ギルベルトとの決闘
決闘の時間は、あっという間にやって来た。
正直に言えば、来なくても良かった。
いや、来ないでほしかった。
朝の時点では、放課後など随分と先の話に思えた。授業を受け、昼食を取り、何人かに声をかけられ、そのたびに曖昧に笑っているうちに、時間は無情にも過ぎていく。
そして気づけば、俺は学院の訓練場に立っていた。
「……多いな」
思わず呟く。
訓練場の周囲には、学院生がびっしりと集まっていた。
上級生、下級生、魔法科、剣術科、貴族の子弟に平民出身の特待生。
さらに教師たちまでいる。
いや、それだけならまだ分かる。
学院内での模擬戦なのだから、教師が立ち会うのは当然だ。
問題は、その後ろに学院関係者とは思えない者たちが混ざっている事だった。
王都の兵士らしき男。
どこかの貴族家の文官風の者。
明らかに野次馬の顔をした若い騎士。
なぜいる。
お前たちはどこから湧いた。
俺とギルベルトの模擬戦は、いつの間に王都の公開行事になったのだ。
「アロー様……」
隣で、レイシアが不安そうに俺を見上げた。
その表情を見ただけで、逃げ出したい気持ちは少しだけ引っ込んだ。
「大丈夫だ」
俺は笑ってみせた。
強がりである。
ものすごく強がりである。
内心では、まったく大丈夫ではない。
剣だけでギルベルトと戦えば、俺が不利。
そんな事は分かりきっている。
だが、ここまで来てしまった以上、無様な姿は見せられない。
勝てないまでも、簡単には負けない。
せめて、最後まで婚約者の前に立つ男でいなければならない。
そう思った。
口の中が乾く。
指先が少し冷える。
腹は、なぜか減っている。
この状況で空腹を主張してくる俺の身体は、少し空気を読んでほしい。
「アロー様、どうかご無理だけは……」
「心配してくれてありがとう。だが、大丈夫だ」
もう一度そう言うと、レイシアは小さく頷いた。
その瞳には、祈るような光があった。
俺は訓練場の中央へ歩き出す。
そこには、すでにギルベルトが待っていた。
訓練用の軽鎧を身につけ、片手に模擬剣を持っている。
相変わらず、自信に満ちた顔だった。
「逃げなかった事だけは褒めてやろう、イーブルナイツ」
「それはどうも」
「安心しろ。命までは取らん。少し恥をかくだけだ」
「学院の模擬戦で命を取られたら、こちらが困る」
俺がそう返すと、周囲から小さな笑いが起きた。
ギルベルトの眉がぴくりと動く。
しまった。
軽口を叩くつもりはなかったのだが、緊張しすぎて逆に口が動いた。
人間、追い詰められると妙な行動をするものである。
審判役の教師から模擬剣を渡された。
俺はそれを握る。
木製ではあるが、芯に弾力のある魔樹材を使った本格的な訓練剣だ。まともに当たれば骨ぐらいは折れる。
刃はない。
だが、痛いものは痛い。
俺は剣を構えた。
剣術の授業で教わった、基本の構え。
何度も繰り返した型だ。
だが、ギルベルトを前にすると、妙に頼りなく感じる。
向こうの構えは自然だった。
剣を持つために生まれてきたような姿勢。
悔しいが、美しい。
「双方、準備はよいか」
教師が声を張る。
「はい」
「いつでも」
ギルベルトは笑って答えた。
俺は小さく息を吸う。
レイシアの姿が、視界の端に映る。
大丈夫だ。
無様にはならない。
たぶん。
「始め!」
教師の声が響いた。
次の瞬間、ギルベルトが踏み込んできた。
速い。
いや、速いはずだった。
学院で何度も見た、ギルベルトの踏み込み。
相手が反応する前に距離を詰め、頭上から叩き潰すように剣を振り下ろす。
単純だが、強い。
それが彼の得意技だった。
俺は身構えた。
だが。
見えた。
あまりにも、はっきり見えた。
踏み込む足。
肩の動き。
肘の角度。
頭上から一直線に落ちてくる模擬剣。
それらが、まるでゆっくり流れる水のように見えた。
「え?」
思うより先に、身体が動いた。
俺は横から剣を振った。
ただ、迫ってくるギルベルトの剣を弾くつもりだった。
軽く、軌道を逸らすだけ。
そのはずだった。
甲高い音が鳴った。
次の瞬間、ギルベルトの模擬剣が彼の手からすっぽ抜けた。
剣はくるくると回転しながら空へ飛び、訓練場の端に転がった。
からん。
妙に乾いた音がした。
「は!?」
俺が言ったのか。
ギルベルトが言ったのか。
観衆が言ったのか。
たぶん、全員だった。
訓練場が、一瞬で静まり返る。
ギルベルトは、剣を失った自分の手を見つめていた。
俺も、自分の剣を見つめていた。
何だ、今のは。
俺は普通に弾いただけだ。
それなのに、なぜ剣が飛んだ。
「ち、違う!」
しばらくして、ギルベルトが叫んだ。
「今のは、少し手が滑っただけだ!」
その言葉に、周囲の何人かがざわついた。
手が滑った。
なるほど。
そういう事もある。
模擬剣だから、実剣とは重心が違う。
緊張で握りが甘くなる事もある。
……いや、ギルベルトが?
