↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔獣英雄アロー  作者: あおおに


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/18

凱旋の王都

 王都へ戻る道程は、驚くほど順調だった。

 魔獣グランベルクを討伐した翌朝、俺たちは野営地を発った。

 正直に言えば、もっと疲れていると思っていた。

 上級雷魔法を連発し、巨大な魔獣と戦い、おまけに首を食い破られた。

 いや、最後の件は思い出さない方が良い。


 あれを真正面から考え始めると、いろいろと怖くなる。

 なので俺は、自分に都合の良い結論を出す事にした。

 あれは、何かの見間違い。

 あるいは、魔獣の瘴気による幻覚。

 そういう事にしておく。

 世の中には、深く考えない方が良い事もあるのだ。


 貴族の次男として、そして魔法学院の優等生として、俺はその辺りの判断力を備えている。

 ……たぶん。

「アロー様、お身体は本当に大丈夫なのですか?」

 部下の一人が、馬を寄せて尋ねてきた。

「ああ。問題ない」

 俺はそう答えた。


 実際、身体は快調だった。

 むしろ、快調すぎるぐらいだった。

 馬上で一日揺られても、腰が痛くならない。

 肩も凝らない。

 魔力を使い切った後にありがちな倦怠感もない。

 森での戦闘後とは思えないほど、頭も冴えていた。


 問題があるとすれば、一つだけ。

 腹が減る。

 異様に腹が減る。

「……ところで、食料の残りは?」

「え? ええと、本日の昼食分と、予備が少々ございますが」

「そうか」

 俺は平静を装って頷いた。


 内心では、まったく平静ではなかった。

 朝食は食べた。

 かなり食べた。

 干し肉を二人前、パンを三つ、豆のスープを鍋の底が見えるぐらい飲んだ。

 それなのに、もう腹が鳴りそうだった。


 これでは、まるで育ち盛りの騎士見習いである。

 俺は十八歳だ。

 魔法学院では上級生であり、婚約者もいる。

 そろそろ落ち着きと威厳を身につけるべき年齢である。

 その男が、道中ずっと食べ物の事ばかり考えている。

 これは、あまり良くない。

 非常に良くない。


 レイシアに知られたら、どう思われるだろうか。

『アロー様は、よく召し上がるのですね』

 微笑んでくれる気もする。

 するが、限度というものがある。

 彼女の前で骨付き肉を両手に持ってかぶりつく俺など、想像したくもない。

 いや、それはそれで喜ばれる可能性も……ないな。


 ない。

 公爵令嬢に何を期待しているのだ、俺は。

 そんな事を考えながらも、俺たちは王都へ近づいていった。

 途中の村や街道の宿場では、すでに噂が広まっていた。


 グランベルク討伐。

 イーブルナイツ伯爵家の次男、アロー・イーブルナイツの武勲。

 巨大な魔石を手に入れたという話。

 どうやら、先触れがかなり派手に伝えてくれたらしい。

 宿場に着くたび、俺たちは人に囲まれた。


「本当に、あの魔獣を倒されたのですか!」

「王都の騎士団でも苦戦するって話だったのに!」

「さすが貴族様だ!」

 最後の言い方は、褒めているのかどうか少し怪しかった。

 だが、悪意はない。


 皆、素直に喜んでくれている。

 グランベルクは、それだけ恐れられていた魔獣なのだ。

 俺は出来るだけ穏やかに微笑み、感謝の言葉を受け取った。

 貴族としての作法。

 学院で学んだ礼儀。

 そういうものを総動員して、俺は立派な討伐者として振る舞った。

 腹は減っていたが。


 そして、王都の城門が見えてきた時には、さすがに胸が熱くなった。

 白い城壁。

 高く掲げられた王国旗。

 その下で、門番たちが俺たちの到着を待っていた。


 普段なら入城の手続きで多少は待たされる。

 だが、この日は違った。

