白い婚儀
アローは、待った。
レイシアが手を掲げるのを。
浄化の魔法を唱えるのを。
自分を、人ではなくなったものとして討つのを。
だが、レイシアは動かなかった。
動けなかった。
胸の前で両手を握り締めたまま、ただ涙を流している。唇は震え、何かを言おうとしては、声にならずに消えていく。
無理もない。
アローは思った。
こんな願いを聞けるはずがない。婚約者を、自分の手で討てと言われて、はいそうですかと頷けるはずがない。
分かっている。
分かっているのに、それでも頼むしかない。
アローの身体の奥で、また何かが蠢いた。
腹が、鳴った。
それは空腹の音だった。
戦い続け、傷つき、右腕を失い、魔力を使い果たしかけた身体が、強烈に命を求めている。
肉を。血を。魔力を。生きているものを。
欲している。
アローは歯を食いしばった。
だが、その歯の形が、もう人間のものではない事に気づいてしまう。
牙だ。
鋭く、硬く、肉を裂くための牙。
「レイシア……」
自分の声が低い。
喉の奥に獣が混じっている。
「もう、自分を抑えられそうにない……。俺が心まで魔獣になる前に」
「出来ません!」
レイシアが叫んだ。
それは、拒絶だった。
アローの願いへの拒絶であり、アローの死への拒絶であり、この現実そのものへの拒絶だった。
「出来る訳ないじゃないですか!」
涙が、彼女の頬を伝う。
幾筋も、幾筋も。
アローはそれを見て、胸の奥が軋んだ。
ああ。
今、レイシアを泣かせているのは俺だな。
魔獣ではない。敵ではない。運命でもない。
俺だ。
俺が、レイシアにこんな顔をさせている。
そう思った瞬間、アローは自分で自分が許せなくなった。
守りたかった。笑っていてほしかった。幼い頃から婚約者として隣にいた少女に、いつか胸を張って夫となるつもりだった。
なのに、今の自分はどうだ。
角を生やし、牙を剥き、片腕を失い、彼女に自分を殺せと頼んでいる。
なんて男だ。
なんて、情けない男だ。
こんな時間、早く終わらせなければならない。
アローは左手を握った。
その瞬間、ぐい、と爪が伸びた。
自分の意思ではない。
硬く黒い爪が、指先から押し出されるように伸びていく。地面をかすめただけで、土がざっくりと裂けた。
牙もまた、さらに鋭くなった。
口の中が狭い。唇を閉じても、牙が収まらない。
身体が変わっていく。
人から遠ざかっていく。
もう、時間がない。
アローは、レイシアを見た。
涙で濡れた顔。震える肩。それでも逃げない足。
愛しい。
どうしようもなく愛しい。
そして同時に。
美味そうだと、思ってしまった。
喉が鳴った。
その音を自分で聞いて、アローは背筋が凍った。
これ以上は駄目だ。
このままでは、本当にレイシアに手を伸ばす。
自分の意志で止められるうちに、彼女を動かさなければならない。
「もう、俺にはお前がエサにしか見えないんだ」
言葉にした瞬間、レイシアの顔が歪んだ。
傷つけた。
分かっていて、傷つけた。
だが、レイシアは引かなかった。
「構いません!」
アローは目を見開いた。
レイシアは涙を流したまま、それでも真っ直ぐにアローを見ていた。
「私を食べて下さい! そうすれば、アロー様といつまでも一緒に!」
その言葉に、周囲の者たちが息を呑んだ。
カイルが青ざめる。
「レイシア様、何言って……!」
だが、レイシアは聞いていない。
アローだけを見ている。
アローは、心のどこかで笑いそうになった。
いや、泣きそうになったのかもしれない。
なんて子だ。
自分を食べろと言うのか。
自分を喰らわせて、それでも一緒にいたいと言うのか。
そんな事を言われたら。
本当に、喰らいたくなってしまうではないか。
「なるほど」
アローは低く呟いた。
「それも悪くない」
レイシアの表情がわずかに揺れる。
その奥に、微かな安堵のようなものが見えた。
馬鹿だ。
アローは思った。
俺も、お前も、本当に馬鹿だ。
「でも、その前に」
アローは、ぎろりと視線を横へ向けた。
そこにいたのは、カイルだった。
後輩の少年。いつも「ロー先輩」と呼んで、少し生意気で、けれど憎めない後輩。
そのカイルが、ぴしりと固まった。
「え、俺!?」
「肉が足りないんだ。とりあえず食わせろ」
「え、いやいやいや……」
カイルは慌てて後ずさろうとした。
だが、足が動かない。
恐怖で固まっている。
無理もない。
今のアローは、どう見ても人間ではない。巨大なミノタウロスの異形。片腕を失ってなお、まだ周囲の誰よりも危険な存在。
