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魔獣英雄アロー  作者: あおおに


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8/16

戻れない未来

 翌朝、俺は妙に穏やかな気分で目を覚ました。

 いつもなら、目覚めた瞬間に身体の違和感を確認する。

 耳は変に伸びていないか。

 爪は鋭くなっていないか。

 足が床を蹴りたがっていないか。

 鼻が余計な匂いを拾い過ぎていないか。

 そんな事ばかり気にしていた。


 だが、その朝は少し違った。

 窓から差し込む光が暖かい。

 遠くで鳥が鳴いている。

 廊下を使用人が歩く足音がする。


 朝食の匂い。

 焼いたパン。

 スープ。

 肉。

 肉。

 ……いや、肉に反応するのはいつも通りだった。

 それでも、気分は悪くなかった。


 昨日の夜、カイルたち後輩パーティーと飲み食いしたからだろうか。

 安い酒。

 安い肉串。

 貴族の食卓に比べれば、決して上等とは言えない料理。

 だが、あいつらは本当に楽しそうだった。


 ロー先輩、ロー先輩と、やたら懐いて来た。

 俺の戦い方を聞きたがり、俺の助言に真剣に頷き、俺が少し冗談を言うと素直に笑った。

 まるで、俺が普通の先輩であるかのように。

 化け物じみた力を使った俺を、気味悪がるのではなく。

 命の恩人として、冒険者の先輩として、見てくれた。


 それが、思った以上に効いていた。

「……単純だな、俺も」

 自分で呟いて、少し笑う。

 人から感謝されて、飯を食って、酒を飲んで。

 それだけで気分が軽くなる。

 そんな自分に、まだ人間らしさが残っているような気がした。


 


 学院に行くと、いつものようにレイシアが待っていた。

「おはようございます、アロー様」

「ああ、おはよう、レイシア」

 挨拶を交わす。

 それだけの事だ。


 だが、レイシアは俺の顔を見ると、少しだけ目を細めた。

 不思議な表情だった。

 最近のレイシアは、俺を見るたびに心配そうな顔をしていた。


 当然だ。

 森に行く。

 ダンジョンの話を聞く。

 身体つきが急に変わる。

 どう考えても、婚約者としては不安になる。

 だが、その日のレイシアの目は少し違った。

 心配が消えた訳ではない。

 たぶん、まだある。

 しかし、その奥に、妙な安堵のようなものがあった。


「何か、ありましたか?」

「何がだ?」

「いえ……今日は少し、雰囲気が柔らかい気がします」

「そうか?」

「はい」

 レイシアは嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、俺は少し言葉に詰まる。

 雰囲気が柔らかい。

 そう見えたのなら、昨日の後輩たちには感謝するべきかもしれない。


 俺は、自分でも気づかないうちに、ずいぶん張り詰めていたらしい。

「昨日、少し楽しい事があってな」

「楽しい事、ですか?」

「ああ。まあ、大した事じゃない」

 ダンジョンで黄金鎧のミノタウロスを倒し、後輩たちを助け、その後居酒屋で飲み食いした。


 大した事ではない。

 いや、大した事しかない。

 だが、レイシアに詳しく話す訳にはいかなかった。

 特に毒液を吐いたあたりは、絶対に話せない。

「そうですか」


 レイシアは深く追及しなかった。

 ただ、ほっとしたように笑っている。

 その笑顔を見ると、胸の奥が少し痛んだ。

 俺はレイシアを安心させたい。

 心配をかけたくない。

 泣かせたくない。

 そう思っている。

 思っているのに、俺は隠し事ばかり増やしている。


 それでも、その日は穏やかだった。

 授業も普通に受けた。

 魔法理論の講義では、教師の説明が妙に遅く感じた。

 いや、教師が遅いのではない。

 俺の感覚が変わっているのだ。


 手元の羽ペンを動かす速度。

 隣の席の生徒がページをめくる音。

 教室の外を飛ぶ虫の羽音。

 全てが細かく分かる。

 だが、今日はそれほど苛立たなかった。

 そのうち、同級生の一人が休み時間に近づいて来た。


「アロー、お前、ダンジョンの事を色々聞いてただろ?」

「ああ」

「昨日、ギルドで妙な噂を聞いたんだ。中層に黄金鎧のミノタウロスが出たらしいぞ」

 俺は平然とした顔を保った。

 いや、保とうとした。


「そうなのか」

「しかも、それを一人の冒険者が倒したらしい。目元を隠した若い剣士で、魔法も使えたとか」

「へえ」

「なあ、それって――」

「世の中には似たような者が三人いると言うだろう」

「まだ何も言ってないぞ」


「そうか」

 同級生は怪しげな目で俺を見た。

 横では別の同級生が笑っている。

「アローがそんな変装してダンジョンに潜る訳ないだろ」

「まあ、そうだよな。こいつ、そういう無茶はしない感じだし」

 俺は曖昧に笑った。


 無茶はしている。

 かなりしている。

 だが、学院でこうして友人たちとくだらない話をしていると、自分が本当に普通の学生に戻ったような気がした。

 ダンジョン。

 冒険者。

 魔獣。

 肉。

 変化。

 それらは全部、遠い場所の出来事で。

 ここにいる俺は、ただのアロー・イーブルナイツなのだと。

 そう錯覚出来た。

 その錯覚は、悪くなかった。


 


