狩りと教師の目
ホーンラビットを食べた。
食べてしまった。
その事実を認めるまでに、しばらく時間がかかった。
森の中で、俺は膝をついたまま、小さな魔獣の死骸を見下ろしていた。
口元には血がついている。
手にも血がついている。
礼装にも少し飛んでいた。
よりによって、王家から魔剣を下賜されたその日に、俺は森の中でホーンラビットの腹に齧りついたのだ。
貴族の次期当主としても、人間としても、かなり危ない。
いや、危ないという言葉で済ませてよいのか。
「……水」
俺は震える声で水魔法を発動させた。
手と顔を洗う。
礼装についた血も洗い落とす。
口の中も何度もすすいだ。
だが、消えない。
血の味が。
肉の味が。
そして、あの瞬間に腹の底から広がった満足感が。
「違う。違うだろ。これは……何かの発作だ」
そう言い聞かせる。
極度の空腹。
魔獣討伐後の疲労。
王との拝謁による緊張。
それらが重なって、判断がおかしくなった。
そういう事にしたい。
したかった。
だが、その時だった。
「……っ!」
耳の奥が、熱くなった。
痛みではない。
かゆみに近い。
だが、皮膚の表面ではなく、もっと内側。
頭蓋の奥で、何かが組み替えられていくような感覚。
続いて、両足にも同じような違和感が走る。
ふくらはぎ。
太もも。
足首。
筋肉が細かく震え、骨の位置がわずかに変わるような、ぞっとする感覚。
「何だ……?」
俺は立ち上がろうとして、よろめいた。
足に力が入りすぎる。
地面を少し蹴っただけで、身体がふわりと浮きかけた。
「おい、待て」
誰に言っているのか分からない。
自分の身体に言っていた。
勝手に変わるな。
勝手に動くな。
せめて、持ち主に一言断ってくれ。
しかし身体は、当然そんな願いを聞いてくれない。
耳の奥で、小さな音が増え始めた。
風が木の葉を揺らす音。
草むらの下で虫が這う音。
遠くの枝から露が落ちる音。
土の中を小さな生き物が掘り進む音。
今まで聞こえなかったものが、次々と耳に流れ込んでくる。
うるさい。
いや、うるさいのに、分かる。
音の距離が分かる。
方向が分かる。
大きさが分かる。
近くの茂みの奥に、野鼠が一匹いる。
木の上には鳥が二羽。
少し離れた場所で、別のホーンラビットが草を食んでいる。
見えていないのに、分かる。
「……嘘だろ」
俺は自分の耳に手を当てた。
形は変わっていない。
少なくとも、長い兎耳が生えているわけではない。
そこは少し安心した。
王家の魔剣を賜った日に兎耳まで生えたら、俺は本気で泣いていた。
だが、能力は明らかに変わっている。
ホーンラビットを食べた。
その結果、俺の身体に、ホーンラビットの特徴が現れた。
耳。
足。
跳躍力。
気配を察する力。
そんな馬鹿な。
あり得ない。
だが、首を食い破られて生きている時点で、あり得ないという言葉はあまり役に立たない。
「俺は……魔獣を食べて、取り込んだのか?」
口に出した瞬間、寒気がした。
同時に、胸の奥で何かが震えた。
恐怖。
嫌悪。
そして。
興奮。
認めたくなかった。
だが、確かにあった。
自分の能力が拡大していく感覚。
これまで出来なかった事が出来るようになる快感。
身体の奥から、知らない力が湧いてくる高揚。
それは、魔法の新しい術式を成功させた時の喜びに似ていた。
いや、それよりももっと生々しい。
もっと危ない。
もっと甘い。
「……だめだ。これは、だめだ」
俺は首を振った。
危険だ。
こんな力に溺れてはいけない。
何より、レイシアに顔向け出来ない。
彼女は俺の傷が消えるのを見て、不安そうな顔をしていた。
その俺が、今度は魔獣を生で食べて能力を取り込んでいる。
知られたら、どう思うだろう。
怖がるか。
泣くか。
それとも、俺から離れてしまうか。
その想像が、一番怖かった。
「帰ろう」
俺はそう決めた。
もう日も傾いている。
屋敷では父上たちが俺を探しているかもしれない。
俺は王都へ向かって歩き出した。
そのつもりだった。
だが、少し足に力を入れた瞬間、身体が前へ飛んだ。
「うおっ!?」
危うく木に激突しそうになり、慌てて体勢を立て直す。
一歩が速い。
いや、速すぎる。
足が地面を掴み、次の瞬間には身体が数歩分進んでいる。
まるで自分の身体ではない。
しかし、扱えないわけではなかった。
数回試すと、すぐに感覚が掴めた。
地面を蹴る角度。
膝の使い方。
重心の移動。
