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魔獣英雄アロー  作者: あおおに


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17/18

白い婚儀

 アローは、待った。

 レイシアが手を掲げるのを。

 浄化の魔法を唱えるのを。

 自分を、人ではなくなったものとして討つのを。

 だが、レイシアは動かなかった。

 動けなかった。


 胸の前で両手を握り締めたまま、ただ涙を流している。唇は震え、何かを言おうとしては、声にならずに消えていく。

 無理もない。

 アローは思った。

 こんな願いを聞けるはずがない。婚約者を、自分の手で討てと言われて、はいそうですかと頷けるはずがない。


 分かっている。

 分かっているのに、それでも頼むしかない。

 アローの身体の奥で、また何かが蠢いた。

 腹が、鳴った。

 それは空腹の音だった。

 戦い続け、傷つき、右腕を失い、魔力を使い果たしかけた身体が、強烈に命を求めている。

 肉を。血を。魔力を。生きているものを。

 欲している。


 アローは歯を食いしばった。

 だが、その歯の形が、もう人間のものではない事に気づいてしまう。

 牙だ。

 鋭く、硬く、肉を裂くための牙。

「レイシア……」

 自分の声が低い。

 喉の奥に獣が混じっている。


「もう、自分を抑えられそうにない……。俺が心まで魔獣になる前に」

「出来ません!」

 レイシアが叫んだ。

 それは、拒絶だった。

 アローの願いへの拒絶であり、アローの死への拒絶であり、この現実そのものへの拒絶だった。

「出来る訳ないじゃないですか!」

 涙が、彼女の頬を伝う。

 幾筋も、幾筋も。

 アローはそれを見て、胸の奥が軋んだ。


 ああ。

 今、レイシアを泣かせているのは俺だな。

 魔獣ではない。敵ではない。運命でもない。

 俺だ。

 俺が、レイシアにこんな顔をさせている。

 そう思った瞬間、アローは自分で自分が許せなくなった。


 守りたかった。笑っていてほしかった。幼い頃から婚約者として隣にいた少女に、いつか胸を張って夫となるつもりだった。

 なのに、今の自分はどうだ。

 角を生やし、牙を剥き、片腕を失い、彼女に自分を殺せと頼んでいる。

 なんて男だ。

 なんて、情けない男だ。

 こんな時間、早く終わらせなければならない。


 アローは左手を握った。

 その瞬間、ぐい、と爪が伸びた。

 自分の意思ではない。

 硬く黒い爪が、指先から押し出されるように伸びていく。地面をかすめただけで、土がざっくりと裂けた。

 牙もまた、さらに鋭くなった。

 口の中が狭い。唇を閉じても、牙が収まらない。

 身体が変わっていく。

 人から遠ざかっていく。

 もう、時間がない。


 アローは、レイシアを見た。

 涙で濡れた顔。震える肩。それでも逃げない足。

 愛しい。

 どうしようもなく愛しい。

 そして同時に。

 美味そうだと、思ってしまった。

 喉が鳴った。


 その音を自分で聞いて、アローは背筋が凍った。

 これ以上は駄目だ。

 このままでは、本当にレイシアに手を伸ばす。

 自分の意志で止められるうちに、彼女を動かさなければならない。

「もう、俺にはお前がエサにしか見えないんだ」


 言葉にした瞬間、レイシアの顔が歪んだ。

 傷つけた。

 分かっていて、傷つけた。

 だが、レイシアは引かなかった。

「構いません!」

 アローは目を見開いた。


 レイシアは涙を流したまま、それでも真っ直ぐにアローを見ていた。

「私を食べて下さい! そうすれば、アロー様といつまでも一緒に!」

 その言葉に、周囲の者たちが息を呑んだ。

 カイルが青ざめる。

「レイシア様、何言って……!」


 だが、レイシアは聞いていない。

 アローだけを見ている。

 アローは、心のどこかで笑いそうになった。

 いや、泣きそうになったのかもしれない。

 なんて子だ。

 自分を食べろと言うのか。

 自分を喰らわせて、それでも一緒にいたいと言うのか。


 そんな事を言われたら。

 本当に、喰らいたくなってしまうではないか。

「なるほど」

 アローは低く呟いた。

「それも悪くない」

 レイシアの表情がわずかに揺れる。

 その奥に、微かな安堵のようなものが見えた。

 馬鹿だ。

 アローは思った。


 俺も、お前も、本当に馬鹿だ。

「でも、その前に」

 アローは、ぎろりと視線を横へ向けた。

 そこにいたのは、カイルだった。

 後輩の少年。いつも「ロー先輩」と呼んで、少し生意気で、けれど憎めない後輩。

 そのカイルが、ぴしりと固まった。


「え、俺!?」

「肉が足りないんだ。とりあえず食わせろ」

「え、いやいやいや……」

 カイルは慌てて後ずさろうとした。

 だが、足が動かない。

 恐怖で固まっている。