「アロー・イーブルナイツ様、ご帰還!」

 門番の声が響く。

 その瞬間、門の内側から歓声が上がった。

「おお!」

「帰って来たぞ!」

「グランベルクを倒した若君だ!」


 人が集まっていた。

 多すぎる。

 どう考えても、偶然ではない。

 商人。

 職人。

 下町の子供たち。

 学院生らしき若者。

 さらには、貴族家の馬車まで並んでいる。


 俺は思わず背筋を伸ばした。

 馬に乗っていて良かった。

 歩いていたら、膝が変な動きをしていたかもしれない。

 歓声の中、俺たちは王都の大通りを進んだ。

 まるで、軽いパレードだった。

 いや、軽いどころではない。


 店先から花びらを撒く者までいた。

 どこで用意したのだ。

 こういう時の王都の人間は、妙に手際が良い。

「アロー様!」

「こっちを向いてください!」

「魔石はどれほどの大きさなのですか!」

「ご婚儀はいつですか!」

 最後の声を聞いた時、俺は危うく馬上で咳き込むところだった。


 婚儀。

 そうだ。

 この武勲は、そのためのものでもある。

 レイシアとの婚約を確かなものにするため。

 俺が彼女に相応しい男だと示すため。

 その名を聞いただけで、胸の中が温かくなった。

 同時に、少しだけ落ち着かなくなる。

 彼女は、俺の無事を喜んでくれるだろうか。

 心配してくれていただろうか。

 いや、心配させた事を、まず謝るべきか。


 そんな事を考えているうちに、俺たちは王都のイーブルナイツ邸に到着した。

 門が開く。

 使用人たちがずらりと並んでいた。

「お帰りなさいませ、アロー様!」

 一斉に頭を下げられ、俺は一瞬、足を止めた。

 自分の家なのに、妙に他人の家のようだった。


 いつもなら、俺は次男だ。

 家を継ぐかどうかも曖昧な立場。

 兄上が病で倒れてからは、周囲の見る目も変わっていたが、それでも正式な後継者ではない。

 だが今、この屋敷の空気は明らかに違っていた。

 俺を見る目に、期待がある。

 希望がある。


 そして、少しばかりの打算もある。

 貴族の屋敷とは、そういう場所だ。

 綺麗な感情だけで成り立っているわけではない。

 それでも、俺は胸を張った。

 その先に、父上がいた。

 イーブルナイツ伯爵、ガルディオ・イーブルナイツ。


 厳格で、笑顔など滅多に見せない人だ。

 幼い頃から、俺は何度も叱られてきた。

 魔法の成績が良くても、礼法が少し乱れれば叱られた。

 剣術で負ければ、努力が足りないと叱られた。

 兄上に比べれば、お前はまだ軽いと言われた事もある。

 その父上が。

 満面の笑みを浮かべていた。


「よく戻った、アロー!」

「父上。ただいま戻りました」

 俺は膝をつき、頭を下げた。

 すると、父上は俺の肩に手を置いた。

 力強い手だった。

「見事だ。まさか本当にグランベルクを討つとはな」

「運もありました」

「運を掴むのも実力だ」

 その言葉に、胸が熱くなった。


 父上に、こうして真正面から褒められた記憶は少ない。

 いや、ないかもしれない。

 そのぐらい、貴重な瞬間だった。

「魔石はあるか?」

「はい」

 屋敷の広間に移動し、俺は収納魔法から巨大な魔石を取り出した。


 絨毯の上に置くのは少し気が引けたが、他に適当な場所もない。

 魔石が姿を現した瞬間、広間にいた者たちが息を呑んだ。

 父上も、目を見開いた。

「これは……」

 父上の声が低くなる。


 驚いている。

 あの父上が、明らかに驚いている。

「これほどの魔石、私も見た事がない」

「私もです」

「これは……我が家で抱えてよい物ではないな」

 父上はしばらく魔石を見つめた後、すぐに判断を下した。

「王家に献上する」

 その言葉に、周囲の空気が変わった。


 王家に献上。

 つまり、これは単なる討伐の報告では済まない。

