終章
王都へ戻る道のりは、ひどく静かだった。
魔獣討伐隊は、勝利した。
それは間違いない。
第一次討伐隊を壊滅させ、ギルベルトたちを取り込み、霧の森そのものを呑み込まんとしていた魔獣は、討たれた。
後に残されたのは、大人の頭ほどもある巨大な魔石。
その大きさも、美しさも、かつてアローが討ち取った魔獣の魔石に勝るとも劣らぬものだった。
死者は、わずか数人。
魔獣の力を思えば、奇跡に近い少なさである。
怪我人も、帰還までに治癒魔法によってほとんどが癒やされていた。折れた骨も、裂けた肉も、焼けた皮膚も、見た目には分からぬほど戻っている。
だが、討伐隊の姿は、まるで敗残兵の群れだった。
誰も笑わない。誰も勝利を誇らない。誰も武勇を語らない。
ただ、黙って歩いていた。
馬車の車輪が軋む音。馬の蹄が石畳を叩く音。鎧の金具がかすかに揺れる音。
それだけが、王都へ戻る道に響いていた。
カイルは、何度も何度も後ろを振り返った。
そこに誰もいない事など、分かっている。
それでも、振り返らずにはいられなかった。
少し遅れて、いつものようにアローが歩いてくる気がした。
疲れた顔で。少し困ったように笑って。「カイル、前を向け」と言ってくれる気がした。
だが、いない。
アローはいない。
ロー先輩は、もういない。
カイルは唇を噛み、前を向いた。
前方の馬車には、レイシアが乗っていた。
その膝の上には、蒼雷剣アルゼインが置かれている。
魔獣を討った剣。
アローが最後に手にした剣。
彼が残した、ただ一つのもの。
レイシアは、その剣から片時も手を離さなかった。
王都に戻ると、討伐隊はすぐさま王城へ召し出された。
勝利の帰還である。
本来なら、民衆の歓声が上がってもおかしくない。王城の広間では、称賛と祝福が待っていてもおかしくない。
だが、広間に入った討伐隊を見て、誰もが言葉を失った。
彼らは勝者の顔をしていなかった。
先頭に立つレイシアは、まだ若い少女だった。
それなのに、王の前に進み出た彼女の姿は、どこか老いたようにも見えた。
涙はない。
泣き尽くしたのか。それとも、泣く事すら許していないのか。
レイシアは静かに膝をつき、報告を始めた。
「霧の森に潜んでいた魔獣は、討伐されました」
淡々とした声だった。
「魔獣は、ギルベルト様率いる第一次討伐隊を取り込み、その力を増しておりました。すでに通常の討伐が可能な相手ではなく、最後は……アロー様が、我が身と引き換えに」
一瞬だけ、声が止まった。
だが、すぐに続ける。
「魔獣の内側よりサンダーストームを放ち、蒼雷剣アルゼインの力で魔法を増幅させ、自爆同然に仕留められました」
広間が、重く沈んだ。
誰も口を挟まない。
レイシアは、さらに続ける。
「後に残ったのは、こちらの魔石と、王家より下賜された蒼雷剣アルゼインのみです」
従者が、巨大な魔石を運び出す。
それを見た者たちが、息を呑んだ。
美しい魔石だった。
青と黒と紫が複雑に絡み合い、内側に嵐を閉じ込めたような輝きを放っている。見る者が見れば、それがどれほど強大な魔獣のものであるか、一目で分かるだろう。
だが、レイシアはそれを見なかった。
彼女の手は、アルゼインに添えられたままだった。
「陛下」
レイシアは剣を差し出した。
「蒼雷剣アルゼインを、お返しいたします」
王は、しばしその剣を見つめた。
そして、静かに首を横に振った。
「いや。レイシア嬢が持っているが良い」
「ですが、これは王家よりアロー様へ下賜されたものです」
「であればこそだ」
王の声は、広間によく通った。
「その剣は、アローと共に魔獣を討った。ならば、アローを最も想う者の手元にあるべきであろう」
レイシアは、返事が出来なかった。
王は、広間の端に控えていた一人の青年へ視線を向ける。
ギルベルトの兄、ライオネルである。
「ライオネル。異存はあるか」
「ございません」
ライオネルは深く頭を下げた。
「アルゼインは、レイシア嬢が持つべきものと存じます」
その声は静かだった。
だが、どこかに押し殺した痛みがあった。
レイシアは何も言えず、ただ剣を抱き締めた。
その日、レイシアは箝口令を強いた訳ではなかった。
アローが魔獣化した事。ギルベルトもまた、魔獣に取り込まれながら異形となって現れた事。最後、アローがレイシアの浄化魔法で討たれた事。
それを誰にも言うなと、命じた訳ではない。
だが、誰一人として漏らす者はいなかった。
騎士も。学院の生徒も。治癒師も。カイルも。ライオネルも。
皆、口を閉ざした。
真実を語れば、アローは魔獣として扱われるかもしれない。
ギルベルトもまた、化け物と罵られるかもしれない。