俺はギルベルトを見た。
彼の顔は赤くなっている。
怒りと羞恥で、耳まで赤い。
たぶん、このまま終わらせれば、彼は一生認めない。
そして俺自身も、今の感覚を確かめたいと思っていた。
俺の身体に、何が起きているのか。
「構わない」
俺は言った。
「剣を拾え」
ギルベルトが目を見開く。
「何だと?」
「仕切り直しだ。今のは偶然という事でいい」
審判の教師が少し困った顔をした。
だが、ギルベルトがすぐに剣を拾いに走ったので、止める間もなかった。
彼は剣を拾うと、乱暴に構え直した。
もう余裕の笑みは消えていた。
「後悔するなよ、イーブルナイツ!」
「出来れば、後悔はしたくないな」
「始め!」
再び教師の声が響く。
今度のギルベルトは、最初から激しかった。
頭に血がのぼっている。
剣を振るたび、訓練場の空気を裂く音がした。
斬り下ろし。
横薙ぎ。
突き。
返しの一撃。
速い。
鋭い。
普通なら、俺は二撃目か三撃目で崩されていたはずだ。
だが、見える。
見えてしまう。
ギルベルトの剣筋が、はっきりと分かる。
どこに来るのか。
どの程度の重さなのか。
次にどう動くのか。
それが、まるで答えの書かれた問題集を見ているように理解出来た。
俺は半歩下がる。
剣が鼻先を通過する。
軽く身体をひねる。
横薙ぎが胸元をかすめもせずに抜ける。
足を引く。
突きが空を切る。
おかしい。
明らかにおかしい。
俺はこんな動きが出来る人間ではなかった。
剣術の授業で、ギルベルトに勝った事など一度もない。
教師に褒められるのは、姿勢が崩れないとか、基礎が丁寧だとか、そういう地味な部分ばかりだった。
なのに今は、ギルベルトの剣が遅い。
いや、彼が遅いのではない。
俺が、おかしい。
背筋に冷たいものが走った。
勝てる。
そう思った瞬間よりも先に、怖いと思った。
「くそっ! ちょこまかと!」
ギルベルトが吠える。
彼はさらに踏み込んできた。
大きく振りかぶった剣が、俺の肩口を狙って落ちてくる。
俺はそれを避けるのではなく、前に出た。
一歩。
ただの一歩だった。
だが、その一歩でギルベルトの懐に入れた。
俺は模擬剣の先を、彼の喉元で止めた。
ぴたり。
ほんの指一本分の距離。
ギルベルトの動きが止まる。
「……勝負あった、か?」
俺が尋ねると、周囲が息を呑んだ。
だが、ギルベルトは震える唇を噛んだ。
「まだだ!」
彼は後ろに跳び、再び剣を構える。
教師が止めようとしたが、ギルベルトは聞いていない。
「まだ終わっていない!」
正直、終わっていた。
誰が見ても終わっていた。
だが、彼は認めない。
認められないのだろう。
俺は小さく息を吐いた。
「分かった」
再び、ギルベルトが攻めてくる。
俺はかわす。
かわす。
かわす。
そして、また喉元で剣を止める。
「勝負は?」
「まだだ!」
また攻めてくる。
またかわす。
また止める。
「勝負は?」
「まだだ!」
三度目あたりで、周囲の空気が変わってきた。
最初は驚き。
次は興奮。
そして今は、少しばかりギルベルトへの同情が混ざっている。
それでも彼は止まらない。
プライドが、止まる事を許さないのだろう。
俺はその姿を見ながら、どこか冷静だった。
自分の身体が、怖いほど思い通りに動く。
足が軽い。
腕がぶれない。
呼吸が乱れない。
視界が広い。
ギルベルトの汗が飛ぶのまで見える。
観衆のざわめきも聞こえる。
レイシアが両手を胸の前で握りしめているのも分かる。
世界そのものが、急に鮮明になったようだった。
そして、それは決して普通の感覚ではなかった。
俺は人間なのか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
「うおおおおっ!」
ギルベルトが叫び、全力で斬り込んできた。
もう技ではない。
怒り任せの一撃だ。
俺は決闘を終わらせる事にした。
