりも時間がかかるだろう。帰るのはいつになることか。料理人は赤毛の少女を思って、微笑んだ。
――長髪か。見てみたいなあ。
料理人は手を止めず、微笑みながら、決意した。次に行く島国をひとまず最後の旅路にして、それが終わったら帝都に帰ろう。その日が、今から楽しみで仕方がなかった。少女はもう、少女とは呼べない年齢になっているし、料理人自身も、相応に年を取った。
変化はだれにだって訪れる。年月は等しく降りかかる。
それを受け入れて、先へ行く。
一歩前にいる自分へ追いつくために。一歩後ろにいる自分を置き去りにして。
帰ったらなんと言おうか。気が早いけれど、と料理人は少し考えて、ひとつの言葉を思いついた。
やはり、帰還のあいさつは、ひとつしかないだろう。
「――ただいま」
「――おかえりなさいっ!」
それは、もう少しあとのお話。