全部、身体が知っている。
ホーンラビットの身体が知っていた動きが、俺の中に流れ込んでいる。
そう考えると、背筋がぞくりとした。
俺は森を駆けた。
速い。
風が顔を打つ。
木々の間を抜ける。
枝を避け、石を飛び越え、獣道を一息で走り抜ける。
途中で、どうしても四つん這いになりたくなった。
両手を地面につき、後ろ足で跳ねるように走れば、もっと速い。
そんな確信があった。
もちろん、しなかった。
さすがにそれは駄目だ。
人としての境界線がかなり後退している気はするが、まだ完全に越えたくはない。
俺は二本足で王都へ戻った。
屋敷に戻る頃には、何とか息も整っていた。
使用人に怪しまれないよう、街を少し散歩してきたと告げる。
父上は祝宴で機嫌が良く、細かく追及してこなかった。
その夜、俺は寝台の上で眠れなかった。
耳が良すぎるのだ。
廊下を歩く使用人の足音。
厨房で皿を片付ける音。
庭の木に止まった鳥の羽ばたき。
隣室で誰かが寝返りを打つ音。
全部、聞こえる。
聞こえてしまう。
そして、その一つ一つが、狩りの情報に思えた。
翌日。
俺は普段通りに学院へ向かった。
授業を受ける。
教師の話を聞く。
ノートを取る。
レイシアに会えば、笑顔で挨拶する。
いつも通りのアロー・イーブルナイツ。
魔法学院の優等生。
イーブルナイツ伯爵家の次期当主。
王から魔剣を賜った若き功臣。
そう見えていたはずだ。
だが、俺の意識は授業に向いていなかった。
窓の外。
王都の外にある森。
あそこに、まだ魔獣がいる。
ホーンラビット以外にも。
もし他の魔獣を食べたら、どうなる。
毒を持つもの。
硬い甲殻を持つもの。
空を飛ぶもの。
姿を消すもの。
炎を吐くもの。
それらを取り込めるとしたら。
俺は、どこまで強くなれる。
「……っ」
自分の考えに、ぞっとした。
同時に、胸が高鳴った。
授業が終わるより早く、俺は席を立っていた。
「アロー様?」
同じ授業を受けていたレイシアが、不思議そうに声をかけてきた。
「すまない。少し、屋敷の用事を思い出した」
嘘だった。
綺麗な嘘ではない。
彼女の目を見て言うには、あまりにも汚い嘘だった。
だが、俺はそのまま学院を出た。
街を抜け、森へ向かう。
腹が減っていた。
それも理由だった。
だが、それだけではない。
試したかった。
自分の身体が、どこまで変わるのか。
自分が、どこまで行けるのか。
最初に見つけたのは、ポイズンシュートスネークだった。
黒緑色の鱗を持つ蛇型のモンスター。
口から毒液を五メートルほど飛ばす厄介な相手だ。
低級とはいえ、油断すれば目を潰される。
しかし、今の俺には、その気配がはっきり分かった。
草むらの中を滑る音。
鱗が葉を擦る音。
体温のようなものまで、耳と肌で捉えられる気がする。
「ライトニング」
初級雷魔法を放つ。
細い雷が草むらを貫き、蛇の身体が跳ねた。
倒れた。
俺はしばらく周囲を確認した。
耳を澄ませる。
人の足音はない。
冒険者の声もない。
馬車の音もない。
鳥。
虫。
風。
小動物。
それだけ。
「……誰もいない」
そう呟いた自分の声が、嫌に低く聞こえた。
俺はポイズンシュートスネークの死骸を掴んだ。
ぬめった鱗。
細長い身体。
普通なら食べるにしても、皮を剥ぎ、内臓を抜き、火を通す。
だが俺は、首元の肉に歯を立てた。
生温かい血が口に広がる。
鱗の下の肉は、思ったより弾力があった。
美味い。
そう感じてしまった。
最悪だった。
飲み込んだ瞬間、喉の奥に違和感が走った。
「ぐ……っ」
俺は首を押さえた。
何かが出来ていく。
喉の奥。
舌の根元。
唾液腺の奥。
そこに、今までなかった器官が生まれていく。
熱く、ぬるりとした感覚。
吐き気にも似た変化。
だが、苦しくはない。
むしろ、身体はそれを当然のように受け入れている。
俺は立ち上がった。
口の中に、何かが溜まっている。
唾ではない。
魔力でもない。
もっと危険な液体。
俺は反射的に横を向いた。
枝に、小さなフクロウ型のモンスターが止まっていた。
こちらを見ている。
その丸い目と目が合った瞬間、俺の口が勝手に動いた。
毒液が飛んだ。
細い線になって、五メートルどころではない距離を走る。
それはフクロウモンスターの胸を貫いた。
鳥は声もなく枝から落ちる。
地面に落ちた時には、身体が毒に冒され、痙攣していた。
俺は自分の口元を押さえた。
「はは……」
笑いが漏れた。
