魔獣の力
霧の森の本命が、ついに姿を現した。
巨大な胴体。
歪に繋がった四肢。
骨の棘。
裂けた口。
無数の牙。
そして、全身から漂う、吐き気がするほど濃い魔獣の匂い。
前回、俺を喰らった魔獣に似ている。
だが、違う。
あれよりも、もっと混ざっている。
もっと汚い。
もっと、人間の匂いがする。
「来ちまったなぁ」
地面に倒れていたギルベルトが、笑いながら呟いた。
俺の意識が一瞬だけ魔獣に占められる。
その一瞬がまずかった。
ギルベルトは、胸を貫かれて倒れていたはずの身体を、猿のように丸めた。
次の瞬間、兎じみた脚で地面を蹴る。
「待て!」
俺が叫んだ時には、ギルベルトの姿は霧の中へ跳ね込んでいた。
追える。
今の俺なら追える。
だが、目の前には魔獣がいる。
誰も、ギルベルトどころではなかった。
霧の森の魔獣が、また咆哮した。
空気が震え、馬が暴れ、何人かの兵が膝をつく。
が、さすがに王城から派遣された兵たちは動きが早かった。
「隊列を組め!」
「前衛、盾を上げろ!」
「魔法士、詠唱!」
怒号が飛び、兵士たちが半円形に展開する。
サーダイン家の者たちは負傷したライオネルを下げ、イーブルナイツ家とミスルランド家の護衛もレイシアの周囲を固めた。
カイルたちも武器を構えたが、顔色は青い。
無理もない。
俺だって、逃げ出したい。
魔法士たちが杖を掲げる。
「ファイヤージャベリン!」
「ファイヤージャベリン!」
「ファイヤージャベリン!」
何本もの炎の槍が、一斉に放たれた。
霧を切り裂き、赤い光が魔獣へ向かう。
その瞬間、魔獣の前にいくつもの壁が展開された。
透明な魔力の壁。
半透明の盾。
属性を帯びた障壁。
炎の槍は、そのほとんどが魔法壁に阻まれ、爆ぜ、散った。
何本かは魔獣の身体に届いた。
だが、焦げ跡を作った程度だ。
大したダメージにはなっていない。
「魔法壁だと!?」
「魔獣が防御魔法を!?」
兵士たちがどよめく。
俺は、ぞっとした。
今の魔法壁。
魔獣の力ではない。
ヒトの魔法だ。
学院で習うものと同じ系統。
いや、もっと雑だが、間違いなく人間が扱う魔法の形だった。
思い当たるものは一つしかない。
「取り込んだのか……」
俺は呻いた。
ギルベルト隊。
壊滅した討伐隊。
その中にいた魔法士たちを、あの魔獣は取り込んだ。
肉体だけではない。
魔力の癖。
魔法の技術。
戦い方。
それらまで喰って、使っている。
「まずいぞ」
俺の声に、セリオ先生が反応した。
「何がです?」
「あれは魔獣の能力だけじゃない。喰った人間の魔法を使っている」
セリオ先生の表情が変わった。
それは、教師としての驚きではない。
戦場にいる者としての警戒だった。
「全員、防御を――」
先生が言い切るより早く、魔獣の身体のあちこちが光った。
口。
肩。
背中。
腕の付け根。
まるで複数の魔法士が同時に詠唱しているかのように、いくつもの魔法陣が展開される。
「来る!」
俺は叫んだ。
火。
土。
水。
風。
雷。
様々な属性のジャベリン系魔法が、一斉に放たれた。
異常な光景だった。
一体の魔獣が、何人分もの魔法を同時に撃っている。
「魔法壁!」
セリオ先生が叫ぶ。
俺も反射的に魔法壁を構築した。
周囲の魔法士たちも続く。
透明な壁が幾重にも重なる。
だが、間に合わない場所があった。
土の槍が兵士の盾を砕く。
風の槍が肩を貫く。
雷の槍が馬を撃ち抜き、火の槍が荷車を燃やす。
悲鳴。
怒号。
血の匂い。
焼けた肉の匂い。
全部が一気に押し寄せて来る。
俺は歯を食いしばった。
前回の魔獣より、はるかに厄介だ。