 放課後。

 俺は街の外へ向かった。

 昨日のうちに食べなかった、黄金鎧のミノタウロスの肉。

 それを確認する為だ。


 結局、我慢出来なかった。

 いや、今回はただの食欲ではない。

 確認だ。

 あれほどの異常個体の肉が、俺にどんな影響を与えるのか。

 それを知らなければならない。

 危険を知る為にも、少しは試しておくべきだ。


 実にもっともらしい理屈である。

 人間というものは、自分の欲望に都合の良い理屈を見つけるのが上手い。

 俺も例外ではなかった。

 いつもの森の奥。

 人の気配がない場所。


 俺は耳を澄ませ、鼻を利かせ、周囲を確認した。

 小動物の気配。

 鳥。

 虫。

 遠くを歩く鹿のような獣。

 人間はいない。

 風向きも問題ない。

 俺は収納魔法から、ミノタウロスの肉を取り出した。


 黄金の鎧はギルドに提出したが、肉の一部は残してある。

 赤黒い肉。

 普通の牛肉よりも遥かに濃い魔力を帯びている。

 近づけただけで、鼻の奥が熱くなった。

 喉が鳴る。

 やめておけ。

 頭のどこかで、冷静な自分が言った。


 これは危険だ。

 オーガの時点で、かなり変化が大きかった。

 ミノタウロスはそれ以上だ。

 しかも異常個体。

 黄金の鎧をまとい、魔法を弾くような存在だ。

 食べれば、何が起こるか分からない。


「少しだけだ」

 俺はそう呟いた。

 少しだけ。

 便利な言葉である。

 そして、大抵守られない言葉でもある。

 俺はミノタウロスの肉に歯を立てた。

 その瞬間。

 全身を、雷に貫かれたような痛みが走った。


「がっ……!?」

 俺は肉を取り落とし、その場に膝をついた。

 痛い。

 熱い。

 重い。

 身体の内側で、何かが暴れ出した。


 血が沸騰する。

 筋肉が膨れ上がる。

 骨が軋む。

 いや、軋むどころではない。

 ゴリゴリと、明らかに鳴ってはいけない音を立てて、骨格が変わろうとしている。


「ぐ、うううううっ……!」

 背中が広がる。

 肩が分厚くなる。

 腕が太くなる。

 指先に力が集まる。

 爪が伸びようとする。

 脚が、人間の脚ではない何かへ変わろうとする。


 ミチミチと筋肉が膨れ、服が悲鳴を上げた。

 胸が圧迫され、呼吸がうまく出来ない。

 視界が赤く染まる。

 鼻の奥に、血と土と獣の匂いが一気に押し寄せた。

 そして。

 両のこめかみに、激痛が走った。


「っ、ああああああっ!」

 何かが、内側から突き破ろうとしていた。

 角。

 そう理解した瞬間、俺は本能的に両手で頭を押さえた。

 嫌だ。

 それは駄目だ。

 腕が太くなるのも、背が伸びるのも、爪が鋭くなるのも、まだ誤魔化せるかもしれない。

 だが、角は駄目だ。

 こめかみから角が生えたら、もう言い逃れなど出来ない。


 成長期では済まない。

 寝癖でも済まない。

 貴族の次男どころか、人間ですらない。

「出るな……!」

 俺は歯を食いしばった。

「出るな、出るな、出るな……!」

 魔力を巡らせる。

 身体の変化を抑え込む。


 筋肉を締め、骨を固定し、皮膚の下で暴れる何かを押し戻す。

 それは魔法というより、力任せの抵抗だった。

 自分の身体に、自分の意思を叩きつける。

 俺は人間だ。

 俺はアローだ。

 牛の怪物ではない。

 ミノタウロスではない。

 レイシアの前に立てなくなるような姿にはならない。


 絶対に。

 絶対にだ。

 頭の中に、昨日の後輩たちの顔が浮かんだ。

 ロー先輩と呼ぶ声。

 レイシアの優しい目。

 セリオ先生の問い。

 あなたは、誰なのですか。

 俺は、アロー・イーブルナイツだ。

 それ以外の何者でもない。

 そう答えた。

 なら、ここで変わる訳にはいかない。


 こめかみの内側で、何かがさらに押して来る。

 皮膚が裂けそうになる。

 熱い。

 痛い。

 意識が飛びかける。

 だが、俺は叫びながら、それを押し返した。

「戻れぇっ!」

 魔力が弾けた。


 周囲の枯葉が吹き飛び、近くの木の枝が揺れる。

 俺は地面に両手をついた。

 爪が土を抉る。

 いや、爪。

 俺は慌てて手を見る。

 伸びかけている。

 黒く、硬く、獣の爪のように。


 俺はさらに集中した。

 戻せ。

 戻せ。

 戻せ。

 人間の手に。

 ペンを持つ手に。

 レイシアの手を取れる手に。

 剣を握る手に。

 魔獣の爪ではなく、人間の指に。

 どれほど時間が経ったのか分からない。

 実際には、数分だったのかもしれない。

 だが、俺には何時間にも感じられた。

 やがて、暴れる力が少しずつ弱まっていった。


 筋肉の膨張が止まる。

 骨の軋みが収まる。

