侵略のセントラルキッチン 3-6
その後、僕がカシ村に滞在していたのは、わずか一か月程度のことだった。
というのも、僕の仕事は定期的に、かつ短期間しか来ることのできないレイチェル・タイムに代わって、調理場のおばちゃんたちに調理法をレクチャーすることだけだったからだ。
「ご存知? 戦国時代の火を使った調理法は基本的には三つしかありませんでしたの。焼く、煮る、蒸す、の三つだけ。この世界の農村部も同様で、採れる食材の種類が地域それぞれで限定的かつ、領土間の移動がほとんどできないため、調理法も古典的なものしかありませんでしたの」
とは、レイチェル・タイムの談。ようするに、オール郷土料理というわけだ。帝都との差があまりにも激しく、しかし、カシ村は新しい村。新興という意味だけでなく、その在り方そのものが新しいという意味で。
だからこそ、その調理場にも最先端が必要である――と、敬愛すべき我が社長はそう考えたわけだ。けれど、調理の最先端にいる社長本人は、人質法のせいで定期的にしか領地に来ることができない。そこでちょうどよく手に入れた僕、つまり転生者かつ料理人であるマリウス・カリムに白羽の矢が立ったと、そういうわけだった。
「お役御免というわけじゃないが、アンタは十分勤めを果たしたからな」
と、ローランさんに言われて、僕はまた馬車に揺られて帰っているわけである。少なくない給与とともに。きちんと給料が出る。当たり前で、けれど、それゆえにレイチェル・タイムの目指す仕組みに、ただ頭が下がる。
「今度はおれが帝都に行くッスよ。働いて、金稼いで、おれ自身を買い戻して、帝都に行くッス。そしたら、また一緒に酒を飲むッス」
エノタイドくんが差し出したこぶしに、僕もこぶしをぶつけた。
労働者として将来に希望を持つエノタイドくんと、自分の居場所さえ不確かな僕。不釣り合いな友情だけれど、それでも、僕は彼と一緒にまた酒を飲みたいと思った。だから、
「じゃあまた――帝都で」
「うッス。また!」
いつかの再会を誓って、僕らは別れた。
どんどん遠くなっていく大きな工場を、少し――いや、かなり寂しく思いながら、僕を乗せた馬車は草原をのんびりと進んでいく。
三日後の朝、帝都のノックアウトバーガー貧民円街店に到着した馬車は、輸送に同乗した専属の凍らせ屋とともに積み荷を降ろしていく。大量の冷凍バンズとパティ。それにソース。さんざんバカにしてきたそれらの商品は、明日に希望を抱いて働く労働者たちが毎日汗を流して生み出しているのだと、僕はもう知っている。
は、と息を吐いてみる。吐息はむなしく宙に散った。
僕は転生者で、元貴族で、冒険者にもなったし、いろいろなことを知っている。けれど、僕はもっといろいろなことを知らない。貧困を知らない。困窮を知らない。希望がない生活を知らない。明日を生きていけるかさえわからない、儚い生命を知らない。
知らないことを、知らない。
無知の知って、だれの言葉だったっけ。アリストテレスかソクラテスか。だれでもいいけれど、ようするに僕のような人間のことを指す言葉には違いなかった。
ぼんやりとノックアウトバーガーを眺めていると、
「オイ、テメェこんなトコでナニしてんだヨッ」
横合いから、ふいに声がかかった。がちゃがちゃしい鎖を巻き付けた男――ハーマンだ。
「なにって、いま帰ってきたところだけど」
「ンなコト見りゃわかるってんだヨ! なンでテメェの店見に行かねえんだって聞いてんのサ!」
「僕の……店?」
そのときの僕は、さぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。
「ど――どういうこと? 僕の店は、カフェ・カリムはノックアウトバーガーの四店舗目になったんじゃ……」
「あァ? なんだそりゃ。オマエ、店とプリムがいまどうなってんのか、まさか知らねぇってのかヨ」
「え、なに? プリムがどうしたのッ? 僕の店、いまどうなってんのッ?」
ハーマンは焦る僕の胸ぐらをつかんで引き寄せた。
「直接見に行け。あと、オマエ貴族の息子だってホントか?」
――そう。のどが干上がったような感触。彼の眼は、ただまっすぐ僕を見つめていた。情報は、もういろいろなところに広がっているのだろう。だったら、もう隠す意味はない。
「……元、だけどね。勘当されたけど、うん。本当だよ」
「なんで勘当された?」
「……僕がガキだったから、じゃないかな」
