セリオ・ラングフォード
翌日、俺は学院で、実に自然な顔をして同級生に話しかけていた。
「ダンジョンって、実際どんな感じなんだ?」
そう尋ねた相手は、既に何度かギルド経由でダンジョンに入った事のある同級生だった。
魔法学院の生徒と言っても、卒業後の進路は様々である。
宮廷魔導士を目指す者もいれば、貴族家の家臣となる者もいる。中には冒険者として名を上げたいという者もいるし、実家の商会に箔を付ける為、学生のうちからダンジョン経験を積む者もいた。
俺はこれまで、そういう連中を少し冷めた目で見ていた。
危険を冒してまで金を稼ぐ必要があるのか、と。
だが、今は違う。
ダンジョン。
そこには、魔獣がいる。
しかも、森で探し回らずとも、向こうから出て来るらしい。
なんとも都合が良い場所ではないか。
「浅層なら、ホーンラビットとかスライムとかウルフ系が多いかな。少し奥に行くと、ゴブリンやオークも出る。まあ、油断しなければ大した事ないけどな」
「オークか」
俺は、思わずその名を繰り返してしまった。
オーク。
肉が多そうだ。
いや、違う。
そういう事ではない。
いや、そういう事なのか?
「アロー様?」
背後から声をかけられ、俺は肩を跳ねさせた。
振り返ると、レイシアが不安そうな顔で立っていた。
「最近、魔獣の事ばかり聞いていませんか?」
「そうか?」
「そうです。ホーンラビットの時もそうでしたし、昨日も森に行っていましたよね」
「ああ、あれは少し身体を動かしただけだ」
嘘ではない。
身体は動かした。
動かし過ぎたくらいだ。
「ダンジョンに行くつもりなのですか?」
レイシアの声が、少しだけ硬くなる。
俺は苦笑して見せた。
「本格的に潜るつもりはない。身体が鈍らない程度だ。実戦経験も必要だろう?」
「それは、そうですけど……」
「心配するな。無茶はしない」
無茶はしない。
たぶん。
少なくとも、死ぬような無茶はしない。
俺はもう一度、レイシアに笑いかけた。
彼女は納得しきれない顔をしていたが、それ以上は言わなかった。
五歳下の婚約者に心配されるというのも、なかなか情けない話である。
しかし、その心配が少し嬉しいと思ってしまう自分もいた。
そのやり取りを、廊下の向こうから見ている者がいた。
セリオ・ラングフォード先生。
若い教師で、俺たちに魔法制御を教えている人だ。
穏やかな物腰で、生徒からの評判も悪くない。
ただ、その視線は妙に鋭かった。
俺と目が合うと、先生は軽く会釈をした。
俺も会釈を返す。
それだけだった。
だが、なぜか背筋に冷たいものが走った。
数日後。
俺は学院が休みの日を選び、街の冒険者ギルドへ向かった。
もちろん、アロー・イーブルナイツとしてではない。
目元を隠す革製の防具を身に着け、髪もいつもと違う形に整えた。
貴族の次男が、こそこそとギルドに登録する姿など、あまり見られたものではない。
「名前は?」
「ローだ」
受付嬢に聞かれ、俺は短く答えた。
アローから、アを取っただけである。
我ながら雑だとは思う。
だが、咄嗟に偽名を考えろと言われても、そうそう上手い名前など出て来ない。
「ローさんですね。魔法職ですか?」
「一応、剣も使える」
「では、浅層からの探索をおすすめします。無理はしないでくださいね」
「ああ」
登録はあっさり終わった。
ギルドカードを受け取り、俺はダンジョンへ向かう。
街の外れにある石造りの門。
その奥に、地下へ続く階段があった。
そこから漏れて来る空気は、ひんやりとして、少し湿っている。
そして、わずかに獣臭い。
俺の鼻が、それを拾った。
以前の俺なら気づかなかっただろう。
だが今は分かる。
魔獣がいる。
奥に。
たくさん。
「……行くか」