そのアローが、自分を喰うと言っているのだ。
「ロー先輩、冗談……ですよね?」
カイルの声が震える。
アローは答えなかった。
代わりに、一歩踏み出す。
大地が沈む。
カイルの顔から血の気が引いた。
「アロー様!」
レイシアが叫ぶ。
「食べるなら私を!」
「お前だけじゃ足りないんだ」
アローは、さらに一歩進んだ。
自分が何をしているのか、分かっている。
カイルを本当に食べたい訳ではない。
いや。
嘘だ。
身体は、食べたいと思っている。
だからこそ、これは演技であって演技ではなかった。
止めてくれ。
早く止めてくれ。
そう願いながら、アローはカイルへ近づいた。
カイルは剣に手をかける事すら出来ない。
その目に浮かんでいるのは、恐怖だけではなかった。
悲しみもあった。
信じたくないという顔だった。
「ロー先輩……」
その声が、アローの胸を刺す。
もう、十分だ。
これ以上は本当に駄目だ。
アローが爪を上げた。
カイルへ向けて。
その瞬間。
「アロー様!」
レイシアの声が、戦場に響いた。
そして、光が降りた。
天上から、まっすぐに。
それは攻撃魔法の光ではなかった。
敵を焼くための炎でもない。雷でもない。剣の閃きでもない。
清浄なる光。
穢れを祓い、魔を鎮め、魂をあるべき場所へ導くための光。
白誓の祈り───。
レイシアの浄化魔法だった。
本来なら、その魔法は、もっと違う形で使われるはずだった。
いつか、アローとレイシアが婚儀を迎える日。
神殿の白い床の上で。親族や友人たちに祝福され。誓いの言葉を交わした後。
レイシアはこの浄化の光を降らせるはずだった。
二人の門出を祝うために。
未来に差す影を祓うために。
夫婦となる二人の道が、清らかであるようにと願うために。
だが今、その光は戦場に降り注いでいた。
血と泥と焼け焦げた肉の匂いが満ちる場所に。 倒れた者たちの呻き声が残る場所に。魔獣を倒した英雄が、魔獣として討たれようとしている場所に。
それでも、光は美しかった。
あまりにも、美しかった。
アローは、逃げなかった。
左手の爪を下ろし、ただ全身でその光を受け止めた。
清浄な光が、アローの身体に触れる。
次の瞬間、白い炎が上がった。
「ぐ……っ!」
痛みがあった。
凄まじい痛みだった。
肉が焼ける。骨が軋む。魔獣として変わってしまった身体が、光に触れた端から崩れていく。
だが、不思議と嫌ではなかった。
黒い衝動が薄れていく。
飢えが消えていく。
レイシアをエサだと思った感覚が、遠ざかっていく。
代わりに、胸の奥から懐かしいものが戻ってきた。
幼いレイシアが、自分の後ろを少し緊張した顔で歩いていた記憶。
初めて彼女に魔法を見せた時、目を輝かせてくれた記憶。
婚約者として向き合うには幼すぎた彼女が、少しずつ少女になり、いつの間にか、自分の未来そのものになっていた記憶。
ああ。
そうだった。
俺は、この子と生きていくつもりだった。
レイシアは両手を掲げていた。
涙を流しながら。唇を震わせながら。それでも、魔法を止めなかった。
止めれば、アローが魔獣になる。
止めなければ、アローが消える。
そのどちらかしかない選択を、彼女は選ばされていた。
「アロー様!」
レイシアが叫ぶ。
何度目か分からない叫びだった。
だが、今度の声には、魔法を維持するための祈りが混じっていた。
泣きながら。拒みながら。それでも、彼女はアローを送ろうとしている。
アローは、その姿を見て、思った。
綺麗だな、と。
こんな時に、そんな事を思った。
白い光の中に立つレイシアは、まるで婚儀の日の花嫁のようだった。
いや、実際にそうなのだ。
ここは神殿ではない。
祝福の鐘もない。白い衣装もない。誓いを見届ける司祭もいない。
だが、これは婚儀だった。
レイシアの浄化の光は、二人の門出を祝うはずだった魔法。
ならば今、この光の中で、自分たちは別れながら結ばれている。
生きて夫婦になる事は出来なかった。
だが、最後にレイシアの魔法で送られるなら。
それはきっと、自分に許された、たった一つの婚儀だった。
「レイシア……」
アローは声を絞り出した。
もう喉も焼け始めている。
獣の声が薄れ、人間の声に戻りかけている気がした。
「愛していた」
レイシアの顔が、くしゃりと歪んだ。
「過去にしないで下さい!」
その叫びに、アローは少しだけ目を見開いた。
