死闘の終わり
雷が、魔獣の内側で爆ぜた。
それは、空から落ちる雷ではない。
黒い肉の奥で暴れ、血管のような管を焼き切り、骨とも臓器ともつかぬものを砕き、魔獣の巨体そのものを内側から揺さぶる雷だった。
サンダーストーム。
しかも、二発目。
魔獣の体内へ直接叩き込まれた雷は、今度こそ致命傷に近い傷を与えたらしい。
魔獣が、声にならない悲鳴を上げた。
地面が震える。森がざわめく。霧の奥に潜んでいた小さな獣たちが、一斉に逃げ出す気配がした。
だが、アローも無事だった訳ではない。
「ぐ……あ……っ!」
彼の身体も、同じ雷に焼かれていた。
魔獣の肉に喰らいつくほど密着した状態で放ったのだ。雷が魔獣だけを選んで焼いてくれるはずもない。
ミノタウロスと化した肉体のあちこちから、白い煙が上がっている。硬い皮膚は焦げ、黒い血が滲み、角の先からも細い火花が散った。
膝が揺れる。
視界が暗くなる。
それでも、倒れる訳にはいかなかった。
魔獣もまた、よろめいている。
巨体のあちこちが破裂し、黒い体液を噴き出していた。無数にあった目のいくつかは潰れ、残った目も、焦点が合っていない。
勝てる。
そう思った。
いや、違う。
今しか勝てない。
アローは、焼けた肺に無理やり空気を吸い込んだ。
胸が痛い。喉が痛い。自分の身体の中で、魔獣から奪った何かが蠢いている気がする。
だが、そんなものに構っていられない。
ここで仕留め損ねれば、魔獣は再生する。そして、今度こそレイシアたちを喰らう。
それだけは、許されなかった。
アローは魔力を練った。
三発目。
普通の人間なら、一発で魔力を根こそぎ持っていかれる上級魔法。それを、既に二発撃っている。
それでも、今のアローには魔力があった。
喰らった魔獣の力。取り込んだ生命。人間であった頃には到底届かなかった、底知れない力。
その事実に、アローは一瞬だけ寒気を覚えた。
自分はもう、本当に人ではないのかもしれない。
だが、その恐怖すら飲み込んで、アローは魔力を練り続けた。
魔獣も、黙ってそれを見てはいなかった。
裂けた肉の隙間から、ずるり、と黒いものが伸びる。
一本ではない。二本でもない。
十本。二十本。いや、数える事さえ馬鹿らしいほどの触手が、魔獣の全身から噴き出した。
槍のように尖ったもの。鞭のようにしなるもの。 先端に牙を生やしたもの。
それらが一斉に、アローへ襲いかかる。
「邪魔だ!」
アローは剣を振るった。
一本を斬る。二本を弾く。三本目を角で受け止め、四本目を踏み潰す。
その戦い方は、もはや学院で学んだ剣術ではなかった。
身体ごとぶつかり、角で裂き、脚で潰し、剣で払う。獣じみた戦い方。
それでも、アローは必死に剣を振るった。
レイシアへ伸びる触手を斬る。倒れている騎士へ向かう触手を弾く。傷ついた生徒たちを狙う触手を、身体で受け止める。
魔獣は、アローと戦いながらも、なお周囲を狙っていた。
いや、違う。
分かっているのだ。
アローが誰を守ろうとしているのか。何を人質にすれば、動きが鈍るのか。
魔獣は、ただの獣ではない。
悪意がある。
アローは歯を食いしばった。
獣の牙が、ぎり、と嫌な音を立てる。
詠唱を続ける。
その瞬間、また一本の触手がレイシアへ向かった。
アローは咄嗟に踏み込み、剣を振った。
触手は斬れた。
だが、同時に。
きぃん、と。
澄んだ音が響いた。
折れた。
アローの愛剣が、半ばから折れていた。
「あ……」
刃の先が、地面に落ちる。
学院へ入る時に父から渡された剣だった。兄のように完璧でなくてもいい。お前はお前の戦い方を見つけろ。
そう言われた日の事を、なぜかはっきり思い出した。
だが、感傷に浸る時間などない。
剣が折れたその一瞬を、魔獣は見逃さなかった。
黒い触手が、アローの腕に巻きつく。脚に絡む。胴を締め上げ、首に巻きつき、角まで押さえ込む。
「ぐ、ああっ!」
ミノタウロスの膂力で引き千切ろうとしても、触手はびくともしない。
いや、一本一本なら引き千切れる。だが、多すぎる。
切っても切っても湧いてくる。払っても払っても絡みつく。
やがて、アローの身体が魔獣の方へ引き寄せられ始めた。
喰われる。
それが分かった。
魔獣はアローを殺すだけではない。取り込もうとしているのだ。
アローが自分を喰って力を得たように。今度は、魔獣がアローを喰い返そうとしている。
「ロー先輩!」
カイルの声が響いた。
悲鳴に近かった。
「ロー先輩、駄目です! 逃げて下さい!」
逃げられるなら、とっくに逃げている。
そう思ったが、声にはならなかった。
レイシアの声も聞こえた。
「アロー様!」
その声は、胸を裂くようだった。
子どもの頃から聞き慣れた、丁寧で、少し遠慮がちな声ではない。大切なものを失う寸前の、剥き出しの声だった。