それだけは、誰も望まなかった。
人々が知るべきは、ただ一つ。
アロー・イーブルナイツは、魔獣から王国を守り、命を落とした。
それだけで良かった。
王は、レイシアを見た。
「レイシア嬢。そなたにも褒美を取らせねばならぬ」
「私は何もしておりません」
レイシアは即座に答えた。
その声に、迷いはなかった。
「アロー様にさえ、報いていただければ」
王は、しばらく彼女を見つめていた。
そして、重々しく頷いた。
「良かろう」
王は玉座から身を乗り出すようにして言った。
「アローからは、前もって霊薬を所望すると聞いておる」
その言葉に、レイシアの瞳が揺れた。
「霊薬……?」
「ガルディオ」
王が呼ぶ。
イーブルナイツ伯爵、ガルディオが前へ出た。
アローの父。
その顔は、まるで石のようだった。だが、目元は赤い。
「霊薬を受け取るが良い」
「ははっ!」
ガルディオは膝をつき、王から小さな箱を受け取った。
王家に秘蔵される霊薬。
人の身体から不要なものを排除し、病や毒、呪いすら祓うと伝えられる秘宝。
レイシアは、呆然とその光景を見ていた。
膝をついたまま、動けなかった。
霊薬。
アロー様が求められた。
その意味を理解した瞬間、胸の奥が崩れた。
アローは、戻ろうとしていたのだ。
人に。
魔獣ではなく、人間に。
あの姿になってなお、どこかで戻れる道を探していたのだ。
もしかしたら。
もし、あの時。
もし、霊薬が手元にあれば。
もし、あと少しだけ待てていれば。
レイシアの中に、来るはずのなかった未来が浮かんだ。
アローが霊薬を飲む。
角が消える。牙が戻る。獣の身体が人の姿へ戻る。
傷だらけで、右腕を失っていても、それでも生きている。
レイシア、と呼んでくれる。
自分はその手を取る。
そんな未来。
決して来ない未来。
レイシアは、唇を噛んだ。
泣いてはならない。
ここは王の御前だ。
アロー様の名誉を報告する場だ。
だから、泣いてはならない。
そう思うのに、視界が滲んだ。
後に、その霊薬によって、アローの兄ユーロスの病は大きく回復する事になる。
長く病床にあり、家督を継ぐ事は難しいと見られていたユーロスは、少しずつ立てるようになり、やがてイーブルナイツ伯爵家を継ぐ事となった。
ユーロスは、弟が自分のために霊薬を望んでいたと知り、涙が止まらなかったという。
弟は、最後まで兄を救おうとしていた。
自分の命が危ういと知ってなお、兄の未来を思っていた。
この兄弟の顛末は、後に語られるアローの武勇譚の中でも、最も人気のある話となる。
病の兄を救うため、命を賭けて魔獣を討った弟。
王家の霊薬によって救われた兄。
美しい話だ。
人々は涙し、吟遊詩人は歌い、子どもたちは憧れた。
だが、レイシアやカイルにとって、それはただ美しい話ではなかった。
そこには、アローが人に戻ろうとした未来があった。
戻れたかもしれない未来があった。
そして、その未来はもう二度と来ないのだ。
サーダイン侯爵家は、秘密裡にギルベルト討伐隊を派遣した。
ギルベルトは生きている。
少なくとも、あの日、霧の森でアローを助けた時点では。
だが、彼はすでに人ではなかった。
侯爵家としては、放置出来る存在ではない。
誇り高き侯爵家の三弟。学院でも名を知られた剣士。それが魔獣に近い姿となって森を彷徨っている。
その事実を表に出す訳にはいかなかった。
だが、ギルベルトの行方は杳として知れなかった。
討伐隊が森を探しても、痕跡は霧に紛れたように消えている。斬られた魔物の死骸が幾つか見つかっただけで、本人の姿はなかった。
ギルベルトがどこへ行ったのか。
今も人の心を保っているのか。
それを知る者はいない。
やがて、レイシアは学院へ戻った。
だが、以前と同じではなかった。
彼女はまだ正式に結婚していない。
アローとは婚約者だっただけだ。
それでも学院での彼女の扱いは、英雄アローの未亡人同然だった。
誰も軽々しく声をかけない。誰も別の縁談を口にしない。彼女の席の隣に、誰かが座る事もない。
レイシア自身も、それを受け入れていた。
胸元には、小さな青い石を下げている。
アルゼインの鞘に飾られていた欠片を、加工したものだった。
蒼雷剣アルゼインは、彼女の部屋に置かれている。
毎朝、レイシアはその剣に向かって祈った。
学院の授業にも出る。魔法の訓練も続ける。浄化魔法も、さらに磨いた。
ただ、その光を見るたびに、知る者は思い出した。
霧の森で、アローを送った白い光を。
カイルは以前よりも、真面目に剣を振るようになった。
何度も失敗し、何度も転び、それでも続けた。
「ロー先輩なら、ここで諦めない」
