謁見とホーンラビット
王と拝謁する日がやって来た。
朝から、屋敷の空気が違っていた。
使用人たちはいつも以上に慌ただしく動き、廊下には磨き上げられた銀器の輝きが並び、父上の声もいつもより三割ほど大きかった。
イーブルナイツ伯爵家にとって、今日は特別な日だった。
グランベルク討伐の報告。
巨大な魔石の献上。
そして、おそらくは俺の今後を左右する日。
その中心にいるはずの俺は、鏡の前で正装を整えながら、何とも言えない顔をしていた。
「……腹が減った」
小さく呟く。
朝食は食べた。
かなり食べた。
厨房長が心配そうな顔をするぐらい食べた。
それなのに、もう腹が減っている。
俺の身体は、どこかに穴でも空いているのではないだろうか。
胃袋の底が抜けているのではないだろうか。
そう思いたくなるほどだった。
ただ、体調はすこぶる良い。
頭は冴え、身体は軽く、魔力の流れも滑らかだった。
寝起きの重さなど欠片もない。
むしろ、今なら王城の外壁を走って登れそうな気すらする。
もちろん、やらない。
そんな事をしたら、王家への忠誠以前に正気を疑われる。
「アロー様、本当にお似合いでございます」
侍女の一人が、感嘆したように言った。
俺は鏡の中の自分を見る。
黒を基調とした礼装。
銀糸で縫い込まれたイーブルナイツ家の紋章。
肩には控えめな装飾。
腰には儀礼用の剣。
確かに、悪くない。
魔法学院の優等生としての端正さは残っている。
だが、それだけではなかった。
自分で言うのも妙だが、顔つきが少し変わっている。
目が鋭くなった。
背筋が自然と伸びる。
立っているだけで、身体の内側に何か強いものが詰まっているように感じる。
以前の俺は、良くも悪くも優等生だった。
礼儀正しく、成績が良く、やや真面目すぎる貴族の子弟。
だが今の鏡の中の俺には、そこに一種の凄味が混ざっていた。
自分で見ても、少し怖い。
いや、かなり怖い。
「……寝不足かな」
「昨夜は早めにお休みになられましたが」
「では、気のせいだ」
俺は強引に結論づけた。
最近の俺は、何でも気のせいにする技術が上がっている。
首を食い破られても気のせい。
傷が一瞬で治っても気のせい。
異様に腹が減っても気のせい。
便利な言葉である。
そのうち、世界が滅んでも気のせいで済ませるかもしれない。
さすがに無理か。
玄関広間に向かうと、父上が待っていた。
イーブルナイツ伯爵、ガルディオ・イーブルナイツ。
今日の父上は、見事な礼装に身を包み、普段以上に威厳があった。
そして、普段より明らかに機嫌が良い。
「来たか、アロー」
「お待たせしました、父上」
俺が頭を下げると、父上は満足そうに頷いた。
「よく似合っている。今日の主役に相応しい」
「主役は父上とイーブルナイツ家です」
「ふん。言うようになったな」
父上はそう言って、わずかに笑った。
その顔を見ると、胸が熱くなる。
幼い頃から厳しい人だった。
兄上が病に倒れてからも、父上は決して俺を甘やかさなかった。
だからこそ、今こうして認められている事が、どうしようもなく嬉しい。
馬車に乗り、王城へ向かう。
窓の外では、王都の人々がこちらに視線を向けていた。
すでに噂は広まっているのだろう。
イーブルナイツ家の馬車。
グランベルクを討伐した若君。
王家へ巨大な魔石を献上する日。
それらが、街の空気を少し浮き立たせている。
俺もまた、浮き立っていた。
腹は減っていたが。
王城は、いつ見ても巨大だった。
白い城壁。
高くそびえる塔。
陽光を受けて輝く王家の紋章。
馬車が城門を抜けると、甲冑姿の近衛兵たちが整然と並んでいた。
その視線が、ちらりと俺に向けられる。
好奇心。
評価。
警戒。
いろいろなものが混ざっていた。
以前なら、その視線だけで緊張していたかもしれない。
だが今日は、不思議と平気だった。
俺は背筋を伸ばし、父上の後ろを歩いた。
大理石の廊下を進み、控えの間へ通される。
そこでしばらく待つ事になった。
しばらく。
それが問題だった。
王城の控えの間は豪華である。
壁には古い戦勝画。
天井には精緻な彫刻。
窓辺には高価そうな花瓶。
椅子も、座るのが申し訳なくなるほど立派だ。
だが、食べ物がない。
当然である。
謁見前の控えの間で肉を焼かれても困る。
分かっている。
分かっているのだが、腹は減る。
ぐう。
腹が鳴りかけた。
俺は腹に力を入れて止めた。
人生で、魔獣と戦うより難しい瞬間だった。
「どうした、アロー」
「いえ。少し緊張しているだけです」
「当然だ。だが、堂々としていろ。今日のお前は、それだけの事をした」
「はい」
父上の言葉に、俺は頷いた。
緊張。
そういう事にした。
空腹ではない。
緊張で腹が鳴る貴族も、きっといるだろう。
