ギルベルト隊の趨勢
霧の森に、また魔獣が出た。
その噂を聞いた時、俺は手にしていた羽ペンを折りそうになった。
いや、実際には折っていない。
折っていないが、先端が少し曲がった。
最近の俺は、ちょっと力加減を間違えるだけで物を壊しそうになる。
非常に不便である。
「霧の森だって?」
休み時間、同級生たちが教室の隅で話していた。
「ああ。また冒険者がやられたらしい」
「前の魔獣はアローが倒したんだろ?」
「なら、今回もアローが行くのか?」
その言葉に、何人かの視線が俺へ向いた。
俺は聞こえていないふりをして、ノートに目を落とす。
もちろん、聞こえている。
むしろ、普通に聞くよりよく聞こえている。
耳が勝手に拾うのだ。
「今度の魔獣は、前のやつより小さいらしいぜ」
「小さいなら楽なんじゃないのか?」
「それが違うらしい。一体なのに、いろんな能力を使うんだと。毒を吐くわ、跳ねるわ、木の上から襲うわ、魔法みたいなことまでしてくるわで、冒険者たちが手も足も出ないらしい」
俺は、そこで完全に手を止めた。
毒。
跳躍。
木の上。
多彩な能力。
小さい魔獣。
胸の奥が冷えた。
心当たりがあるどころではない。
俺は、その魔獣を知っている。
前に霧の森で俺を喰らった魔獣。
いや、正確には俺を取り込んだ魔獣。
あの巨大な親魔獣から分かれた、子のような存在。
俺が倒した親魔獣は、復活していない。
なら、残っていたのは。
俺と同じように、あれに喰われ、あれに作り変えられた何か。
あるいは、あの魔獣の欠片。
俺は、胸の奥がざわつくのを感じた。
笑えない。
今度の相手は、たぶん前回より小さい。
だが、小さいから弱いとは限らない。
むしろ、厄介だ。
一つ一つの能力は低くとも、多彩で、素早く、何をしてくるか分からない。
しかも、俺と同じ系統の力を持っているなら。
俺の未来の姿かもしれない。
そう考えた瞬間、背筋に嫌な汗が流れた。
その日の午後には、噂ではなくなっていた。
正式に、霧の森の魔獣討伐の話が学院にも届いたのである。
学院は貴族子弟の集まる場所だが、魔法学院である以上、王都や周辺領の魔獣対策と無関係ではいられない。
ましてや、前回の霧の森の魔獣を倒したのは、俺という事になっている。
当然、俺に討伐命令が下る。
誰もがそう思っていた。
俺自身も、そうなると思っていた。
正直、行きたくはなかった。
だが、行かなければならないとも思っていた。
あれは、俺と無関係ではない。
いや、無関係どころか、俺が一番近い。
俺はあの魔獣の力を取り込んで生きている。
だからこそ、俺が止めるべきなのかもしれない。
そう覚悟し始めた時だった。
予想外の知らせが入った。
「ギルベルト様が、討伐隊を率いる事になったそうです」
レイシアが、少し困惑した様子で教えてくれた。
「ギルベルトが?」
「はい。正式な決定のようです」
俺は思わず眉をひそめた。
ギルベルト。
俺の同級生で、何かと突っかかってくる男だ。
家柄も実力も悪くない。
剣は一流、魔法も一定以上の水準にはある。
ただし、性格に難がある。
本人は自信家のつもりなのだろうが、こちらから見ると、かなり面倒な方向にこじらせている。
「なぜだ」
「詳しい事は分かりません。ただ……」
レイシアは言いにくそうに目を伏せた。
俺には大体分かった。
イーブルナイツ家とミスルランド家。
俺とレイシアの婚約によって結びつく二つの家。
それを面白く思わない一派がいる。
前回の討伐で俺が手柄を得た。
ならば、今回は別の者に手柄を立てさせる。
あるいは、俺をあえて外す。
政治的には、そういう事なのだろう。
馬鹿げている。
魔獣討伐を、派閥争いの道具にするな。
そう思うが、貴族社会では珍しくもない。
俺も貴族の次男だ。
分かっている。
分かっているからこそ、腹が立つ。
「ギルベルト様は、かなり張り切っているそうです」
「だろうな」
目に浮かぶ。
俺の手柄を奪うつもりで、鼻息を荒くしている顔が。