そう呟く事が増えた。
誰かがそれを聞いても、茶化す者はいなかった。
アローの死は、多くの者の中に何かを残していた。
痛みとして。
誇りとして。
そして、後悔として。
季節が、少しだけ動いた。
王都では、アローの名が語られるようになった。
魔獣を討った若き英雄。
王国を救った貴族の次男。
婚約者を守り、仲間を守り、最後は蒼雷剣と共に散った男。
美しく整えられた物語が、人々の間に広がっていく。
それは嘘ではない。
だが、全てでもない。
アローが魔獣の肉を喰らい、恐怖に震え、それでも戦った事。
レイシアに自分を討てと頼んだ事。
最後に彼女の浄化魔法を、婚儀の祝福のように受け止めた事。
その真実は、ごく一部の者だけの胸にしまわれた。
そして。
霧の森では。
誰も訪れぬ奥地に、巨大な右腕が転がっていた。
ミノタウロスと化したアローの右腕。
蒼雷剣アルゼインによって増幅されたサンダーストームの爆発で、吹き飛ばされたものだった。
黒く焼け焦げ、赤銅色の皮膚を持つ、巨大な腕。
普通なら、ただ朽ちるだけの肉塊である。
だが、その腕は死んでいなかった。
ぴくり、と指が動いた。
次に、肉が波打つ。
骨が軋み、筋が縮み、焼けた皮膚の下で細胞がざわざわと蠢き始める。
魔獣の力。
喰らったものを取り込み、変化し、再生する力。
アローが忌み嫌い、恐れ、それでも最後まで使い続けた力。
その力が、残された腕の中で、静かに働いていた。
赤銅色の肌が、少しずつ色を失っていく。
黒く硬かった爪が剥がれ落ちる。
太い骨格が縮み、筋肉がほどけ、形を変える。
巨大な腕だったものは、もはや腕ではなくなっていた。
肉が集まり、骨を作り、血管を巡らせ、皮膚を編む。
魔獣の細胞が、ひとつひとつ配列を変えていく。
獣ではなく。
人へ。
角はない。牙もない。蹄もない。黒い爪もない。
やがて、森の土の上に、一人の少年が横たわっていた。
十歳ほどの少年だった。
白っぽい肌。細い手足。柔らかそうな髪。
その顔立ちは、幼い頃のアローそのものだった。
少年の睫毛が震える。
ゆっくりと、目が開いた。
ぼんやりとした視界に、霧の森の木々が映る。
冷たい土の感触。湿った草の匂い。遠くで鳴く鳥の声。
少年は、しばらく何も理解出来なかった。
自分が誰なのか。なぜここにいるのか。何が起きたのか。
だが、記憶は少しずつ戻ってきた。
魔獣。雷。アルゼイン。レイシアの光。
白い炎。
愛してる、という声。
少年の瞳が揺れた。
小さな唇が、震える。
「……レイシア」
その声は、幼かった。
あの低く獣じみた声ではない。学院で皆に慕われた青年の声でもない。
十歳ほどの少年の声だった。
だが、そこに宿る想いは、確かにアローのものだった。
少年アローは、地面に臥したまま、空を見上げた。
木々の隙間から、わずかな光が差し込んでいる。
レイシアの浄化の光とは違う。
けれど、どこか似ていた。
胸の奥が痛む。
失ったものを思い出す。
自分は生きている。
だが、アロー・イーブルナイツは死んだ。
王都では、きっとそうなっている。
レイシアは、自分を送ったのだ。
泣きながら。自分を愛していると言いながら。花嫁として。討ち手として。
その手で、アローを終わらせた。
それなのに、自分はここにいる。
小さな子どもの姿で。
人間の姿で。
完全に、人として。
少年アローは左手を見た。
小さい手だった。
爪は短い。皮膚は柔らかい。魔獣の衝動は、ない。
飢えもない。牙もない。角もない。
戻れた。
戻れてしまった。
その事実が、喜びより先に、胸を締めつけた。
なぜ、今なのだ。
なぜ、あの時ではなかったのだ。
なぜ、レイシアにあんな事をさせた後で、自分は戻ってしまったのだ。
「レイシア……」
もう一度、名前を呼ぶ。
答えはない。
霧の森は静かだった。
少年アローの目から、涙がこぼれた。
一粒。また一粒。
土の上に落ちる。
それは、魔獣の涙ではなかった。
英雄の涙でもなかった。
ただ、一人の少年の涙だった。
愛する少女を泣かせた男の涙。
死んだはずなのに生き残ってしまった者の涙。
そして、もう一度彼女に会いたいと願う、アローの涙だった。
霧の森に、風が吹いた。
白い霧が、少年の小さな身体を包む。
遠く王都では、英雄アローの物語が始まろうとしている。
だが、本当のアローの物語は。
まだ、終わっていなかった。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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