アローは、一瞬だけ目を閉じた。
すまない。
そう思った。
だが、魔力を練る事は止めなかった。
このままサンダーストームを撃てば、魔獣は倒せる。
おそらく、倒せる。
ただし、自分もただでは済まない。
いや、ただでは済まないどころではない。魔獣と繋がりかけた状態で、雷を爆ぜさせるのだ。
手足が飛ぶか。身体が裂けるか。心臓が焼けるか。
分からない。
だが、止める理由にはならなかった。
レイシアが生きている。カイルが生きている。まだ息のある者たちがいる。
ならば、アローが止まる理由などない。
詠唱を続ける。
魔獣の触手が、さらに強く締め上げてきた。
肋骨が軋む。視界が赤く滲む。
その時だった。
一陣の風が、霧の森から吹き抜けた。
冷たい風だった。
次の瞬間、アローを縛っていた触手が、一斉に宙を舞った。
斬られたのだ。
それも、無造作に斬ったのではない。
アローの身体を傷つける事なく、触手だけを正確に切断している。
そんな真似が出来る者を、アローは一人しか知らなかった。
「……ギルベルト」
霧の向こうに、ギルベルトが立っていた。
いや、正確には、かつてのギルベルトとは少し違っていた。
身体の一部は異形に歪み、肌の色も人のものではない。片目は獣のようにぎらつき、背中には黒い突起のようなものが見える。
それでも、剣を構える姿だけは、間違いなくギルベルトだった。
学院で、何度もアローを負かした。剣ならば自分が上だと、当然のように笑っていた。腹立たしいほど強く、認めたくないほど鋭かった、あのギルベルトだった。
ギルベルトは、こちらを見て鼻を鳴らした。
「勘違いするなよ」
声は掠れていた。
だが、その不遜な口調だけは、少しも変わっていない。
「お前を倒すのは、俺だ。そんな化け物に喰われるんじゃねぇ」
「ギルベルト、お前……」
「黙れ」
ギルベルトは剣を振り、刃についた黒い体液を払った。
「礼なんざ言うな。気色悪い」
それだけ言うと、ギルベルトは背を向けた。
霧が揺れる。
カイルが何か叫ぼうとした。レイシアも息を呑んだ。
だが、誰も動けなかった。
ギルベルトは、そのまま霧の森へ消えていった。
まるで、最初から霧そのものだったかのように。
アローは追わなかった。
追えるはずがなかった。
今は、目の前の魔獣を倒す。
それだけだ。
「……借りにしておく」
届かないと分かっていて、アローは呟いた。
そして、折れた愛剣を手放した。
アローは収納魔法を開く。
空間に青白い亀裂が走る。
そこから取り出したのは、一振りの剣だった。
蒼雷剣アルゼイン。
青い雷を宿す魔剣。
かつてのアローには、扱いきれない剣だった。
強すぎる。危うすぎる。そう思っていた。
だが、今なら分かる。
危ういのは剣ではない。
自分だ。
「なら、せめて最後まで付き合え」
アローが握ると、アルゼインが応えた。
青白い雷が刃を走る。その雷は右手から肩へ、胸へ、全身へと流れ込んでくる。
焼けるように痛い。
だが、心地良くもあった。
自分がまだ雷を操れている。魔獣に呑まれきってはいない。
そう思えたからだ。
魔獣が再び触手を伸ばす。
アローは大地を蹴った。
ミノタウロスの脚力が、地面を砕く。巨体が雷を纏って突進する。
触手が襲いかかる。いくつかは身体に突き刺さった。いくつかは肉を裂いた。
だが、止まらない。
アローは魔獣の懐へ飛び込んだ。
そして、魔獣の奥にある、核のようなものを見た。
黒い肉の中で脈打つ、濁った光。
あれだ。
あれを潰せば終わる。
「これで……」
アローはアルゼインを突き立てた。
肉を裂く。骨のようなものを砕く。さらに奥へ。
魔獣が絶叫した。
周囲の空気が歪む。残った目が、一斉にアローを睨む。
そこには怒りがあった。憎悪があった。そして、恐怖もあった。
アローは目を逸らさなかった。
「終わりだ」
魔力を解き放つ。
「サンダーストーム!」
青い雷が、世界を塗り潰した。
アルゼインが魔法を喰らい、増幅する。アローが練った雷は、剣を通して何倍にも膨れ上がり、魔獣の内側で暴れ狂った。
空が青白く染まる。
音が消えた。
いや、音が大きすぎて、耳が何も拾えなくなった。
魔獣の巨体が内側から膨らむ。
次の瞬間、爆ぜた。
黒い肉片が飛び散る。焼けた体液が雨のように降る。無数の目が光を失い、地面に転がる。
そして同時に、アローの右腕も吹き飛んだ。
肩口から先が、なかった。
「――っ!」
痛みは、遅れてきた。
アローの身体が後方へ吹き飛ばされる。地面を転がり、岩にぶつかり、土を削り、ようやく止まった。
空が見えた。
霧の森の上に広がる、灰色の空。
そこに、青い雷の残滓が細く消えていく。
魔獣の気配は、もうなかった。
あれほど濃かった魔力も。背筋を凍らせる殺意も。 森そのものを支配していたような圧迫感も。