たぶん。
やがて、扉が開いた。
「イーブルナイツ伯爵ガルディオ様、ならびにアロー・イーブルナイツ様。陛下がお呼びでございます」
俺と父上は立ち上がった。
謁見の間へ進む。
高い天井。
赤い絨毯。
左右に並ぶ重臣たち。
その奥、玉座に座る王。
アルヴァン王国国王、レオグラン陛下。
年齢は五十前後。
白髪混じりの金髪に、鋭い眼光。
戦場に立った経験を持つ王だと聞いている。
その視線が俺に向いた瞬間、背筋に力が入った。
これは、ギルベルトの視線とは違う。
教師の視線とも違う。
人の上に立つ者の目。
見定める目。
俺は父上と共に進み、定められた位置で膝をついた。
「面を上げよ」
王の声が響く。
低く、よく通る声だった。
俺たちは顔を上げる。
「ガルディオ。よく来た」
「はっ。拝謁の栄誉、恐悦至極に存じます」
「堅いな。まあ、今日は堅くなるだけの場ではあるか」
王は小さく笑い、俺に視線を移した。
「そなたがアロー・イーブルナイツか」
「はっ」
「若いな」
「未熟者にございます」
「未熟者がグランベルクを討つか。ならば我が国の老練な騎士たちは立つ瀬がないな」
謁見の間に、わずかな笑いが起きた。
俺はどう反応すべきか迷った。
王の冗談に笑ってよいのか、畏まるべきなのか。
こういう実戦的な礼法は、学院でもう少し教えてほしい。
とりあえず、俺は頭を下げた。
「身に余るお言葉でございます」
「うむ」
王は満足したように頷いた。
「では、件の魔石を見せよ」
父上が目で合図する。
俺は収納魔法を開き、巨大な魔石を取り出した。
謁見の間に、鈍い紫の輝きが広がる。
魔石は床に置かれた瞬間、その大きさと存在感で周囲の空気を変えた。
重臣たちがどよめく。
近衛兵たちまで、わずかに目を見開いた。
王もまた、玉座の上で身を乗り出した。
「……これは」
その声には、はっきりとした驚きがあった。
「報告は受けていたが、実物は想像以上だな」
「グランベルクの胸部より摘出いたしました」
俺が答えると、王はしばらく魔石を見つめた。
「見事だ。これほどの魔石なら、王国の魔導研究にも大きく役立つだろう。ガルディオ、よくぞ献上を決断した」
「すべては王国のために」
「そして、アロー。よくぞ討った」
「ありがたきお言葉にございます」
胸が震えた。
王に直接褒められる。
貴族に生まれた者にとって、これほどの栄誉はそう多くない。
父上の横顔を見ると、彼もまた誇らしげだった。
その顔を見て、俺は思った。
ああ、報われたのだ、と。
これまでの努力も。
魔法学院で積み上げた成績も。
危険を承知でグランベルクへ挑んだ事も。
すべてが、この瞬間につながっている。
王は重臣たちを見回し、そして告げた。
「この武勲により、アロー・イーブルナイツをイーブルナイツ伯爵家の次期当主として認める。異論のある者はいるか」
誰も声を上げなかった。
当然ではない。
王の前で異論を唱えるには、相応の覚悟がいる。
だが、その沈黙は俺にとって、何より重かった。
次期当主。
正式に。
王の言葉によって。
心臓が大きく脈打つ。
「また、ミスルランド公爵家令嬢レイシアとの婚約についても、王家としてこれを祝福する。両家は速やかに婚儀の準備を進めるがよい」
息が止まりそうになった。
レイシア。
彼女との婚儀。
ついに、それが公式に進む。
周囲にどれほど反対があろうと、王家が祝福した以上、容易には覆せない。
俺は頭を下げた。
「身に余る光栄にございます」
声が少し震えていたかもしれない。
だが、それは許してほしい。
人間、人生の絶頂で完全に平静ではいられない。
少なくとも、俺には無理だった。
さらに王は、近侍に合図をした。
長い箱が運ばれてくる。
黒檀の箱。
銀の装飾。
蓋が開かれると、中には一振りの剣が納められていた。
細身の片手剣。
鞘は深い青。
柄には王家の紋章と、古い魔法文字が刻まれている。
「王家に伝わる魔剣の一振り、蒼雷剣アルゼインだ」
謁見の間がざわついた。
王家の魔剣。
それは、簡単に下賜されるような物ではない。
「雷の魔法に長けるそなたには相応しかろう。これを持ち、今後も王国のために尽くせ」
近侍が剣を差し出す。
俺は両手で受け取った。
重い。
いや、剣そのものは軽い。
だが、そこに込められた意味が重かった。
「謹んで拝受いたします」
俺は深く頭を下げた。
この瞬間、俺は確かに頂点にいた。
王に認められた。
父に認められた。
次期当主となった。
レイシアとの婚儀も進む。
王家の魔剣まで賜った。
これ以上の栄誉など、そう簡単には思いつかない。
だが。
腹が減った。
最悪だった。
この人生最高の瞬間に、俺の腹は空腹を訴えていた。
しかも、普通の空腹ではない。