階段を下りながら、俺は自分の口元が笑っている事に気づいた。
浅層は、拍子抜けするほど穏やかだった。
石畳の通路。
薄く光る苔。
時折、壁の割れ目から小さな虫が走る。
やがて、ホーンラビットが一匹、通路の向こうに現れた。
こちらを見て、角を低く構える。
俺は足を止めた。
「お前は、もういい」
ホーンラビットは警戒していたが、俺が横を通り過ぎても襲って来なかった。
いや、襲おうとしたのかもしれない。
ただ、その動きが遅過ぎた。
俺は、軽く身をひねるだけで避けてしまう。
今さら、この程度を食べても仕方がない。
既に持っている力だ。
どうせなら、新しいものが欲しい。
そう考えている自分に気づき、少しだけ怖くなる。
人間は普通、魔獣を食べて能力を得ようなどとは思わない。
当たり前だ。
そんな事をする人間はいない。
なのに俺は、既に次の獲物を探している。
通路を進むにつれ、魔獣の種類が変わっていった。
スライム。
ゴブリン。
ウルフ。
ウルフは少し興味を引かれた。
俊敏さ。
嗅覚。
群れで獲物を追う感覚。
それは悪くない。
だが、人目があった。
少し離れたところで、別の冒険者パーティーが戦っている気配がする。
耳が拾ってしまうのだ。
金属音。
息遣い。
誰かが小声で悪態をつく声。
近い。
ここで食えば見られる。
俺はウルフを中級風魔法で仕留めると、死骸に手を触れた。
「収納」
魔法陣が淡く光り、ウルフの死骸が消える。
収納魔法。
貴族の子弟としては、珍しくもない便利魔法である。
俺はその瞬間、天啓を得たような気分になった。
「そうか」
思わず呟く。
「我慢するのは辛いが、こうしておいて誰もいない所で食べれば良いんだな」
なんと賢い。
いや、賢いのか?
考えている内容は最悪である。
だが、方法としては正しい。
それからの俺は、かなり調子が良かった。
新しい魔獣を見つける。
倒す。
収納する。
次へ行く。
ゴブリンはあまり食べたい気分にはならなかったが、念のため収納した。
ウルフは数匹。
大きめのバット系魔獣も一体。
そして、浅層の奥で、ようやく目当ての一つに出会った。
オークである。
薄暗い広間の中央に、そいつはいた。
人間より一回り大きな体格。
分厚い脂肪と筋肉。
豚に似た顔。
手には粗末な棍棒。
こちらを見るなり、鼻を鳴らして突進して来た。
普通の学生なら、悲鳴を上げてもおかしくない迫力だった。
俺は杖を構える。
「サンダージャベリン」
雷の槍が生まれ、まっすぐにオークの胸を貫いた。
オークは一歩、二歩と進み、それから膝をついた。
巨体が床に倒れる。
あっさりしていた。
あまりにも、あっさりしていた。
俺はオークの死骸に近づく。
鼻をくすぐる血と肉の臭い。
喉が鳴った。
まずい。
ここで食うな。
食うな、アロー。
お前は人間だ。
少なくとも、まだ人間のふりをしている。
「収納」
どうにか理性を働かせ、俺はオークを収納した。
その後、俺はさらに奥へ進んだ。
最初は浅層だけのつもりだった。
身体が鈍らない程度。
レイシアにもそう言った。
だが、足が止まらない。
耳が奥の音を拾う。
鼻が強い獲物の匂いを嗅ぎ取る。
心臓が高鳴る。
もっと奥へ。
もっと強い獲物へ。
気づけば、俺は中層に足を踏み入れていた。
そこで出会ったのは、オーガだった。
オークよりさらに大きい。
筋肉の塊のような腕。
岩のような肩。
赤黒い皮膚。
その威圧感は、さすがにオークとは別物だった。
「……良いな」
俺は笑っていた。
オーガが咆哮し、巨大な拳を振り下ろして来る。
床石が砕けた。
俺は既に横に跳んでいる。
速い。
自分でも驚くほど、身体が動く。
ホーンラビットの脚力が、俺の中で馴染み始めているのだ。