乾いた笑いだった。
「これは、完全に人間を辞めてるな」
言葉にすると、胸が痛んだ。
だが、その痛みの奥で、別の感情が膨らんでいた。
「でも……凄すぎる」
俺はフクロウモンスターに近づいた。
空を飛ぶ能力。
夜目。
首の柔軟さ。
音もなく羽ばたく力。
もし、それを取り込めたら。
そう考えた瞬間、もう止まらなかった。
俺は狩った。
ホーンラビット。
ポイズンシュートスネーク。
フクロウモンスター。
小さな甲虫型の魔獣。
木の幹に擬態するトカゲ。
どれも低級の魔獣だ。
だが、俺にとっては宝の山だった。
倒し、周囲を確認し、喰らう。
そのたび、身体のどこかが少しずつ変わっていく。
耳が研ぎ澄まされる。
足が軽くなる。
喉に毒液を溜める器官が馴染む。
目が暗がりに慣れる。
皮膚がわずかに硬くなる。
気配を消す感覚が身につく。
怖い。
怖いのに、やめられない。
これ以上は駄目だと、何度も思った。
だが、腹が減る。
そして、力が欲しくなる。
その二つは、今の俺にとってほとんど同じ意味だった。
夕方、ようやく俺は森を出た。
不思議な事に、腹の奥の飢えは落ち着いていた。
身体も軽い。
むしろ、満ちている。
人としては完全に間違っている満足感を抱えたまま、俺は王都へ戻った。
それから数日は、平穏だった。
表面上は。
学院に通い、授業を受け、レイシアと話し、父上に王城での礼を褒められ、使用人たちに次期当主として扱われる。
俺は完璧に振る舞った。
たぶん、完璧だった。
少なくとも、誰も俺が森で魔獣を喰らっているとは思わなかったはずだ。
ただ、レイシアだけは時々、俺をじっと見た。
「アロー様、最近……」
「最近?」
「いえ。何でもありません」
そう言って、彼女は微笑む。
だが、その瞳には小さな不安が残っていた。
俺はそれに気づかないふりをした。
気づいてしまえば、きっと耐えられなかったからだ。
そんなある日、学院の休憩時間に、同級生たちが楽しげに話しているのが聞こえた。
以前なら聞き流していた距離の会話だ。
だが、今の俺の耳には、はっきり届く。
「昨日、ダンジョンに入ってきたんだよ」
「本当か?」
「ああ。下層じゃないぞ。もちろん浅い階層だ。オークを二体狩った」
「オークか。よくやったな」
俺は手元の本から顔を上げた。
同級生の一人が、俺の視線に気づいて慌てた。
「あ、アロー様に聞かせるような話ではありませんが……」
「いや、構わない。続けてくれ」
「は、はい。王都近くの公認ダンジョンです。冒険者の護衛つきで、実戦訓練を兼ねて入りまして。オークは臭くて、力が強くて、なかなか大変でした」
「オーク……」
俺はその言葉を繰り返した。
力が強い。
頑丈。
嗅覚も鋭い。
魔獣ではなく亜人型のモンスター。
もし、食べたら。
俺の中で、また飢えが目を覚ました。
腹が減ったわけではない。
少なくとも、食事は足りている。
だが、違う飢えだった。
狩りたい。
取り込みたい。
強くなりたい。
「ダンジョンか……」
俺は小さく呟いた。
その声に、自分でもぞっとした。
まるで、獲物の匂いを嗅ぎつけた獣のようだったからだ。
気づいてはいけないものに気づきかけた時、廊下の向こうから一人の教師がこちらを見ていた。
若い教師だった。
名は、セリオ・ラングフォード。
魔法理論を担当する教師で、まだ二十代半ば。
穏やかな顔立ちで、学生たちからの評判も悪くない。
俺も何度か授業で質問をした事がある。
そのセリオ教師が、じっと俺を見ていた。
ただの偶然ではない。
そう思った。
なぜなら、彼の目には明らかな疑念があったからだ。
警戒。
観察。
そして、何かを確かめようとする光。
俺は微笑んで会釈した。
優等生らしく。
次期当主らしく。
何もおかしいところなどないように。
セリオ教師も、静かに会釈を返した。
だが、その視線はすぐには外れなかった。
俺は本に目を戻す。
文字は、まったく頭に入らなかった。
ダンジョン。
オーク。
教師の視線。
レイシアの不安。
そして、俺の腹の奥で静かに蠢く飢え。
平穏な学院の昼下がり。
その中で、俺だけが、自分が少しずつ人の場所からずれていく音を聞いていた。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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