単純な力だけなら、前回の親魔獣の方が大きかったかもしれない。
だが、こいつは違う。
人間を喰い、人間の魔法を使う。
それも複数人分を同時に。
こんなもの、普通の兵では相手にならない。
「レイシア、下がれ!」
俺は振り返って叫んだ。
レイシアは護衛たちに囲まれていたが、こちらを見ていた。
逃げていない。
まただ。
この子は、また俺を見ている。
「アロー様!」
「森から離れろ! カイル、レイシアを頼む!」
「は、はい!」
「セリオ先生!」
「分かっています。レイシア様は私が守ります」
セリオ先生がレイシアの前に立つ。
カイルたちもその周囲に集まった。
本当は、全員まとめて逃がしたかった。
だが、魔獣の攻撃範囲が広過ぎる。
背を向けて逃げれば、まとめて撃ち抜かれる。
なら、俺が前に出るしかない。
魔獣の注意を、俺に向けさせる。
俺は剣を握り直した。
身体中がまだ痛い。
ギルベルトとの戦いで受けた傷は塞がったが、完全ではない。
それでも動く。
動ける。
俺は地面を蹴った。
魔獣へ向かって一直線に走る。
魔獣の身体から、触手のようなものが何本も伸びた。
肉と骨と蔓が混ざったような、気味の悪い触手。
俺を捕らえようと、四方から迫る。
だが、遅い。
ウルフの反応。
ホーンラビットの脚。
リザードの壁を蹴る感覚。
バットの音を拾う耳。
俺は触手の隙間を縫うように駆け抜けた。
一本が頬を掠める。
もう一本が足を絡めようとする。
俺は跳び、身を捻り、魔獣の懐へ入った。
「はあっ!」
剣を振るう。
刃が魔獣の肉を裂いた。
黒い血が噴き出す。
嫌な臭いが広がる。
だが、通った。
俺の剣は、魔獣の身体を傷つけられる。
よし。
いける。
そう思った瞬間だった。
魔獣の身体のあちこちに、再び魔法陣が浮かんだ。
俺に向けてではない。
角度が違う。
狙いは。
「レイシア!」
血の気が引いた。
魔獣は俺ではなく、後方を狙っていた。
レイシアたちがいる場所。
俺は即座に反転しようとした。
だが、魔獣の触手が足元に絡む。
「邪魔だ!」
切り払う。
一瞬。
ほんの一瞬遅れた。
火、水、風、土、雷。
幾本ものジャベリンが、レイシアへ向かって放たれた。
「レイシア!!」
轟音。
土煙。
炎。
雷光。
風が木々を裂き、水の槍が地面を穿つ。
俺は限界まで脚を動かした。
景色が流れる。
音が遠のく。
息も出来ない。
それでも走った。
着弾地点に飛び込む。
「レイシア!」
そこに、レイシアはいた。
無傷だった。
呆然と立ち尽くし、震えている。
その前に、人が倒れていた。
カイル。
ダン。
ミルド。
エナ。
リリィ。
そして、セリオ先生。
皆が、レイシアを守るように倒れていた。
ダンの盾は砕けている。
カイルの肩から血が流れている。
エナは意識を失い、リリィは腕を押さえて呻いている。
ミルドの槍は折れ、身体が土に埋もれていた。
それでも、皆、生きている。
かろうじて。
だが、セリオ先生は違った。
先生はレイシアのすぐ前に倒れていた。
身体の半分が焼け、脇腹を雷の槍が貫いた跡がある。
土の槍も刺さっていた。
どう見ても、致命傷だった。
「先生!」
俺は膝をついた。
「回復魔法を使います!」
手をかざし、魔力を集める。
レイシアも震える手で杖を握った。
「私も……!」
「無駄だ」
セリオ先生が、掠れた声で言った。
「私はもう、保たない」
「何を言って――」
「分かるでしょう、アロー君」
分かる。
分かってしまう。
俺の耳は、先生の心音を拾っていた。
弱い。
あまりにも弱い。
魔力の流れも壊れている。
ジャベリンの直撃。
それも複数。