俺は距離を取り、魔力を練った。
「サンダージャベリン」
一発目が肩を貫く。
オーガは止まらない。
「サンダージャベリン」
二発目が腹を抉る。
まだ来る。
「サンダージャベリン」
三発目で、ようやく膝をついた。
しぶとい。
実にしぶとい。
それが嬉しい。
俺は止めの雷槍を叩き込み、オーガを沈めた。
全身に汗をかいていた。
息も上がっている。
だが、気分は悪くない。
むしろ、最高だった。
「収納」
オーガの巨体が消える。
俺はそこで、ようやく我に返った。
中層。
予定外。
さすがに、これ以上はまずい。
俺は引き返す事にした。
帰り道で遭遇した魔獣も、珍しいものだけ倒して収納した。
ギルドに戻る頃には、収納魔法の中がなかなか賑やかな事になっていた。
もちろん、全てを自分で食べる訳ではない。
というか、全てを食べるとさすがに腹がどうにかなりそうだ。
俺は余ったゴブリンや状態の悪い死骸を素材買取に出した。
「お一人で、これだけですか?」
受付嬢が目を丸くする。
「運が良かった」
「中層の魔獣も混ざっていますけど……」
「運が良かった」
俺はもう一度、同じ事を言った。
受付嬢は何か言いたそうだったが、結局、銀貨と銅貨を数えて渡してくれた。
思ったより悪くない額だった。
「なるほど」
俺は金を袋に入れながら、小さく頷いた。
「小遣い稼ぎにもなるんだな」
命を賭ける冒険者が聞けば怒りそうな感想である。
だが、実際そう思ったのだから仕方ない。
その日の夕方。
俺はいつもの森の奥にいた。
人が来ない場所。
木々が密集し、獣道すら薄い場所。
そこで俺は、収納していた魔獣の死骸を取り出した。
オーク。
ウルフ。
バット。
そして、オーガ。
並べてみると、なかなか酷い光景だった。
貴族の次男がする事ではない。
学院の優等生がする事でもない。
ましてや、婚約者のいる男がする事でもない。
だが、俺はもう我慢出来なかった。
オークの肉に歯を立てる。
血の味が広がる。
熱い。
濃い。
身体の奥が震えた。
魔力ではない。
肉体そのものが、歓喜している。
次にウルフ。
筋肉の繊維が細く、獣臭い。
だが、その臭いすら心地良い。
鼻の奥が焼けるように熱くなり、世界の匂いが増えた。
土。
木。
虫。
鳥。
遠くの小川。
そして、自分の汗。
嗅ぎ分けられる。
見えないものまで、鼻で分かる。
オーガを食べた時は、さすがに苦しかった。
肉が硬い。
血も濃い。
喉を通るたび、身体の奥から骨が軋むような感覚が走る。
「ぐっ……!」
俺は膝をついた。
腕が熱い。
胸が痛い。
背中が引き裂かれるようだ。
服の袖がきつくなる。
肩が盛り上がる。
太腿が太くなる。
指先に力が宿る。
俺は歯を食いしばりながら、その変化に耐えた。
怖い。
怖いに決まっている。
自分の身体が、自分の意思とは別に作り変わっていくのだ。
だが、それ以上に。
強くなっている。
昨日の自分より、明らかに強くなっている。
その事実が、恐ろしいほど甘かった。
「はっ……はは……」
笑いが漏れた。
乾いた笑いだった。
やがて変化が収まり、俺は立ち上がる。
身体が重い。
いや、違う。
力が詰まっている。
拳を握ると、指の関節が鳴った。
近くの細い木を軽く押す。
めきり、と音がして幹が傾いた。
「……まずいな」
俺は自分の腕を見る。
明らかに太くなっていた。
胸板も厚い。
背も、少し伸びた気がする。
今はまだ、成長期だと言い訳出来るかもしれない。
だが、このペースは駄目だ。
元の姿を保つのが、少しずつ苦しくなっている。
耳の形を意識する。
爪の長さを意識する。
脚の力を抑える。
呼吸を人間のものに戻す。