「そうかヨ。よくわかんネェが、よくわかった。そんじゃ、コレは――ただの見当違いな私怨ダ。存分に恨めヨ、ボンボン」
がつ、と大きな音がした。背中に衝撃。視界には青い空が一面に広がり、じんわりと鼻から熱いものを感じた。で、そのあとようやく、痛みが遅れてやってきた。
そうなってはじめて、ハーマンの額が、僕の顔面に叩き付けられ、仰向けに倒れたのだと気付いた。なんで頭突き? と思う間もなく、ハーマンの右手が僕の胸ぐらを再度ひっつかんで、引っ張り上げ、無理やり立たせた。
「テメェはヨ、恵まれてやがんダ。それはオレッチとはなんの関係もネェ。だがヨ――」
ぎり、と歯をかみしめる音が聞こえた。
「テメェがもてあそんだ豊かさってやつがあれば、オレッチの鎖はこんなに重くはならなかったんじゃネェかって考えると、我慢できなかったのサ。許せなんて言わネェ。やりかえしてぇなら自由にやんナ」
「ハーマン……」
抑えきれない感情に翻弄されながらも、凛と僕を見つめて対峙するハーマンは、なるほど〝エッジ〟が効いていた。そんな彼に、僕は……なにもしなかった。なにもできなかった。
「……なんだ、殴らねえのかヨ」
「……前なら、理不尽さに怒って殴り返してたかもしれないけど」
「じゃあ、いまはなんだってのサ」
「さあね」
僕はきびすを返してハーマンに背を向けた。鼻血が出ているようだけれど、気にしない。痛みに涙がにじんできたけれど、我慢する。
「少なくとも、前みたいなガキのままじゃいたくない。じゃあなんなんだって言われたら、わかんないんだけどね」
ハーマンがそのとき、どんな顔をしていたのかはわからない。ただ、背後からいつもの、ハッ、と吐き捨てるような笑い声と、じゃらじゃらと鳴る鎖の音が聞こえた。
「マリウス・カリム。テメェ、けっこう男じゃねえか」
「いいや――まだこれからさ」
言い捨てて、僕は走り出した。行き先は、もちろん商人円街――カフェ・カリムだ。
カフェ・カリムは変わってしまっていた。ノックアウトバーガーに――ではない。むしろ、建造物としては前のままだ。けれど、大きな違いがある。
文字だ。壁や扉に、赤や黒、青……色とりどりのペンキで、文字が描かれている。
『恥さらし』『うそつき』『三流以下』――よりどりみどりの罵詈雑言。
それはきっと、負けてしまった僕に対する言葉だろう。元貴族である僕が、商人円街を背負って立った挙句、負けてしまったことに対する叫びだろう。
しかし――僕が大きな衝撃を受けたのは、その文字ではない。
壁の前に、ひとりの少女がいる。
手にブラシを持ち、レンガの壁に塗りたくられたペンキをごしごしとこすって洗う少女。真っ赤な短髪に汗が絡んで額に張り付き、健康的に日焼けした肌からは絶えず汗が噴き出している。長時間そうして洗おうとしていたのだろう。必死に――店をきれいにしようとしていたのだろう。
道行くだれかが、「またやってるよ」と言葉をこぼした。きっと、僕がいなかった一か月の間に、見慣れてしまった光景なのだろう。くすくすと笑い声も聞こえた。
一瞬、その笑い声から逃げ出してしまおうかと思った。カフェ・カリムをきれいにしようと、一身に罵声を浴びてもめげず、ただブラシをこすりつける少女から逃げ出してしまおうかと――思った。
どうしようかと迷って、けれど僕は震える足を前へと動かした。
一歩一歩、前へ。
逃げ出そうとする僕の中のガキを必死にいさめて、抑えて、励まして。
ふと、きっとこういうものなんだろうな、と思った。一歩ずつ、変わっていく。自分自身を変えていく。ある日を境に大人な対応をとれるようになる、なんて考え方は、ある朝、目が覚めたらすごい力の持ち主になっていて……なんて妄想と同じなんだ。僕らは少しずつしか歩けない。生まれ持った足の、その小さな歩幅でしか、前に進めない。
だから、一歩。
逃げず、一歩。
歩いて、歩いて、変わっていく。変えていく。そして、残した足跡のことを、きっと努力というんだろう。弱虫な僕の、ほんの少しの勇気が、一歩ずつ積み重なって。
ほら。
「――手伝おうか?」
背中に声をかけると、赤毛の少女はびくりと肩を震わせた。そして、ゆっくりと、おそるおそるこちらへと振り返って、
「……ます、たー?」
「うん」
「ほんとに、マスター?」
「そうだよ。本当に、本物の、マリウス・カリムさ」
「……ぁ」
じわ、と彼女の目じりが潤んだ。そして、
「お――おかえりなさい……ッ!」
うん。
「ただいま、プリム」
重ねた一歩が、彼女に届いた。その足跡を、僕は決して忘れないと思う。




