サーダインの剣
「喰われたんだな、ギルベルト」
俺は、霧の森の入り口に立つギルベルトを見据えたまま言った。
周囲の空気が、さらに冷たくなる。
王城兵たちが武器に手をかけ、サーダイン家の者たちは困惑し、レイシアは息を呑んでいた。
ギルベルトは、汚れた外套の奥で肩を揺らした。
「ああ、その通りだ」
あまりにもあっさりと認めた。
それが逆に、不気味だった。
「喰われた。飲み込まれた。砕かれた。混ぜられた。いやあ、実に酷い目に遭ったよ」
声はギルベルトのものだ。
だが、喉の奥に獣の唸りが混じっている。
人間の言葉を話しているのに、人間の声には聞こえない。
俺は自分の拳を握り締めた。
分かる。
その声の中にある違和感が、俺には分かってしまう。
自分の中にもあるものだからだ。
ギルベルトはゆっくりと両手を広げた。
「しかし、見ろ。俺は戻って来た。俺は、ギルベルト・サーダインとして、ここにいる」
そう言って、彼は纏っていた外套を地面に落とした。
瞬間、周囲の誰もが言葉を失った。
そこに現れたのは、人の姿ではなかった。
全身が獣毛に覆われている。
猿のような細長い腕。
背中は丸まり、肩甲骨が異様に盛り上がっている。
だが、足の形は兎に似ていた。
膝から下が不自然に長く、後ろへ跳ねるためだけに作られたような脚。
身体のあちこちには、白く乾いた骨で出来た装甲が貼り付いている。
胸。
肩。
肘。
脛。
まるで、倒した魔獣の骨をそのまま肉体に埋め込んだようだった。
顔も獣毛に覆われていた。
裂けた口からは、鋭い牙が覗いている。
鼻は潰れ、目はぎらぎらと光っている。
それなのに。
不思議と、ギルベルトだと分かった。
顔立ちの名残なのか。
声なのか。
立ち方なのか。
あるいは、あの人を見下すような目つきなのか。
姿は変わり果てているのに、そこにいるのは確かにギルベルトだった。
「お、お前……」
サーダイン家の次兄、ライオネルが震える声で呟く。
「化け物に……!?」
その一言に、ギルベルトの口が大きく裂けた。
笑ったのだ。
「兄上、化け物とは酷いなぁ」
「黙れ!」
ライオネルが叫んだ。
その顔には、喜びも困惑も消えていた。
残っているのは、怒り。
そして、恐怖。
弟が生きていた。
だが、人ではなくなっていた。
その現実を受け止めるには、あまりにも時間が足りなかったのだろう。
「そんな姿で生き恥をさらすぐらいなら、俺が引導を渡してやる!!」
ライオネルが剣を抜いた。
銀色の刃が、鈍い曇天の光を受けて光る。
その構えを見て、俺は少し目を細めた。
隙がない。
いや、俺程度が隙がないと言うのも妙な話だが、それでも分かる。
構えた瞬間、空気が変わった。
剣を持っているのではない。
剣と一体になっている。
ギルベルトの剣も一流だ。
学院では間違いなく上位。
俺も、魔獣化する前の純粋な剣術なら、一度も勝てなかった。
だが、ライオネルは違う。
超一流。
そう表現するしかない。
「ひひ」
ギルベルトが喉を鳴らした。
「兄上には、一度も勝てた事がなかったなぁ」
その声には、懐かしむような響きすらあった。
だが、それは兄弟の思い出などという穏やかなものではない。
もっとねじれたもの。
劣等感。
執着。
怨み。
それらが、獣の唸りと一緒に混ざっている。
ギルベルトは右手を横に出した。
「だから、ちょうどいい」
収納魔法の光が生まれ、そこから一本の剣が現れる。
彼が以前から使っていた剣だろう。
ただし、今の長い腕に合わせると、少し短く見える。
いや、それでもギルベルトは嬉しそうに剣を握った。
「今なら、勝てる気がする」
「ほざけ」
ライオネルの声は冷たかった。
サーダイン家の者たちが慌てて止めようとしたが、誰も前に出られない。
王城兵たちも迷っている。
これは兄弟の問題か。
それとも、魔獣討伐か。
判断が遅れる。
俺は横にいるレイシアに目を向けた。
「下がれ」
「アロー様」