そうしなければ、何かが表に出そうになる。
「ちょっとペースを落とさないとな」
俺は、珍しく自重を決意した。
珍しく、という時点で終わっている気もする。
翌日。
学院に行くと、何人かの同級生が俺を見て首を傾げた。
「アロー、なんか鍛えたか?」
「少しな」
「肩幅、広くなってないか?」
「成長期だろう」
便利な言葉である。
成長期。
大抵の変化は、それで誤魔化せる。
ただし、限度はある。
レイシアは俺を見て、明らかに驚いていた。
「アロー様……?」
「どうした?」
「いえ、その……少し、逞しくなられましたね」
「そうか?」
「はい」
レイシアは頬を赤くした。
どうやら悪い意味ではなかったらしい。
俺は少し安心する。
だが、その安心は長く続かなかった。
「アロー君」
授業後、廊下で呼び止められた。
セリオ先生だった。
いつもの穏やかな表情。
だが、目は笑っていない。
「少し、よろしいですか?」
「はい」
断る理由はない。
いや、断りたい理由は山ほどある。
だが、ここで断れば怪しい。
俺は先生について行った。
案内されたのは、普段使われていない小さな準備室だった。
机と椅子。
棚には古い教材。
窓から入る光は弱い。
先生は扉を閉めると、俺に椅子を勧めた。
「立ったままで結構です」
「そうですか」
先生は軽く頷く。
沈黙が落ちた。
俺は、自分の心臓の音が妙に大きく聞こえた。
いや、実際には先生の心音も聞こえている。
廊下を歩く生徒の足音も。
外の木に止まった鳥の羽音も。
聞こえ過ぎる。
今は、それが邪魔だった。
「ずいぶん逞しくなりましたね」
先生が静かに言った。
「成長期ですから」
「一晩で?」
俺は言葉に詰まった。
先生の視線が、俺の腕、肩、首元へと移る。
観察されている。
魔力の流れ。
筋肉のつき方。
たぶん、もっと別の何かも。
「最近、君の魔力の質が変わっています」
「魔力の質?」
「はい。以前の君は、非常に整った魔力を持っていました。貴族らしい、訓練された魔力です。ですが今は……混ざっている」
混ざっている。
その言葉に、俺の背中が冷えた。
「何が、ですか?」
「分かりません。だから聞いています」
先生は一歩、近づいた。
若い教師。
穏やかで、真面目で、生徒思い。
だが今の先生は、まるで研究者のような目をしていた。
未知のものを見る目。
危険かどうかを見極める目。
「アロー君」
先生は俺の名を呼んだ。
その声は、静かだった。
静か過ぎて、逃げ場がなかった。
「あなたは、誰なのですか?」
俺は答えられなかった。
アロー・イーブルナイツ。
貴族の次男。
魔法学院の優等生。
レイシアの婚約者。
そう答えれば良い。
それで済むはずだった。
だが、喉が動かない。
昨日、森の奥でオーガを貪り食った俺。
ウルフの嗅覚を喜んだ俺。
ホーンラビットの脚で走る事に興奮した俺。
それらも全部、俺だ。
では、俺は本当にアローなのか。
それとも。
アローの形をした、別の何かなのか。
「……先生」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。
セリオ先生の眉が、わずかに動く。
俺は息を整えた。
人間の呼吸を思い出すように。
「その質問は、どういう意味でしょうか」
そう返すのが、精一杯だった。
先生はしばらく俺を見つめたまま、何も言わなかった。
窓の外で、鳥が一羽、飛び立つ音がした。
その羽ばたきが、やけに大きく聞こえた。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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