 王家への忠誠を示し、同時にイーブルナイツ家の存在感を王都に知らしめる行為になる。

「アロー、異論はあるか?」

「ありません」

 俺は即座に答えた。

 魔石の価値を考えれば、惜しい気持ちがないわけではない。


 売れば、いったいどれほどの金になるのだろう。

 イーブルナイツ家の財政も、かなり潤うはずだ。

 だが、それ以上に必要なのは名誉だ。

 王家からの評価。

 公爵家に対して、婚約を進めるだけの後押し。

 そのためなら、魔石を献上するのが最善だった。


「よし。すぐに王城へ使いを出せ。陛下への拝謁を願い出る。グランベルク討伐の報告と、魔石献上の件だ」

「かしこまりました」

 家令が深く頭を下げ、広間を出ていく。


 父上は再び俺を見た。

「今日は休め。明日以降、忙しくなるぞ」

「はい」

「それと、よく食べろ。顔色は悪くないが、魔獣討伐の後だ。身体が資本だ」

「……はい」

 よく食べろ。

 その言葉に、俺の腹が反応した。


 ぐう、と鳴った。

 広間に響くほどではなかったが、近くにいた父上には聞こえたらしい。

 父上は一瞬、目を瞬かせ、それから豪快に笑った。

「ははは! 若いな!」

 違います、父上。

 これは若さではなく、何か別のものかもしれません。

 とは、言えなかった。


 その日の夕食は豪勢だった。

 討伐成功を祝うため、厨房が張り切ったのだろう。

 ローストした鶏。

 香草で焼いた魚。

 鹿肉の煮込み。

 白パン。

 果物。

 焼き菓子。

 並んだ料理を見た時、俺は思わず喉を鳴らした。

 そして、食べた。

 かなり食べた。


 父上が感心するほど食べた。

 使用人たちが少し引くほど食べた。

 俺自身も途中で、さすがにこれはどうなのだと思った。

 だが、止まらなかった。

 食べても食べても、身体の奥がまだ欲しがっている。


 空腹というより、補給。

 何かを満たそうとしている感覚だった。

 それでも、寝台に入る頃には、さすがに満腹になっていた。

 俺は柔らかな布団の中で、ぼんやり天井を見上げた。


 王都に戻った。

 父上に認められた。

 明日は学院に行く。

 そして、レイシアに会える。

 それだけで、胸がふわふわした。

 眠りに落ちる直前、首筋の奥が一度だけ脈打った気がした。

 だが俺は、それを疲れのせいにした。


 翌朝。

 俺は魔法学院へ登院した。

 学院の門をくぐった瞬間、空気が変わった。

「あ、アローだ!」

「戻ってきたぞ!」

「本当にグランベルクを倒したんだって!」


 視線が集まる。

 昨日の王都ほどではないが、学院の中でも俺の討伐はすでに広まっていた。

 上級生も下級生も、教師たちまでもが俺に声をかけてくる。

「イーブルナイツ君、見事だったそうだね」

「王城からも問い合わせが来ているらしいぞ」

「さすが学院首席候補だ」


 首席候補。

 その言葉には少し苦笑した。

 成績だけなら、確かに上位だ。

 だが俺は、剣術ではそこまで突出していない。

 総合では一番になりきれない。

 そういう中途半端さを、自分ではよく分かっていた。


 それでも今日は、皆が俺を称えてくれる。

 悪い気はしなかった。

 いや、正直に言えば、かなり嬉しかった。

 俺はまだ十八歳なのだ。

 褒められれば嬉しい。

 尊敬されれば浮かれる。

 それを完全に隠せるほど、大人ではない。


 そんな時だった。

 廊下の向こうが、ふっと静かになった。

 人の波が自然に割れる。

 その先から、一人の少女が歩いてきた。

 レイシア・ミスルランド。

 ミスルランド公爵家の令嬢にして、俺の婚約者。


 十三歳。

 学院の最年少。

 それでいて、すでに誰もが振り返る美しさと品性を備えた少女だった。

 淡い金の髪は、朝の光を受けて柔らかく輝いている。

 白い肌。

 澄んだ青い瞳。

 小柄な身体に、学院の制服がよく似合っていた。