だが、今回の相手はそういうものではない。
俺は席を立った。
「アロー様?」
「ギルベルトと話してくる」
レイシアが不安そうに俺を見る。
「お止めになった方が……」
「分かっている。たぶん聞かない」
「では、なぜ?」
「聞かなくても、言っておくべき事はある」
俺はそう言って、教室を出た。
ギルベルトは、取り巻きたちに囲まれていた。
廊下の中央で、いかにも得意げに話している。
「今度こそ、はっきりするだろうな」
近づく前から、声が聞こえた。
「本物の魔獣退治というものを、俺が見せてやる」
「さすがギルベルト様!」
「前回の件も、少し怪しいですからね」
「ああ。霧の森で一人だけで魔獣を倒したなど、都合が良過ぎる」
取り巻きの一人がそう言うと、ギルベルトは口元を歪めた。
「化けの皮が剥がれるというものだ」
俺はそこで足を止めた。
怒りはあった。
だが、それよりも先に、面倒くささが来た。
こういう男に助言をするのか。
正直、かなり嫌だ。
しかし、黙って行かせる訳にもいかない。
「ギルベルト」
俺が声をかけると、取り巻きたちが一斉にこちらを見た。
ギルベルトは、待っていたとばかりに笑う。
「おや、英雄殿ではないか」
「少し話がある」
「何だ? 俺が討伐に選ばれた事がそんなに悔しいか?」
「そういう話ではない」
俺は声を抑えた。
廊下には他の生徒もいる。
あまり大声で話したい内容ではない。
「霧の森の魔獣は、普通じゃない。小さいからといって侮るな。能力が多いなら、単体の魔獣と考えず、複数の魔獣を同時に相手にするつもりで動け」
「は?」
「毒、跳躍、奇襲。おそらく、見た目と能力が一致しない。魔法も通りにくい可能性がある。初見で深追いするな。まずは情報を取って、撤退する事も考えろ」
俺は、なるべく具体的に言った。
言える範囲で。
自分の正体につながる部分は隠しつつ、それでも役に立つように。
ギルベルトは、しばらく俺を見ていた。
そして、大きく鼻で笑った。
「随分と詳しいな」
「前回、霧の森で戦ったからな」
「本当に戦ったのなら、そうだろうな」
取り巻きたちが小さく笑う。
ギルベルトは俺に顔を近づけた。
「心配してくれているのか? それとも、自分が行けないのが悔しくて、俺を怖がらせようとしているのか?」
「ギルベルト」
「安心しろ。俺はお前と違って、運やまぐれに頼るつもりはない」
こいつは駄目だ。
話を聞く気がない。
それでも、俺は最後に言った。
「撤退の合図だけは決めておけ。誰か一人が危険だと思ったら、全員で退け。名誉より命を優先しろ」
「黙れ」
ギルベルトの声が低くなった。
取り巻きたちも笑うのをやめる。
「俺が本物の魔獣を倒して、お前の化けの皮を剥がしてやるぜ!」
その言葉を吐き捨て、ギルベルトは俺の横を通り過ぎた。
取り巻きたちもそれに続く。
俺は、その背中を見送るしかなかった。
廊下の空気が、嫌に冷たかった。
失敗する。
俺はそう思った。
腹立たしいが、そう思えた。
ギルベルトの実力は、決して低くない。
取り巻きの中にも腕の立つ者はいる。
護衛や学院側の人間もつくだろう。
普通の魔獣なら倒せるかもしれない。
だが、今回は違う。
あれは、普通ではない。
俺と同じように、多彩な魔獣の力を持っているなら、初見殺しの塊だ。
毒がある。
速度がある。
奇襲がある。
もしかすると、再生や擬態もあるかもしれない。
魔法耐性もあるかもしれない。
小さいからこそ、森の中では捕まえにくい。
そんな相手に、手柄欲しさで突っ込めばどうなるか。
考えるまでもない。
もしギルベルトが失敗すれば、今度こそ俺に討伐命令が下る。
そうなる。
必ず。
そして、前回勝てたのは、僥倖に近い。
俺は自分の力を過信していない。
いや、過信しそうになる時もある。
オークを倒し、オーガを倒し、黄金鎧のミノタウロスを倒した。
確かに俺は強くなった。
だが、強くなったからこそ分かる。
上には上がいる。
何より、俺は強くなるたびに人間から遠ざかる。