 無理もない。

 今のアローは、どう見ても人間ではない。巨大なミノタウロスの異形。片腕を失ってなお、まだ周囲の誰よりも危険な存在。

 そのアローが、自分を喰うと言っているのだ。

「ロー先輩、冗談……ですよね?」

 カイルの声が震える。

 アローは答えなかった。


 代わりに、一歩踏み出す。

 大地が沈む。

 カイルの顔から血の気が引いた。

「アロー様!」

 レイシアが叫ぶ。

「食べるなら私を!」

「お前だけじゃ足りないんだ」

 アローは、さらに一歩進んだ。


 自分が何をしているのか、分かっている。

 カイルを本当に食べたい訳ではない。

 いや。

 嘘だ。

 身体は、食べたいと思っている。

 だからこそ、これは演技であって演技ではなかった。


 止めてくれ。

 早く止めてくれ。

 そう願いながら、アローはカイルへ近づいた。

 カイルは剣に手をかける事すら出来ない。

 その目に浮かんでいるのは、恐怖だけではなかった。

 悲しみもあった。

 信じたくないという顔だった。


「ロー先輩……」

 その声が、アローの胸を刺す。

 もう、十分だ。

 これ以上は本当に駄目だ。

 アローが爪を上げた。

 カイルへ向けて。

 その瞬間。


「アロー様!」

 レイシアの声が、戦場に響いた。

 そして、光が降りた。

 天上から、まっすぐに。

 それは攻撃魔法の光ではなかった。

 敵を焼くための炎でもない。雷でもない。剣の閃きでもない。


 清浄なる光。

 穢れを祓い、魔を鎮め、魂をあるべき場所へ導くための光。

 白誓の祈り───。

 レイシアの浄化魔法だった。


 本来なら、その魔法は、もっと違う形で使われるはずだった。

 いつか、アローとレイシアが婚儀を迎える日。

 神殿の白い床の上で。親族や友人たちに祝福され。誓いの言葉を交わした後。

 レイシアはこの浄化の光を降らせるはずだった。


 二人の門出を祝うために。

 未来に差す影を祓うために。

 夫婦となる二人の道が、清らかであるようにと願うために。

 だが今、その光は戦場に降り注いでいた。

 血と泥と焼け焦げた肉の匂いが満ちる場所に。  倒れた者たちの呻き声が残る場所に。魔獣を倒した英雄が、魔獣として討たれようとしている場所に。


 それでも、光は美しかった。

 あまりにも、美しかった。

 アローは、逃げなかった。

 左手の爪を下ろし、ただ全身でその光を受け止めた。


 清浄な光が、アローの身体に触れる。

 次の瞬間、白い炎が上がった。

「ぐ……っ!」

 痛みがあった。

 凄まじい痛みだった。

 肉が焼ける。骨が軋む。魔獣として変わってしまった身体が、光に触れた端から崩れていく。


 だが、不思議と嫌ではなかった。

 黒い衝動が薄れていく。

 飢えが消えていく。

 レイシアをエサだと思った感覚が、遠ざかっていく。

 代わりに、胸の奥から懐かしいものが戻ってきた。


 幼いレイシアが、自分の後ろを少し緊張した顔で歩いていた記憶。

 初めて彼女に魔法を見せた時、目を輝かせてくれた記憶。

 婚約者として向き合うには幼すぎた彼女が、少しずつ少女になり、いつの間にか、自分の未来そのものになっていた記憶。


 ああ。

 そうだった。

 俺は、この子と生きていくつもりだった。

 レイシアは両手を掲げていた。

 涙を流しながら。唇を震わせながら。それでも、魔法を止めなかった。

 止めれば、アローが魔獣になる。

 止めなければ、アローが消える。

 そのどちらかしかない選択を、彼女は選ばされていた。


「アロー様!」

 レイシアが叫ぶ。

 何度目か分からない叫びだった。

 だが、今度の声には、魔法を維持するための祈りが混じっていた。

 泣きながら。拒みながら。それでも、彼女はアローを送ろうとしている。


 アローは、その姿を見て、思った。

 綺麗だな、と。

 こんな時に、そんな事を思った。

 白い光の中に立つレイシアは、まるで婚儀の日の花嫁のようだった。

 いや、実際にそうなのだ。


 ここは神殿ではない。

 祝福の鐘もない。白い衣装もない。誓いを見届ける司祭もいない。

 だが、これは婚儀だった。

 レイシアの浄化の光は、二人の門出を祝うはずだった魔法。

 ならば今、この光の中で、自分たちは別れながら結ばれている。


 生きて夫婦になる事は出来なかった。

 だが、最後にレイシアの魔法で送られるなら。

 それはきっと、自分に許された、たった一つの婚儀だった。

「レイシア……」

 アローは声を絞り出した。

 もう喉も焼け始めている。

 獣の声が薄れ、人間の声に戻りかけている気がした。


「愛していた」

 レイシアの顔が、くしゃりと歪んだ。

「過去にしないで下さい!」

 その叫びに、アローは少しだけ目を見開いた。

「過去にしないで下さい、アロー様! 終わった事みたいに言わないで下さい!」

 ああ。

 また間違えた。

