異世界から来たガイア 70
第70章
ガイア
私はタルクンから渡された粘土の欠片を拳の中に握りしめている。幸いヴェルティワザ王は手を見せろとは言ってこなかった。この欠片を入れるポケットなどないのだから。
もし見つかっていたら、二人とも殺されていたに違いない。
兵士たちに護衛され、イラールと元の服を置いてきた小部屋へと戻る。
いや、もしかすると私は殺されなかったかもしれない。何だかんだで、私は彼の民衆からの評判を良くすることに貢献しているのだから。
グウェンダライル、確かそんな名前だったはずだ。彼女が私の侍女と一緒に待っていた。「下がりなさい、お方様がお着替えになります」
兵士たちが部屋を出ていく。参ったな、二人に見られずにどうやって着替えればいいのだろう。何が書かれているのか見当もつかないし、そもそも彼らの文字すら読めないのだ、弱ったな。
「それで、何があったの? 王が側室を自分のもとへ呼びつけるなんて普通じゃないわ」
「帝国からの使節団が来ていたの」
イラールが目を丸くする。
グウェンダライルが微笑む。「あなたを戦利品として見せびらかしたのね」
「その通りよ」
「男のやりそうなことね」
「そうね」マリクも戴冠の炎を隣に従えて同じことをするのだろうか。視線が床に落ち、ため息が漏れる。私ではないのだ。そこに立つのは特別な女性で、私よりずっと優れた人に違いない。分かっていても、そう考えると悲しさと嫉妬が込み上げてくる。
「どうしたの? 何かあったの?」
「ううん、何でもないわ」
「急に暗い顔になったわよ」
「気にしないで、グウェン。ちょっと考え事をしていただけだから」
「グウェン?」
「ええ、ごめんね。私のいた場所ではよくある名前なの。あなたの名前はずっと長いでしょう? 名前を短くした略称なの」
「略称くらい知っているわ」彼女は胸の前で腕を組む。
「ごめん、気を悪くさせるつもりはなかったの」握りしめた拳を見せないよう、手振りを交えそうになる衝動を抑える。
「気を悪くしたわけじゃないわ、ただ珍しいと思っただけ。普通は称号や家系を付けて名前を長くするものだから」
「ええ、でもそれは人前での話でしょう?」
「そうね。だから人前ではグウェンって呼ばないで。問題になるかもしれないから」
「私がそう呼んだら、あなたのお父さんまで振り返っちゃうから?」
「その通りよ」
私のくだらない冗談に、二人で笑い合う。
「冗談はさておき、二人きりのときならそう呼んでいいわ」
イラールのことを調度品の一部としか思っていないのだろうか?「分かったわ。自由だけど、今は三人いるけれど」
「訂正するわ。重要な男や、私達に敵対する可能性がある人間がいないとき、ね」
「分かったわ、グウェン」それでも油断は禁物だ。なんだかんだ言っても、彼女が敵であることに変わりはないのだから。
「それはそうと、使節団の話を聞かせてくれていないわ」
「ええ、そうだったわね」
今日あったことを簡単に話す。拒否された和平案のことも伝えたが、タルクンが私に敬意を表した部分だけは伏せておいた。
グウェンとイラールは、私の話に真剣に耳を傾けていた。
「探して、これが今日私が敵を煽るための狩猟の戦利品にされた顛末よ」
グウェンは人差し指で鼻先を触り、何かを考えるように撫でた。「彼のほうは、あなたのことを相当大切に思っているようね」
「どういうこと?」
「マリク王子よ。使節を派兵した目的の一部は、あなたがここにいて無事に生きていることを確かめるためだったのよ」
私に何かを渡すためにもね。「そう思う?」
「間違いないわ。まさかあなたを見てもそうは思えないけれど。そんなに貧乳なのに、一番権力のある男の一人を虜にしちゃうなんてね」
「あなたたち、ちょっと胸の大きさにこだわりすぎじゃない?」
「『胸のない女は星のない夜空と同じ』ってことわざもあるくらいよ」
「慰めになるわね」
「ちょっとあなたが羨ましいわ」
「そのサイズを見る限り」空いている方の手で彼女の胸を指さす。「とてもそうは見えないけれど」