ミノタウロスの肉をほんの少し食べただけで、俺は角を生やしかけた。
あれ以上のものを取り込めば、戻れなくなる。
では、どうする。
強い魔獣の肉は危険。
だが、強くならなければ勝てない。
ならば。
「浅層だ」
俺は、自室で一人呟いた。
強力な魔獣ではなく、能力の違う魔獣を集める。
一つ一つは小さくてもいい。
毒。
粘液。
夜目。
壁登り。
硬い皮膚。
水中行動。
音を消す能力。
鋭い嗅覚。
小型の魔獣なら、取り込んでも変化はまだ抑え込めるはずだ。
強さではなく、手札を増やす。
正面から殴り合うだけでは勝てない相手に備える。
それが今の俺に出来る準備だった。
翌日から、俺は学院の後、ダンジョン浅層に潜った。
目元を隠し、冒険者ローとして。
深くは行かない。
中層にも行かない。
浅層で、ひたすら種類を探す。
スライム。
その粘液。
直接食べたいものではない。
まったく食べたいものではない。
だが、粘着性や衝撃吸収の性質は使えるかもしれない。
俺は仕留めたスライムの核を砕き、残ったものを収納した。
バット系魔獣。
夜目と超音波のような感覚。
これは役に立つ。
暗い森でも、霧の中でも、敵の位置を掴める可能性がある。
小型リザード。
壁に張りつく脚。
これはどうかと思ったが、森の木々を移動するなら使えるかもしれない。
ポイズントード。
毒。
毒は既に持っているが、種類が違えば効果も違う。
相手が毒に耐性を持っている可能性もある以上、複数あるに越した事はない。
アイアンビートル。
小さな甲虫型魔獣。
外殻が硬い。
防御に使えるかもしれない。
シャドウラット。
影に紛れるのが上手い。
あまり食べたくない。
とても食べたくない。
だが、役に立つなら仕方ない。
俺は魔獣を倒すたび、収納していった。
人目があれば売る分だけ出し、必要なものは残す。
ギルドの受付嬢は、俺が浅層の素材ばかり大量に持ち帰るのを不思議そうに見ていた。
「ローさん、今日はずいぶん種類が多いですね」
「研究用だ」
「研究?」
「ああ」
嘘ではない。
自分の身体で試す、最悪の研究だ。
その夜、俺は街の外の森へ向かった。
いつもの場所。
誰もいない事を確認する。
耳を澄ませる。
鼻を利かせる。
大丈夫。
人はいない。
俺は収納から、浅層の魔獣たちを取り出した。
並べると、実に食欲の湧かない光景だった。
肉らしい肉は少ない。
ぬめり、外殻、皮、毒袋、妙な匂いのする部位。
貴族の食卓どころか、まともな獣の餌にも見えない。
「……これを食うのか」
自分で集めたくせに、かなり嫌だった。
オークやオーガの肉を前にした時は、恐怖の中にも欲望があった。
食いたい。
取り込みたい。
強くなりたい。
そういう衝動があった。
だが、スライムやシャドウラットには、あまりそういう気分にならない。
むしろ、理性の方が嫌がっている。
ある意味では健全かもしれない。
俺はまず、バット系魔獣の肉を少し食べた。
苦い。
不味い。
だが、身体の変化は小さい。
耳の奥が少し熱くなり、暗闇の輪郭が深くなった。
次に、リザード。
硬い。
皮がやたら硬い。
噛むたびに、自分が何をしているのか分からなくなる。
指先が少しざらつき、掌に吸い付くような感覚が生まれた。
ポイズントードは、最悪だった。
味がどうこうではない。
舌が痺れた。
喉が焼けた。
しばらく地面を転げ回る羽目になった。
だが、毒袋の感覚は掴めた。
体内で毒を作り分けるような、非常に嫌な感覚だ。
アイアンビートルは、外殻を直接食べる訳にはいかず、砕いて中身を取り込んだ。
身体の表面が一瞬だけ硬質化しかけ、俺は慌てて抑え込む。
危ない。
全身に虫の外殻など出たら、それはもう終わりである。
シャドウラットは、最後まで迷った。
迷ったが、結局食べた。
不味かった。
涙が出るほど不味かった。
ただ、その直後、気配を薄くする感覚のようなものが身体に沈んだ。
これは使える。
使えるが、代償として精神が少し削れた気がする。