 ただ可愛らしいだけではない。

 立ち居振る舞いの一つ一つに、公爵令嬢としての気品がある。

 俺など、何度見ても少し緊張する。

 そのレイシアが、俺を見るなり、足を止めた。

「アロー様……」

 声が震えていた。

 次の瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれた。


「ご無事で……本当に……!」

 俺は慌てた。

 周囲の目もある。

 ここは学院の廊下だ。

 婚約者とはいえ、貴族の令嬢が人前で涙を見せるのは、あまり良い事ではない。

 だが、そんな建前は、どうでもよくなった。


「レイシア」

 俺は彼女に歩み寄った。

 抱きしめるわけにはいかない。

 せめて、そっと手を取った。

 レイシアの手は小さく、少し冷たかった。

「心配をかけた。すまない」

「謝らないでくださいませ。アロー様がご無事で戻られた。それだけで、私は……」

 言葉の途中で、また涙がこぼれる。


 胸が締めつけられた。

 俺はこの子に、こんな顔をさせたのか。

 武勲だ、婚約だ、家の名誉だと考えていたが、俺が死ねばレイシアは悲しむ。

 そんな当たり前の事を、今さら強く実感した。

「もう無茶はしない」

 言ってから、少しだけ自信がなくなった。

 貴族として生まれた以上、無茶をしなければならない時はある。

 それでも、今はそう言いたかった。


「約束してくださいませ」

「ああ。約束する」

 レイシアは、小さく頷いた。

 その表情に、ようやく微笑みが戻る。

 その笑顔を見ただけで、俺の心は簡単に満たされた。

 腹の方は、また少し減っていたが。

 そこは黙っておく。

 周囲の学院生たちは、俺たちを遠巻きに見ていた。


 祝福するような視線。

 羨むような視線。

 面白がる視線。

 そして、面白くなさそうな視線。

 その最後の視線の主が、前に出てきた。

「随分と派手に騒がれているな、イーブルナイツ」

 低く、嫌味な声。

 振り向くまでもなかった。


 ギルベルト・サーダイン。

 サーダイン侯爵家の三男。

 剣術科目では学院でも上位。

 いや、剣だけなら間違いなく一流だ。

 長身で、鍛え上げられた身体を持ち、顔立ちも悪くない。

 黙っていれば、令嬢たちが騒ぐような男である。

 黙っていれば、だが。


 ギルベルトは、いつも自信に満ちていた。

 満ちすぎていた。

 その自信が溢れ、床にこぼれ、周囲の人間の靴を汚すぐらいには満ちていた。

「ギルベルト」

 俺はレイシアの手を離し、一歩前に出た。


 レイシアを背に庇う形になる。

 それを見たギルベルトの眉が、わずかに動いた。

「グランベルクを倒したそうだな。噂では、巨大な魔石を持ち帰ったとか」

「ああ」

「実に立派な話だ。魔法学院の優等生様は、随分と都合の良い武勲を得たものだな」


 周囲がざわつく。

 ギルベルトの言葉には、明らかな棘があった。

「何が言いたい」

「簡単な話だ。本当にお前が倒したのか、という事だ」

 空気が凍った。

 レイシアが息を呑む気配がした。

「ギルベルト様、それは――」

「レイシア嬢は黙っていていただきたい」

 ギルベルトは、レイシアに向かって優雅に頭を下げた。


 だが、その言葉には敬意がない。

 俺の中で、何かが少し冷えた。

「討伐隊を率いていたのは俺だ。魔石も俺が回収した」

「だから、それを誰が証明する? 部下どもか? イーブルナイツ家の者が、イーブルナイツ家の若君を褒めたたえる。実に信用出来る証言だな」

「ギルベルト」

 俺は声を低くした。

「言葉を選べ」

「選んでいるとも」

 ギルベルトは笑った。


「私はただ、レイシア嬢の婚約者となる男が、本物の英雄であるべきだと言っているだけだ。魔法を遠くから撃つだけの男ではなく、剣を取り、前に立ち、守るべき者を守れる男であるべきだとな」