彼女は笑う。よし、私たちは友達になりつつあるようだ。「そうじゃなくて、あなたを大切にして、ものすごく心配してくれる男がいるってことよ。本当にあなたを深く愛しているのね。捕虜交換の中には、絶対にあなたも含まれていたはずだわ」
「私のことなんて話題にも出なかったわ」
「だって、もしあなたを捕虜交換に含める可能性がほんの少しでもあったら、王は即座に交渉を成立させていたでしょうからね」
「私って、そんなに価値があるの?」
「私の見解でよければ、ええ。あなたは両陣営にとって非常に利用価値が高いわ」
ため息をつく。
「ただガイア、あなたが何か変なことを企んでいないといいけれど」グウェンは探るような目つきで私を凝視し、まるで魂まで見透かそうとしてくる。そんな魔法がないことを祈るばかりだ。
「そんなことできるわけないでしょう、敵地で一人きりだし、戦争の状況だってさっぱり分からないのに」発覚するわけにはいかない。「あなたのほうが絶対に詳しいはずよ」
「どうかしら。父はいつも政治の話ばかりで、軍事のことはほとんど話さないもの。女の仕事ではないってね」
「ある意味、政治だってそうじゃない」
「私たちの立場では、そうも言っていられないわ。そのくらい、もう分かっているでしょう? 私たちの役割は、跡継ぎを次々と産むだけの牝牛になるか、優秀な政治家や相談役になるか、そのどちらか。さもなければ……」彼女は人差し指を首に沿わせ、喉を切る仕草をした。
「誰も安全じゃない」その通りだ。エンラーは能力があるからこそ生き残っており、ゲッスアはそうではなかった。
「分かっているようね」
「分かろうとはしてるわ。少なくとも、気をつけなきゃいけないことくらいは分かってる」
「嘘っぽく聞こえるかもしれないし、そう思うのも分かるわ。でも、私のことは信用していいのよ」
「そっちからその話を出したんだから、どうして信用できるのか説明してくれる?」どのみち、私が何をしているかを彼女に明かすつもりはない。
「私には、あなたを傷つける理由がないからよ。あなたがハーレムにいるのは象徴としてであって、跡継ぎを産ませるためではないことも知っているわ。それに、あなたがいることで私や父の威信が損なわれるわけ文字でもない。むしろ、近くにいたほうがお互いに利益があるかもしれないわ」
「それって、どういう……」
「同盟を組みたいのよ。特に、これから先のためにね。あなたを傷つけたいと思っている女は、ほかにもいるかもしれないわ。あなたは自由に外へ出られるから、嫉妬されているのよ」
「いつも護衛付きだけどね」
「それは普通のことよ。慣れなさい、私たちの安全のためなんだから」
「剣まで持たせてくれれば、王様も護衛の人数を減らせるのに」
「細かいことはいいの」彼女は話を切り上げた。「とにかく、私にはあなたの敵になる理由がないし、あなたにも私の敵になる理由はないでしょう? 違うかしら?」
私が企んでいることを除けば。「ううん」私は首を横に振った。「あなたを恨む理由なんてないわ。まだ知り合ったばかりけれど、感じのいい人だと思ったし、それにあなたのお父様は私にちゃんと礼儀を尽くしてくれたわ。倫理観もお持ちのようだし」
「それなら売るほど持っているわ、信じて」
「どちらにしても、ここに味方がいるって分かっただけで嬉しいわ」
「同盟者ね。友達かどうかは、これから分かることよ」
「分かったわ、グウェン」私はため息をついた。
「同盟を固めましょう」彼女は手を差し出し、握るよう促してきた。
くそっ。
タルクンから渡された粘土片を握っているほうの手を差し出さなければならない。「握手するの?」
「最低限、それくらいはするでしょう」
わざと私を引っ掛けようとしているのだろうか? 私は両手を背中に回し、粘土片を反対の手へ移した。「分かったわ」
私たちは手を握り合った。
力強い握り方だった。それでいて、手は温かく柔らかい。手仕事などしたことがないのだろうし、弓を引いたことも絶対にないはずだ。
彼女が私に近づいてくる。視線はずっと私の目に向けられたままだ。
何をするつもりだろう?