これはもう、俺やレイシアの回復魔法でどうにかなる傷ではない。
「先生……」
レイシアの声が震える。
セリオ先生は、血に濡れた顔で、かすかに笑った。
「レイシア様……ご無事で、何よりです」
「嫌です。そんな、先生……」
「泣かないでください。私は、ミスルランド家の寄り子として、当然の事をしただけです」
その声は静かだった。
いつもの授業の時のように。
俺は奥歯を噛み締めた。
血の味がした。
セリオ先生の目が、俺へ向く。
「アロー君」
「はい」
「あなたが……ヒトだろうと、魔獣だろうと……」
先生は、苦しそうに息を吸った。
それでも、言葉を続けた。
「関係ない」
俺は息を呑む。
「レイシア様を……守ってくれ……!」
その言葉を最後に、セリオ先生の身体から力が抜けた。
心音が消える。
呼吸が止まる。
セリオ・ラングフォード先生は、そこで事切れた。
時間が止まったように感じた。
レイシアが、声にならない声を漏らす。
カイルたちが呻く。
兵士たちが魔獣を抑えようと叫んでいる。
魔獣が、また咆哮している。
全部、聞こえている。
なのに、何も聞こえなかった。
俺の中で、何かが切れた。
ぷつりと。
とても小さな音で。
だが、それは確かに切れた。
俺は立ち上がった。
レイシアが、涙に濡れた目で俺を見る。
「アロー様……?」
「すまない、レイシア」
俺は収納魔法を開いた。
ずっと捨てられなかったもの。
食べてはいけないと分かっていたもの。
人間に戻れなくなるかもしれないと恐れていたもの。
黄金鎧のミノタウロスの肉。
赤黒い肉が、俺の手に現れる。
レイシアの目が見開かれた。
「見ないでくれ」
そう言いながら、自分でも分かっていた。
彼女は見る。
目を逸らさない。
そういう子だ。
「俺は、ヒトの姿を捨てる」
俺はミノタウロスの肉に齧り付いた。
その瞬間、全身が爆ぜたような痛みに包まれた。
「ぐ、ああああああああっ!」
骨が鳴る。
筋肉が膨れる。
皮膚が熱を帯びる。
以前は必死に抑え込んだ変化。
今度は、抑えない。
受け入れる。
身体が膨張した。
服が裂ける。
腕が太くなる。
肩が盛り上がる。
胸板が分厚くなり、背中が広がる。
肌の色が赤黒く染まっていく。
人間のものではない筋肉が、全身を覆う。
こめかみに激痛が走った。
内側から、何かが皮膚を突き破る。
鋭い角。
左右のこめかみから、黒く硬い角が生え伸びていく。
レイシアの声が聞こえた気がした。
悲鳴だったのか。
俺の名を呼んだのか。
分からない。
ただ、俺は顔だけは必死に守った。
顔まで変わるな。
目まで変わるな。
俺はアローだ。
たとえ身体が魔獣になっても、顔だけは。
レイシアが俺だと分かるものだけは。
残れ。
やがて、変化が止まった。
俺は荒い息を吐いた。
腕は丸太のように太い。
脚は大地を踏み砕けそうなほど強い。
全身を赤黒い筋肉が覆い、こめかみからは鋭い角が伸びている。
顔だけは、かろうじて俺のままだった。
レイシアが、言葉を失って俺を見ている。
怖いだろう。
当然だ。
俺だって怖い。
だが、もう止まれない。
俺は魔獣へ向き直った。
セリオ先生の血の匂い。
レイシアの涙の匂い。
負傷した後輩たちの匂い。
それらが、俺の中の何かを燃やした。
「うおおおおおおおおおおっ!!」
俺は雄叫びを上げた。
人の声ではなかったかもしれない。
それでも構わない。
地面を蹴る。
大地が砕ける。
赤黒いミノタウロスの身体となった俺は、剣を握り締めたまま、魔獣へ突っ込んだ。
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