 その言葉に、周囲の何人かが顔を見合わせた。

 ギルベルトが何を狙っているのか、誰にでも分かった。


 彼は、俺とレイシアの婚約に反対している。

 そして、サーダイン侯爵家の三男である自分こそが、ミスルランド公爵令嬢に相応しいと思っている。

 実際、家格だけなら悪くない。

 剣の腕もある。

 厄介なのは、本人がそれを疑っていない事だった。


「アロー様は、私の大切な婚約者です」

 背後で、レイシアが静かに言った。

 涙はもう止まっていた。

 その声には、公爵令嬢としての凛とした響きがあった。

「そのような侮辱は、私への侮辱でもあります」

 ギルベルトの笑みが、わずかに固まった。


 だが、すぐに作り直す。

「私はレイシア嬢を侮辱するつもりはありません。ただ、貴女が偽りの武勲に惑わされているのではないかと心配しているだけです」

「余計なお世話です」

 レイシアが即答した。

 周囲の誰かが、小さく吹き出した。


 ギルベルトの頬が引きつる。

 俺は少しだけ気分が良くなった。

 レイシアは、見た目は可憐だが、芯は強い。

 そういうところも、俺は好きだった。

「なるほど。ならば、はっきりさせよう」

 ギルベルトは俺に向き直った。

「アロー・イーブルナイツ。私と剣で勝負しろ」

 予想通りの言葉だった。


 しかし、実際に言われると頭が痛い。

「なぜそうなる」

「魔獣を討った英雄ならば、私程度に臆する事はあるまい」

「学院内で私闘は禁止されている」

「正式な立ち会いにすればいい。訓練場で、教師立ち会いのもと、模擬戦を行う。何も問題はない」


 問題はある。

 大いにある。

 俺は魔法使いとしては自信がある。

 だが、剣ではギルベルトに劣る。

 それは学院中が知っている事実だった。

 もちろん、剣の訓練を怠ってきたつもりはない。

 貴族男子として、最低限以上には鍛えている。


 だが、ギルベルトは剣に関しては本物だ。

 剣だけは、悔しいが認めざるを得ない。

 ここで受ければ、負ける可能性が高い。

 負ければ、ギルベルトは言うだろう。

 ほら見ろ。

 剣も振れない男が、どうやって魔獣を倒したのだ、と。


 俺の武勲に傷をつけるには十分だった。

 断れば、臆したと言われる。

 これもまた、傷になる。

 実に嫌な手だ。

 性格は悪いが、馬鹿ではないらしい。

 俺はギルベルトを見た。


 ギルベルトは勝ちを確信している顔だった。

 レイシアが不安そうに俺を見上げる。

「アロー様……」

 その声を聞いた時、俺の中で答えは決まった。

 ここで逃げるわけにはいかない。

 レイシアの前で。

 自分の婚約者の前で。

 俺は、笑ってみせた。


「いいだろう」

 周囲がどよめいた。

 ギルベルトの笑みが深くなる。

「受けるのか」

「ああ。ただし、教師立ち会いの正式な模擬戦だ。無用な怪我は避ける」

「それは当然だ。私は紳士だからな」

 紳士は婚約者の前で相手を侮辱しない。

 そう言いたかったが、飲み込んだ。


「日時は?」

「今日の放課後でどうだ」

「急だな」

「英雄殿なら問題あるまい」

 面倒な男だ。

 心の底からそう思った。

 だが、もう引けない。


「分かった。放課後、訓練場だ」

 ギルベルトは満足げに頷いた。

「楽しみにしている」

 そう言って、彼は取り巻きたちを連れて去っていった。

 去り際に、こちらを振り返りもしなかった。

 勝ったつもりでいるのだろう。

 実際、普通に考えれば彼が有利だ。


 俺は小さく息を吐いた。

「アロー様……申し訳ありません。私のせいで」

「違う。あれは最初から俺に絡むつもりだった」

 俺はレイシアに向き直り、出来るだけ穏やかに言った。

「心配しないでくれ。無様な真似はしない」

「でも、ギルベルト様の剣は……」

「ああ。強いな」

 認めるしかない。


 すると、レイシアの表情がさらに曇った。

 俺は苦笑した。

「だからこそ、簡単には負けられない」

 本当は、自信などなかった。

 魔法を使えるなら、いくらでもやりようはある。

 だが、剣での模擬戦となれば話は別だ。

 それでも、不思議と身体は軽かった。


 昨日から続く、妙な快調さ。

 馬上での疲れのなさ。

 腹の底に溜まった、得体の知れない熱。

 それらが何を意味するのか、俺はまだ知らない。


 ただ、訓練場へ向かう事になる放課後を思い、俺は無意識に右手を握った。

 その握力が、以前の自分のものとは違うほど強くなっている事に。

 この時の俺は、まだ気づいていなかった。

読んでいただいて、ありがとうございます。

こんなお話でも面白いと思って下さったら、『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』にしてポイントを入れてもらえたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。