胸の奥から、腹の底から、身体全体が何かを欲している。
食べ物。
肉。
魔力。
命。
そんな言葉が、頭の奥に浮かびそうになって、俺は慌てて押し込めた。
違う。
ただ腹が減っているだけだ。
朝から緊張していたからだ。
王城の空気に当てられたのだ。
そう思おうとする。
だが、手の中の蒼雷剣が妙に温かく感じられた。
まるで、俺の中の何かに反応しているように。
謁見は無事に終わった。
父上は上機嫌だった。
王城を出るまで、何度も俺の肩を叩いた。
「よくやった、アロー。本当によくやった」
「ありがとうございます、父上」
「これで我が家も安泰だ。レイシア嬢との婚儀も進む。お前はイーブルナイツ家の柱となるのだ」
「はい」
俺は頷いた。
嬉しい。
嬉しいはずだった。
いや、実際に嬉しかった。
それなのに、腹の奥の飢えが、その喜びの底を削っていく。
屋敷に戻ると、また大騒ぎだった。
王家から魔剣を賜ったと聞き、使用人たちは歓声を上げた。
父上は酒を開けるよう命じた。
厨房では祝宴の準備が始まる。
すべてが華やかだった。
すべてが祝福に満ちていた。
だが、俺は耐えられなかった。
「少し、外の空気を吸ってきます」
そう言って、俺は屋敷を出た。
本当は、街で何か買い食いをするつもりだった。
屋台の串焼きでもいい。
肉まんでもいい。
焼き菓子でもいい。
とにかく、腹に何か入れたかった。
貴族の次期当主が正装のまま買い食いというのはどうかと思うが、今さらだった。
だが、気づけば俺は王都の門を出ていた。
「……あれ?」
自分でも驚いた。
街の屋台へ向かったはずだった。
それなのに、足は自然と外へ向かっていた。
人混みを避け、匂いを避け、声を避けるように。
そして、王都近郊の森へ。
冒険者たちが小物の魔獣を狩る場所。
安全とまでは言えないが、学院の低学年でも実習で訪れる程度の森だ。
夕暮れの光が、木々の間に差し込んでいる。
俺はそこでようやく立ち止まった。
礼装のままだった。
腰には、王家から賜ったばかりの蒼雷剣。
どう見ても、森を歩く格好ではない。
「何をしているんだ、俺は……」
そう呟いた時、草むらが揺れた。
白い影が飛び出す。
ホーンラビット。
額に小さな角を持つ兎型の魔獣。
下級冒険者が最初に狩るような相手だ。
普通なら、俺が構えるまでもない。
そのはずだった。
だが、その瞬間。
俺の腹の奥が、ぎゅっと縮んだ。
視界が、ホーンラビットに吸い寄せられる。
柔らかそうな腹。
細く脈打つ首。
小さな魔力の流れ。
美味そうだ。
そう思った。
俺は初級雷魔法を放っていた。
「ライトニング」
細い雷が走り、ホーンラビットを撃ち抜く。
魔獣は短く跳ね、地面に倒れた。
焦げた匂い。
毛皮の焼ける匂い。
血の匂い。
俺は動けなかった。
いや、動けなかったのではない。
動きたくて仕方なかった。
近づきたい。
掴みたい。
食べたい。
頭のどこかで、貴族としての俺が叫んでいた。
やめろ。
そんな事をするな。
これは調理して食べるものだ。
血抜きをして、皮を剥ぎ、肉を焼くものだ。
生のまま齧りつくものではない。
だが、次の瞬間には、俺は膝をついていた。
倒れたホーンラビットを両手で掴んでいた。
温かい。
まだ温かい。
その柔らかな腹に、俺は顔を近づけた。
「……だめだ」
呟く。
だめだ。
だめだ。
だめだ。
俺は人間だ。
イーブルナイツ伯爵家の次期当主だ。
王に認められたばかりの男だ。
レイシアの婚約者だ。
魔剣を下賜された、王国の若き功臣だ。
なのに。
歯が、肉に沈んだ。
血の味が口の中に広がる。
熱い。
生臭い。
普通なら吐き気を覚えるはずの味。
だが、身体はそれを待っていたかのように受け入れた。
腹の底の飢えが、わずかに満たされる。
それが、何より恐ろしかった。
俺はホーンラビットの腹に齧りついたまま、動けなかった。
夕暮れの森は静かだった。
王城の歓声も、父上の笑顔も、王の言葉も、レイシアとの婚儀も、すべて遠い夢のようだった。
俺の手の中には、小さな魔獣の死骸がある。
口元には、血がついている。
腹は、少しだけ満たされている。
「……何をしているんだ、俺は」
今度の声は、ほとんど泣き声だった。
人生の絶頂から、ほんの数時間。
王家の魔剣を賜った男は、森の中で魔獣の腹に齧りついていた。
その事実だけが、あまりにもはっきりと、俺に告げていた。
俺の身体は、もう普通ではない。
そしてたぶん。
普通ではないのは、身体だけではなかった。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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