全て消えていた。
倒した。
ついに、倒したのだ。
だが、歓声は上がらなかった。
誰も叫ばない。誰も笑わない。誰も勝利を喜ばない。
ただ、静かだった。
不気味なほどに。
アローは、ゆっくりと身を起こした。
右腕はない。肩口から黒い血が流れ、焼け焦げた肉が煙を上げている。
だが、それ以上に、周囲の視線が痛かった。
生き残った騎士たち。学院の生徒たち。倒れた仲間を抱えた者たち。カイル。そして、レイシア。
皆が、アローを見ていた。
魔獣を倒した英雄としてではない。
角を生やし、獣の脚で立ち、片腕を失った異形として。
アローは、自分の身体を見下ろした。
ミノタウロスの身体。獣の筋肉。黒く硬くなった皮膚。人間とは違う呼吸。体内で蠢く、喰らった魔獣の力。
もう、戻れない。
その事が、理屈ではなく分かった。
アローは、ゆっくりとレイシアの方を向いた。
レイシアは立ち尽くしていた。
顔は涙で濡れている。それでも、逃げてはいなかった。
それだけで、十分だった。
「レイシア」
呼びかける声は、低く、獣じみていた。
自分の声ではないように聞こえた。
レイシアの肩が震える。
それでも彼女は答えた。
「……はい」
「無事か?」
「はい……」
「そうか」
アローは、笑ったつもりだった。
この顔で笑えているかは分からない。むしろ、余計に恐ろしい表情になっているかもしれない。
だが、レイシアが無事なら、それで良かった。
「良かった」
その一言を言えただけで、胸の奥が少し軽くなった。
カイルが、ふらふらと近づこうとする。
「ロー先輩……」
「来るな」
アローは静かに言った。
カイルの足が止まる。
その顔は泣きそうだった。
いや、もう泣いていたのかもしれない。
「でも、ロー先輩、腕が……」
「カイル」
アローは彼を見る。
「お前も、無事で良かった」
カイルの顔が歪んだ。
「そんな……そんな言い方、やめて下さいよ」
アローは返事をしなかった。
その代わり、レイシアを見る。
今、頼めるのは彼女だけだった。
レイシアの浄化魔法。
聖なる光で穢れを祓う、彼女の魔法。
魔獣と化したこの身体を終わらせるなら、それしかない。
剣で斬られるよりも。炎で焼かれるよりも。魔法で吹き飛ばされるよりも。
レイシアの浄化ならば、きっと自分は人として終われる。
そう思った。
「レイシア」
「はい」
「悪いが、頼みがある」
レイシアの唇が震えた。
彼女も、薄々分かっているのだろう。
アローが何を言おうとしているのか。
それでも、聞かない訳にはいかない。アローも、言わない訳にはいかない。
「俺を討ってくれ」
レイシアの目が見開かれた。
周囲で、誰かが息を呑む。
カイルが叫ぶ。
「ロー先輩!」
だが、アローは続けた。
「すまんが、もうヒトの姿に戻れそうにない」
静かな声だった。
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
恐怖がない訳ではない。死にたくない気持ちがない訳でもない。
だが、それ以上に怖いものがあった。
このまま自分が、自分でなくなる事。
レイシアを傷つける事。
カイルを喰らう事。
守ったはずの者たちを、次は自分の爪で引き裂く事。
それだけは、絶対に嫌だった。
アローは左手で、残った胸元を押さえる。
そこでは、まだ何かが蠢いていた。
魔獣を喰らった力。取り込んだ命。人の形を押し流そうとする、黒い衝動。
今はまだ、抑え込めている。
だが、いつまで保つかは分からない。
「レイシアの浄化魔法なら、俺を止められる」
「……」
「お前の魔法で終われるなら、俺は……たぶん、最後まで俺でいられる」
レイシアは答えなかった。
ただ立ち尽くしていた。
涙が頬を伝って落ちる。
その手は震えている。浄化魔法を使うために掲げる事も出来ず、ただ胸の前で握り締められている。
アローは、彼女を見つめた。
五歳下の婚約者。
守るべき相手。未来を約束された相手。自分が人であり続けたかった理由。
その彼女に、自分を討てと頼んでいる。
なんて酷い願いだろう。
自分勝手で、残酷で、卑怯だ。
だが、それでも頼むしかなかった。
「レイシア」
アローは、もう一度名前を呼んだ。
「頼む」
レイシアは、動けなかった。
ただ、涙を流しながら、アローを見つめていた。
焼け焦げた戦場に、誰の声もなかった。
魔獣を倒したはずの場所に、勝利の歓声はなかった。
ただ、片腕を失った異形の英雄と。
その英雄を討たねばならない少女だけが。
霧の森の前で、向かい合っていた。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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