「いいから下がるんだ。セリオ先生、お願いします」
「承知しました」
セリオ先生がレイシアの前に出る。
レイシアは何か言いたげだったが、俺の顔を見て、唇を噛んだ。
そして一歩下がる。
カイルたちにも手で合図した。
「お前たちもだ。絶対に前に出るな」
「でも――」
「命令だ」
カイルは反射的に頷いた。
その瞬間だった。
ギルベルトが動いた。
速い。
人間の踏み込みではない。
兎のような脚が地面を蹴り、一気に距離を潰す。
だが、剣そのものは人間の技だった。
上段からの斬り下ろし。
速度も重さもある。
普通の相手なら、その一撃で終わっていただろう。
しかし、ライオネルはあっさりと受け流した。
剣と剣が触れた瞬間、ギルベルトの力が横に流される。
重い踏み込みが空を切り、ギルベルトの身体がわずかに崩れた。
そこへ、ライオネルの剣が走る。
速い。
ギルベルトの脇腹が裂け、血が飛んだ。
「ぐっ!」
「剣が荒い」
ライオネルは低く言った。
「力に酔っているだけだ」
「ひ、ひひ……!」
ギルベルトが笑う。
傷口から血が流れる。
だが、次の瞬間、肉が蠢いた。
裂けた脇腹が、見る間に塞がっていく。
周囲から悲鳴に近い声が上がった。
俺は歯を食いしばる。
再生。
やはり持っていたか。
俺にも多少の治癒力はある。
普通の人間よりは傷の治りが早い。
だが、あれほどではない。
ギルベルトの身体は、完全に魔獣寄りに傾いている。
「兄上」
ギルベルトが剣を構え直す。
「そんなぬるい剣では、俺を倒せんぞ!」
「ぬかせ!」
ライオネルが一歩踏み込んだ。
「お前こそ何も出来んではないか!」
言葉通りだった。
剣では、ライオネルが上。
圧倒的に上だ。
ギルベルトの打ち込みは激しい。
腕の長さも、脚のばねも、筋力も人間を越えている。
だが、剣術としては粗い。
速く、重いだけ。
ライオネルはその全てをかわし、受け流し、いなしていく。
そして隙が生まれるたびに、鋭い反撃を叩き込む。
肩が裂ける。
腕が切られる。
胸に深い傷が走る。
太腿から血が吹く。
たちまち、ギルベルトの身体は血に染まった。
それでも、倒れない。
傷が塞がっていく。
血が止まる。
肉が盛り上がり、切られた部分を埋める。
「化け物め……!」
ライオネルが呻く。
「さっきから、そう言うなよ」
ギルベルトは笑っていた。
楽しそうに。
心底、楽しそうに。
「俺はギルベルトだ。兄上の弟だ。少し、強くなっただけだ」
「それを化け物と言うのだ!」
ライオネルの剣が、ギルベルトの顔を掠めた。
獣毛が舞い、頬が裂ける。
だが、その傷もすぐに塞がる。
剣では勝てる。
だが、倒せない。
その現実が、少しずつライオネルを追い詰めていた。
俺には分かった。
ライオネルの剣は正しい。
速い。
鋭い。
美しい。
人間として磨き抜かれた技だ。
だが、相手はもう、人間の理屈だけでは止まらない。
その時、ギルベルトの動きが変わった。
剣を構えたまま、ふっと力が抜けた。
人間の剣士としての姿勢が崩れる。
背中が丸まる。
腕が下がる。
膝が深く折れる。
まるで、獣が地面に近づくように。
俺は反射的に叫んだ。
「下がれ、ライオネル殿!」
だが、遅かった。
ギルベルトが跳んだ。
剣術ではない。
魔獣の動き。
兎の脚で斜めに跳ね、猿の腕で地面を叩き、骨の装甲を盾にしながら、予測不能な角度でライオネルの懐に潜り込む。
ライオネルの剣が反応した。
さすがだった。
完全に意表を突かれてなお、剣は動いていた。
だが、相手の軌道が人間ではない。
剣士なら来ない角度。
人間なら折れる姿勢。
骨格そのものが違う動き。
ライオネルの胸元で、血飛沫が上がった。
「ぐっ……!」
ギルベルトの爪が、ライオネルの脇腹を裂いた。
さらに長い腕が首を狙う。
ライオネルはかろうじて剣で受けたが、体勢が崩れた。
そこへ、ギルベルトの蹴り。