これ以上続けても、誰のためにもならない。
ギルベルトの模擬剣が横から迫る。
俺はそれに合わせて、自分の剣を振った。
狙うのは、剣の横っ腹。
刃ではなく、面。
そこに鋭く、一撃を入れる。
乾いた破裂音が響いた。
ギルベルトの模擬剣が、粉々に砕けた。
木片が弾け、光を受けて散る。
その破片のいくつかが、俺の頬や手の甲をかすめた。
ちくりと痛みが走る。
ギルベルトの顔にも、細かな傷がいくつか出来ていた。
彼は、半分だけ残った剣の柄を握ったまま、呆然としている。
俺は一歩踏み込み、もう一度、彼の喉元に剣を突きつけた。
「勝負あったな?」
今度の声は、自分でも驚くほど静かだった。
ギルベルトの喉が、ごくりと動く。
彼の顔から血の気が引いていた。
怒りも、屈辱も、何もかも押し流されている。
そこにあるのは、恐怖だった。
俺に対する恐怖。
それを見た瞬間、胸の奥が嫌な形に沈んだ。
ギルベルトは、がくがくと頷いた。
「しょ、勝負……あり……」
審判の教師が慌てて手を上げる。
「勝者、アロー・イーブルナイツ!」
一拍の静寂。
次の瞬間、訓練場が爆発したような歓声に包まれた。
「すげえ!」
「何だ今の!」
「ギルベルトを圧倒したぞ!」
「魔獣討伐は本物だ!」
声が四方から押し寄せる。
学院生たちが叫び、教師たちまで驚いた顔でこちらを見ている。
どこかの兵士は口を開けたまま固まっていた。
文官らしき男は、慌てて何かを紙に書きつけている。
やめろ。
書くな。
何を書いている。
俺はそんな気持ちを押し殺し、ゆっくりと振り返った。
レイシアがいた。
彼女は最初、両手で口元を押さえていた。
そして俺と目が合うと、ほっとしたように表情を緩めた。
俺は笑ってみせた。
大丈夫だ、と伝えるために。
無様な姿は見せなかった。
それどころか、勝った。
勝ってしまった。
レイシアの顔に、安堵の笑みが浮かぶ。
それを見て、俺もようやく少しだけ息を吐いた。
だが、次の瞬間。
レイシアの表情が変わった。
彼女は俺の顔を見つめている。
頬のあたり。
さきほど破片で切れた場所だ。
「……レイシア?」
俺が呼びかけると、彼女は不思議そうに呟いた。
「アロー様の傷が……」
その声は、歓声の中でも、妙にはっきりと俺の耳に届いた。
「消えていく……」
俺は反射的に頬へ手を当てた。
確かに、さっきまでそこには細い傷があった。
血も少し流れていたはずだ。
だが、指先に触れた肌は、滑らかだった。
痛みもない。
血もない。
手の甲を見る。
そこにも、さっき破片で出来たはずの傷があった。
その赤い線が、まるで水に溶けるように薄くなっていく。
そして、消えた。
「……は?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
歓声は続いている。
皆、俺の勝利に沸いている。
ギルベルトは砕けた剣を見つめたまま動かない。
教師たちは慌ただしく何かを話している。
その中で、俺とレイシアだけが、別のものを見ていた。
俺の身体。
傷が、勝手に塞がる身体。
異様に軽い足。
異様に強い腕。
異様に冴えた目。
そして、首を食い破られても生きていた自分。
ようやく、それらが一本の線で繋がり始める。
俺は勝った。
ギルベルトに勝った。
学院中の前で、自分の力を示した。
だが、その勝利の喜びは、胸の奥から湧き上がってきた冷たい恐怖に、あっさりと押し流された。
俺の身体に、何が起きている。
俺は、本当にまだ人間なのか。
レイシアの青い瞳が、不安げに揺れていた。
俺は笑おうとした。
大丈夫だ、と言おうとした。
だが、その言葉は喉の奥で止まった。
なぜなら、一番大丈夫ではないと感じているのは、俺自身だったからだ。
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