 こめかみの痛みも、完全には消えないが、突き破るような感覚は遠ざかった。

 俺はその場に倒れ込んだ。


「はっ……はっ……はっ……」

 呼吸が荒い。

 全身が汗で濡れている。

 服はあちこち破れかけていた。

 腕は、また太くなっている。

 肩も厚い。

 胸板もさらに増した。

 だが、角は出ていない。

 爪も、どうにか人間の形に戻った。


 まだ、戻れた。

 俺は震える手で、こめかみに触れた。

 皮膚の下に、硬いものがある。

 普段はなかったはずの、妙な芯のような感触。

 角の根。

 そんな言葉が頭に浮かび、俺は吐き気を覚えた。

「……危なかった」


 声が掠れていた。

 危なかった。

 本当に危なかった。

 オーガの時は、まだ強化だった。

 恐ろしくはあったが、身体が強くなるという実感の方が大きかった。

 だが、今回は違う。

 これは変質だ。

 人間の形から、別のものへ引っ張られる感覚。

 ほんの少しでも気を抜けば、俺は戻れなかったかもしれない。


 ミノタウロス級の肉を取り込むのは、もう危険だ。

 少なくとも、今の俺には危険過ぎる。

 異常個体なら、なおさらだ。

 あれを全部食べていたら、どうなっていた?

 巨大な体。

 牛の頭。

 角。

 怪力。

 魔法耐性。

 黄金の鎧こそないにせよ、人の形を失った何かに成り果てていたかもしれない。


 その姿で、学院に戻るのか。

 レイシアの前に立つのか。

 セリオ先生に、俺はアローだと言うのか。

 無理だ。

 そんなものは、もうアローではない。

 俺は地面に転がったまま、空を見上げた。

 木々の隙間から、夕方の光が差し込んでいる。

 綺麗だった。

 綺麗なはずなのに、その光がひどく遠く見えた。


 昨日の夜、俺は少し救われた気分になっていた。

 後輩たちに感謝され、先輩と呼ばれ、普通に飯を食って笑った。

 今日の朝も穏やかだった。

 レイシアも優しく笑ってくれた。

 学院で同級生たちと話している時、俺はまだ普通の学生でいられると思った。

 だが、違う。

 それは表面だけだ。


 俺の内側には、もう魔獣がいる。

 ホーンラビット。

 ウルフ。

 オーク。

 オーガ。

 毒を持つ魔獣。

 そして、ミノタウロス。


 喰らうたびに、俺は力を得る。

 だが、そのたびに、人間の形から遠ざかる。

 なら、どこまで行けば終わる?

 どこで止まれる?

 止まれるのか?


 強くなりたい。

 もっと知りたい。

 新しい力を得たい。

 その欲望は、確かに俺の中にある。

 そして同時に、レイシアの前で人間でいたいという願いもある。

 その二つが、俺の中で互いに噛み合わず、血を流している。


「……どうすればいいんだよ」

 森の中で、俺は呟いた。

 答える者はいない。

 鳥の声も、虫の音も、風の音も聞こえる。

 だが、俺の問いに答える声はない。

 未来が見えなかった。


 いや、見えているのかもしれない。

 暗い未来が。

 俺が少しずつ人間から離れ、いつか戻れなくなる未来。

 レイシアの前に立てなくなる未来。

 セリオ先生の問いに、もう答えられなくなる未来。

 その未来が、暗澹とした闇のように、俺の前に広がっていた。


 俺は何とか身体を起こした。

 足が震えている。

 オーガやミノタウロスの力を取り込んだはずなのに、今の俺はひどく弱かった。

 肉体ではない。

 心が。

 俺は取り落としたミノタウロスの肉を見た。


 まだ残っている。

 濃い魔力を放ち、俺を誘っているように見える。

 食べれば強くなる。

 食べれば、もっと強くなる。

 食べれば。


「……収納」

 俺は肉を収納魔法に戻した。

 捨てる事は出来なかった。

 その時点で、俺は自分の弱さを思い知った。

 食べないと決めたなら、焼くなり埋めるなりすればいい。

 なのに、収納した。

 いつか食べるかもしれない。

 そう思っている自分がいる。


 最低だ。

 俺はふらつきながら立ち上がり、街へ向かって歩き出した。

 夕闇が森を満たしていく。

 人の世界へ戻る道が、いつもよりずっと細く、頼りなく見えた。

 それでも俺は歩いた。


 まだ戻れる。

 まだ人の形をしている。

 まだアロー・イーブルナイツとして、学院に帰れる。

 今は、それに縋るしかなかった。

読んでいただいて、ありがとうございます。

こんなお話でも面白いと思って下さったら、『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』にしてポイントを入れてもらえたら嬉しいです。

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