兎のような脚から放たれた一撃が、ライオネルの胴を打つ。
鈍い音がした。
ライオネルの身体が吹き飛び、地面を転がる。
「ライオネル様!」
サーダイン家の者たちが叫ぶ。
ライオネルは起き上がろうとした。
だが、膝が崩れた。
脇腹から血が流れている。
肋骨も折れているだろう。
それでも剣を手放していない。
見事だと思った。
だが、もう戦える状態ではない。
ギルベルトは、血に濡れた爪を見た。
それから、裂けた口を大きく開けて笑った。
「素晴らしい!」
その声は、歓喜に満ちていた。
「これが、魔獣の力!!」
ギルベルトは自分の身体を抱くように腕を広げた。
血まみれの獣毛。
骨の装甲。
異形の脚。
裂けた口。
その全てを誇るように。
「剣で勝てない? だから何だ。人間の剣術? 家の誇り? そんなもの、どうでもいい! この身体なら、勝てる! 兄上にも! お前にもだ、アロー!」
ギルベルトの目が俺を向く。
その目に映っているのは、勝利への酔いだった。
自分が何になったのか。
何を失ったのか。
それを考えず、ただ得た力に酔っている。
俺は、その姿を見て吐き気を覚えた。
嫌悪。
怒り。
そして、恐怖。
あれは、俺だ。
俺も一歩間違えば、ああなっていた。
いや、今もなりかけている。
魔獣の力を得て、強くなったと喜び、もっと喰らいたいと思い、変化を抑えながらも捨てられない。
ギルベルトを嫌悪するという事は、俺自身の中にある同じものを嫌悪するという事だった。
「ギルベルト!」
ライオネルが血を吐きながら叫んだ。
「戻れ……! まだ……!」
「戻る?」
ギルベルトは首を傾げた。
獣のような仕草だった。
「なぜ戻る必要があるんです、兄上」
「お前は……サーダイン家の……」
「だから何だ!」
ギルベルトが吠えた。
森の霧が震える。
「俺はいつも兄上の下だった! 剣でも、評価でも、何もかも! だが、今は違う! 今の俺なら、兄上を越えられる! アローも越えられる! 俺を見下した連中を、全員踏み潰せる!」
ライオネルの顔が歪んだ。
怒りではない。
悲しみだった。
それを見ても、ギルベルトは止まらない。
彼は剣を逆手に持ち替え、ライオネルへ近づいた。
「兄上」
声が急に優しくなる。
それが余計におぞましかった。
「最後に、俺の勝ちを認めてくれますか?」
「ギル、ベルト……」
「認めてくれないなら、まあ、死んでもらうしかないな」
ギルベルトが剣を振り上げた。
サーダイン家の者たちが動こうとする。
だが間に合わない。
王城兵も、学院の者たちも、誰も間に合わない。
俺は、既に走っていた。
足が地面を蹴る。
ホーンラビットの脚力。
ウルフの速度。
オーガの膂力。
それらを、人間の姿の中に押し込めて。
瞬きの間に、俺はライオネルの前へ飛び込んだ。
ギルベルトの剣が振り下ろされる。
俺は愛剣を抜き、正面から受け止めた。
金属音が響いた。
重い。
以前のギルベルトとは比べ物にならない。
だが、受け止められないほどではない。
俺の足元の土が沈み、周囲に砂が散る。
ギルベルトの目が、楽しげに細められた。
「来たか、アロー」
「ああ」
俺は剣を押し返した。
ギルベルトの剣がわずかに上がる。
その隙に、背後のライオネルへ短く言った。
「下がってください」
「お前……」
「話は後です」
俺はギルベルトから目を離さない。
外套を捨てた異形の同級生。
魔獣に喰われ、魔獣の力に酔った男。
俺のなり得た姿。
俺が、絶対になりたくない姿。
「そこまでだ」
俺は剣を構え直した。
「ここからは、俺が相手しよう」
ギルベルトが笑う。
裂けた口から、鋭い牙が覗く。
「ああ。そうでなくちゃな」
霧の森の入り口で、二人の化け物が向かい合った。
いや。
俺は化け物ではない。
そう言い聞かせるように、俺は奥歯を噛み締めた。
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