俺は木の根元に座り込み、しばらく空を見上げていた。
ミノタウロスほどの激変はない。
角も出ない。
骨格も大きくは変わらない。
だが、別の意味で気味が悪い。
俺の中に、小さな能力が次々と増えていく。
耳の奥。
舌の下。
皮膚の表面。
指先。
目の裏。
身体のあちこちに、魔獣の機能が巣を作っていくような感覚。
強い力で一気に壊されるのではなく、内側から少しずつ侵食される。
そんな怖さがあった。
「これで、足りるのか……?」
分からない。
まったく分からない。
だが、やらないよりはましだ。
俺はそう自分に言い聞かせた。
数日が過ぎた。
ギルベルトの討伐隊は、霧の森へ向かった。
学院では、その話題で持ちきりだった。
「ギルベルト様ならやってくれるさ」
「でも、相手はかなり厄介らしいぞ」
「アローが行かなくて良かったのか?」
「政治的なあれだろ」
「声が大きいぞ」
俺は何も言わなかった。
言ったところで、どうにもならない。
レイシアは、ずっと不安そうだった。
俺の事だけではない。
ギルベルトの事も、討伐隊の事も、霧の森の近くに住む人々の事も心配しているのだろう。
優しい子だ。
だからこそ、俺は何も言えなかった。
セリオ先生とは、何度か目が合った。
先生は何も言わない。
だが、その視線は俺に問いかけているようだった。
君はどうするのか。
そう言われている気がした。
どうするも何もない。
命令がなければ動けない。
勝手に動けば、ギルベルトの部隊の邪魔になる。
政治的にも問題になる。
そういう理屈はある。
だが、本音を言えば、俺は怖かった。
霧の森に行くのが。
あの魔獣と向き合うのが。
そして、自分が何者なのかを、突きつけられるのが。
そんなある日の午後。
学院に、使者が駆け込んで来た。
授業中だった。
廊下が騒がしくなる。
教師たちが慌ただしく動き、生徒たちもざわめき始める。
俺の耳は、扉の向こうの声を拾ってしまった。
「霧の森……討伐隊が……」
「壊滅……」
その二文字を聞いた瞬間、教室の音が遠のいた。
壊滅。
ギルベルト隊が。
やはり、という思いがあった。
だが、それは何の慰めにもならない。
俺は立ち上がりかけて、椅子を鳴らした。
教師がこちらを見る。
同級生たちも一斉に振り向く。
レイシアが、青ざめた顔で俺を見ていた。
俺は拳を握る。
爪が掌に食い込みそうになる。
抑えろ。
今ここで変化するな。
人前だ。
学院だ。
俺はアロー・イーブルナイツだ。
だが、心臓が激しく鳴っている。
恐怖。
焦燥。
怒り。
そして、どこかで冷たく納得している自分。
失敗すると思っていた。
その通りになった。
なら、次は俺だ。
今度こそ、俺に命令が下る。
霧の森へ。
あの魔獣の元へ。
俺と同じものかもしれない相手の元へ。
教師が低い声で告げた。
「本日の授業は、ここまでとします。生徒は指示があるまで教室で待機するように」
教室中が騒然となった。
だが、俺にはそれらが遠く聞こえた。
レイシアが近づいて来る。
「アロー様……」
その声だけは、はっきり聞こえた。
俺はレイシアを見た。
泣きそうな顔だった。
セリオ先生の言葉が脳裏をよぎる。
レイシア様を泣かせる人を許しはしません。
俺だって、許さない。
そのはずだった。
だが、今レイシアを泣かせそうにしているのは誰だ。
魔獣か。
ギルベルトを行かせた派閥か。
それとも、これから霧の森へ向かおうとしている俺か。
分からない。
何も分からない。
ただ、一つだけは分かった。
最後の戦いが近づいている。
俺が人間でいられるかどうか。
アロー・イーブルナイツとして戻って来られるかどうか。
それを決める戦いが。
俺は震える手を、机の下で握り締めた。
掌の中で、爪が少しだけ伸びかけていた。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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