「過去にしないで下さい、アロー様! 終わった事みたいに言わないで下さい!」
ああ。
また間違えた。
最後の最後まで、自分はこの子を傷つける言い方をしてしまう。
アローは、白い炎の中で笑った。
今度は、きっと人の顔で笑えている。
少なくとも、自分ではそう思いたかった。
「愛してる、レイシア」
レイシアの涙が、光を受けて宝石のように輝いた。
「アロー様、私もあなたを愛しています!」
その言葉を聞いた瞬間、アローの中で何かがほどけた。
魔獣の力ではない。恐怖でもない。未練でもない。
ずっと張り詰めていたものが、静かにほどけた。
良かった。
そう思った。
レイシアに愛していると言えた。
レイシアから愛していると言ってもらえた。
それだけで、もう十分だった。
十分なはずがないのに、十分だと思えた。
カイルの声が聞こえた。
「ロー先輩……!」
振り向く力は、もうなかった。
だが、アローは少しだけ視線を向けた。
カイルは泣いていた。
剣も抜けず、ただ拳を握り締めている。
アローは、彼にも言いたい事があった。
すまない。後を頼む。レイシアを支えてくれ。
いくつも言葉が浮かんだ。
だが、もう声にする力が足りない。
だから、アローはただ頷いた。
カイルが、さらに顔を歪める。
伝わったかどうかは分からない。
それでも、伝わったと信じる事にした。
白い炎が、アローの脚を包む。
ミノタウロスの獣の脚が、光の粒になって崩れていく。
胴が焼ける。
角が砕ける。
肩口から流れていた黒い血も、白い光に触れて消えていく。
痛みはまだあった。
だが、それ以上に温かかった。
レイシアの魔法だからだろうか。
浄化とは、こんなにも優しいものだったのか。
アローは、初めて知った。
いや。
レイシアだから、優しいのだ。
自分を討つ魔法さえ、彼女は祈りに変えてくれる。
アローは、最後の力でレイシアを見た。
涙でぐしゃぐしゃの顔。
それでも光を途切れさせない、強い瞳。
美しいと思った。
可哀想だと思った。
誇らしいと思った。
愛しいと思った。
「レイシア」
声になったかは分からない。
だが、彼女は確かに反応した。
「はい、アロー様」
アローは、穏やかに微笑んだ。
もう、牙は消えかけていた。
角も崩れ、獣の輪郭も薄れていく。
白い炎の向こうで、自分の身体が人の形へ戻ろうとしているようにも感じた。
だが、それはきっと錯覚だ。
戻るためではなく、終わるための光。
それで良かった。
アローは、魔獣ではなく人として終われる。
レイシアの愛するアローとして、消えていける。
白い炎が、胸まで飲み込んだ。
視界が白く染まる。
最後に見えたのは、レイシアだった。
泣きながら、自分を見送るレイシア。
婚儀の祝福の光を、自分に降らせるレイシア。
アローの花嫁。
アローは、もう一度だけ笑った。
そして、その肉体は白い炎に飲まれていった。
戦場には、静寂が落ちた。
魔獣の死骸はなく。
ミノタウロスの異形もなく。
ただ、天から降り注いだ浄化の光の名残だけが、白い雪のように舞っていた。
誰も声を出せなかった。
勝利の歓声など、あるはずがなかった。
そこにあったのは、別れだった。
そして、婚儀だった。
レイシアは、両手を下ろせなかった。
魔法はもう終わっている。
アローも、もういない。
それでも彼女は、光を降らせていた時の姿勢のまま、立ち尽くしていた。
やがて、震える唇から、小さな声が漏れる。
「……アロー様」
答えはない。
当然だ。
あるはずがない。
それでもレイシアは、もう一度呼んだ。
「アロー様……」
その声に、カイルが膝をついた。
誰かが泣き出した。
誰かが祈りを捧げた。
霧の森は、静かだった。
あれほど濃かった瘴気は薄れ、森の奥から微かな風が吹いてくる。
その風に乗って、白い光の粒が空へ昇っていった。
まるで、誰かの魂を運ぶように。
レイシアは、その光を見上げた。
涙は止まらない。
胸は裂けそうに痛い。
それでも、彼女はその光から目を逸らさなかった。
自分が送ったのだ。
自分の魔法で。
自分の手で。
愛する人を。
花嫁として。
そして、討ち手として。
レイシアは、震える手を胸に当てた。
そこには、まだアローの声が残っている気がした。
愛してる、レイシア。
その言葉だけが、焼け跡の戦場に、いつまでも消えずに残っていた。
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