 最後の最後まで、自分はこの子を傷つける言い方をしてしまう。


 アローは、白い炎の中で笑った。

 今度は、きっと人の顔で笑えている。

 少なくとも、自分ではそう思いたかった。

「愛してる、レイシア」

 レイシアの涙が、光を受けて宝石のように輝いた。

「アロー様、私もあなたを愛しています!」

 その言葉を聞いた瞬間、アローの中で何かがほどけた。


 魔獣の力ではない。恐怖でもない。未練でもない。

 ずっと張り詰めていたものが、静かにほどけた。

 良かった。

 そう思った。

 レイシアに愛していると言えた。

 レイシアから愛していると言ってもらえた。

 それだけで、もう十分だった。

 十分なはずがないのに、十分だと思えた。


 カイルの声が聞こえた。

「ロー先輩……!」

 振り向く力は、もうなかった。

 だが、アローは少しだけ視線を向けた。

 カイルは泣いていた。

 剣も抜けず、ただ拳を握り締めている。

 アローは、彼にも言いたい事があった。

 すまない。後を頼む。レイシアを支えてくれ。

 いくつも言葉が浮かんだ。


 だが、もう声にする力が足りない。

 だから、アローはただ頷いた。

 カイルが、さらに顔を歪める。

 伝わったかどうかは分からない。

 それでも、伝わったと信じる事にした。

 白い炎が、アローの脚を包む。

 ミノタウロスの獣の脚が、光の粒になって崩れていく。

 胴が焼ける。

 角が砕ける。

 肩口から流れていた黒い血も、白い光に触れて消えていく。


 痛みはまだあった。

 だが、それ以上に温かかった。

 レイシアの魔法だからだろうか。

 浄化とは、こんなにも優しいものだったのか。

 アローは、初めて知った。

 いや。

 レイシアだから、優しいのだ。

 自分を討つ魔法さえ、彼女は祈りに変えてくれる。


 アローは、最後の力でレイシアを見た。

 涙でぐしゃぐしゃの顔。

 それでも光を途切れさせない、強い瞳。

 美しいと思った。

 可哀想だと思った。

 誇らしいと思った。

 愛しいと思った。

「レイシア」

 声になったかは分からない。

 だが、彼女は確かに反応した。


「はい、アロー様」

 アローは、穏やかに微笑んだ。

 もう、牙は消えかけていた。

 角も崩れ、獣の輪郭も薄れていく。

 白い炎の向こうで、自分の身体が人の形へ戻ろうとしているようにも感じた。


 だが、それはきっと錯覚だ。

 戻るためではなく、終わるための光。

 それで良かった。

 アローは、魔獣ではなく人として終われる。

 レイシアの愛するアローとして、消えていける。

 白い炎が、胸まで飲み込んだ。

 視界が白く染まる。


 最後に見えたのは、レイシアだった。

 泣きながら、自分を見送るレイシア。

 婚儀の祝福の光を、自分に降らせるレイシア。

 アローの花嫁。

 アローは、もう一度だけ笑った。

 そして、その肉体は白い炎に飲まれていった。


 戦場には、静寂が落ちた。

 魔獣の死骸はなく。

 ミノタウロスの異形もなく。

 ただ、天から降り注いだ浄化の光の名残だけが、白い雪のように舞っていた。

 誰も声を出せなかった。

 勝利の歓声など、あるはずがなかった。


 そこにあったのは、別れだった。

 そして、婚儀だった。

 レイシアは、両手を下ろせなかった。

 魔法はもう終わっている。

 アローも、もういない。

 それでも彼女は、光を降らせていた時の姿勢のまま、立ち尽くしていた。

 やがて、震える唇から、小さな声が漏れる。

「……アロー様」

 答えはない。

 当然だ。

 あるはずがない。

 それでもレイシアは、もう一度呼んだ。

「アロー様……」


 その声に、カイルが膝をついた。

 誰かが泣き出した。

 誰かが祈りを捧げた。

 霧の森は、静かだった。

 あれほど濃かった瘴気は薄れ、森の奥から微かな風が吹いてくる。


 その風に乗って、白い光の粒が空へ昇っていった。

 まるで、誰かの魂を運ぶように。

 レイシアは、その光を見上げた。

 涙は止まらない。

 胸は裂けそうに痛い。

 それでも、彼女はその光から目を逸らさなかった。


 自分が送ったのだ。

 自分の魔法で。

 自分の手で。

 愛する人を。

 花嫁として。

 そして、討ち手として。

 レイシアは、震える手を胸に当てた。


 そこには、まだアローの声が残っている気がした。

 愛してる、レイシア。

 その言葉だけが、焼け跡の戦場に、いつまでも消えずに残っていた。

読んでいただいて、ありがとうございます。

こんなお話でも面白いと思って下さったら、『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』にしてポイントを入れてもらえたら嬉しいです。

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