3話 転生します。探さないでください。
陽暦八五七年。
魔王との戦争が終わってから、五年が過ぎていた。
王国は復興を遂げ、各地の町には平穏な暮らしが戻っていた。
人々は、魔王を倒した英雄たちの名を語り継いでいる。
その一方で、王宮魔法研究所の奥では、ひとりの賢者が机に突っ伏していた。
「……五年じゃ」
ケンはかすれた声でつぶやいた。
「戦争が終わってから、五年も経ったのじゃぞ……」
机の上には、相変わらず書類が積み上がっている。
魔法研究顧問としての仕事。
王宮からの相談。
貴族たちの依頼。
さらには、各地の魔法学校から届く講義の要請まであった。
研究に使える時間は、以前よりも減っている。
「儂は、いったい何のために魔王を討伐したのじゃ……」
ケンは窓の外を見つめた。
彼が求めていたのは、名誉でも地位でもない。
好きな研究を、好きなだけ続けられる暮らしだった。
それなのに、今の自分はどうだろう。
朝から晩まで仕事に追われ、研究室で眠り、目が覚めればまた仕事をする。
まるで書類を処理するために生きているようだった。
「……もう、よい」
ケンは立ち上がった。
引き出しから、古びた魔法書を取り出す。
そこに記されているのは、魂の状態を保ったまま、新たな肉体へ移るための転生魔法だった。
ただし、完成には大きな問題が残っていた。
転生先の時代を指定する術式が、まだ安定していないのだ。
予定した時間よりも、はるか先の未来へ飛ばされる危険がある。
「十年後の世界なら、今よりは仕事も減っておるじゃろう。研究所の制度も変わっておるかもしれぬ」
ケンは魔法書を見つめた。
「十年じゃ。たった十年先へ進むだけでよい」
術式の調整を始める。
魔法陣の線を修正し、必要な魔力の量を計算する。
何度も失敗を繰り返した末、ようやく転生魔法が完成した。
ただし、時代を指定する術式には、わずかな揺らぎが残っていた。
ケンはそれを見逃さなかった。
「……本来なら、もう少し調整すべきじゃな」
机の上には、まだ手をつけていない仕事が山積みになっている。
明日も、明後日も、同じ日々が続く。
ケンは目を閉じた。
「いや。これ以上、先延ばしにはできぬ」
*
その夜、ケンは研究室の扉に鍵をかけた。
誰にも邪魔されないよう、部屋全体に防音結界を張る。
机の上には、一枚の紙が置かれていた。
ケンは筆を取り、短い文章を書き記した。
――転生します。探さないでください。――
「……よし」
ケンは紙を机に置き、完成した魔法陣の中央に立った。
床に刻まれた術式が、淡い光を放ち始める。
魔力が体を包み込み、意識が少しずつ遠のいていった。
そのとき、魔法陣の一部が不規則に明滅した。
「む……? この揺らぎは……」
ケンはすぐに術式を修正しようとした。
しかし、すでに遅かった。
魔法陣がまばゆい光を放ち、研究室全体が震え始める。
「まずいのじゃ!」
光が爆発した。
ケンの意識は、時間の流れに飲み込まれていった。
最後に見えたのは、机の上に置かれた一枚の紙だった。
*
そして、五百年後。
誰もいない研究室には、静かな朝が訪れていた。
ケンの名は、王宮の記録から少しずつ忘れられていった。
しかし、彼が残した魔法の研究成果だけは、時代を超えて受け継がれていく。
ただし、その多くは正しく理解されることなく、いつしか人々からこう呼ばれるようになっていた。
古代魔法と。