彼女は私を自分の方へ引き寄せた。
グウェンは自分の唇を私の唇に重ねた。
一体何をしているの?
彼女は唇を離し、私の手を放した。
「な、何なの?」
「何って、女同士の同盟を固めるためよ。伝統では、キスもすることになっているの」
「あ……」
「知らなかったの?」
「どう思う?」
「分かったわ、知らなかったのね。あなたがなかなか近づいてこないから疑問に思い始めて、それで引き寄せたのよ」
「先に説明してくれてもよかったじゃない」
「当たり前だと思っていたの、ごめんね」
「謝ってくれたから許すわ」
「まさか、マリク王子にもこんな風にキスしていたんじゃないでしょうね? そうじゃなかったら、本当にどうして彼があなたに惹かれたのか分からないわ」
「あなたより、彼にキスするほうがずっといいに決まっているわ」
グウェンが眉をひそめた。しまった、今のセリフは妙に聞こえたかもしれない。裏切る可能性があると思われたかも。
「つまり、私、女の子が好きなんじゃないし、女の子とキスしたのも初めてだったの」中学三年生の時に友達と一度接触したことはあるけれど、あれはぶつかった拍子だったし。
「分かっているわよ。それに、噂通り彼が美男子なら、私もあなたに同意するわ。あなたより彼とキスしたいわね」彼女はウインクした。
「私、嫉妬するかもしれないわよ」
「してもいいけれど、する必要はないわ。今のあなたはヴェルティワザ王の側室。あなたは彼のもの、ほかの男のものじゃないの。そして、それは私も同じよ」
「そうね」書籍として、彼がこれからも私に触れたがらないことを願う。
「それに、あなたのキスが特別下手ってわけでもなかったし、気を悪くしないでね」
「最高のキスは、特別な時のために取ってあるの。あなたは?」
グウェンは腰に手を当てた。「あら! じゃあ、今のはあなたにとって特別な時じゃなかったってこと?」子供みたいに頬を膨らませて拗ねてみせる。
「そこまでじゃなかったかな」私は彼女に微笑みかける。
「まあ、次はもう少しうまくやってくれることを期待するわ」
「そんなに私とキスしたいの?」
「ううん。ただ、王様以外の誰かとキスしなきゃいけないなら、せめて素敵な時間にしたいだけよ」
「それもそうね」彼女が王を大切に思っていることが、なんとなく伝わってくる。
「同盟を結んだところで、ひとつお願いがあるの」
「何かしら?」やばいお願いじゃなければいいけれど。
「王からの誘いは、これからもずっと断ってほしいの」
「安心して。あの人は私に興味なんてないわ、そういう意味ではね」
「今は違っても、あなたと関係を持つことが自分にとって好都合だと考えるようになるかもしれないわ。だから拒絶してほしいの」そう言う彼女の目は潤んでいて、本当に彼に愛着があるのだと分かる。
「分かったわ、そうする。私にとっては何も問題ないし」
「ありがとう」
「彼のことを愛しているの?」
グウェンはため息をつく。「尊敬しているわ。愛しているかは分からない、他の男の人を選んだり関心を向けたりする機会がなかったから、比べようがないの。探して、父と並んで私が最も尊敬している人物だし、大切に思っているわ」
「でも愛しているかは分からない、と」興味が湧いてくる。尊敬はしているけれど愛してはいない、それなのにとても気にかけていて、私と彼が寝るのを嫌がっている。
「分からないの、説明するのが難しいわ。五か国語を話せるし国際政治も理解できるけれど、自分の感情のこととなると完全に混乱してしまうの」
そう語る姿は王女というよりごく普通の女の子のようだ。「もしかして、経験がないからかしら?」思い切って言ってみる。
「そうね。男の人と違って、私たち女性はそういう経験を得るのがずっと大変だから」
「大変というより、男たちによれば女は経験を持つべきじゃないのよ。いざ経験があると、たいてい『多すぎる』って扱われる」この世界ならなおさらだ。
「そうね。いずれにせよ、私たちの同盟の第一歩として、名目だけの側室でいてほしいの。実質的にはそうならないで」
実質的に、この世界に連れて来られてからそれしかしていない。「約束は守るわ」
「よかったわ。あなたには何か要望はある?」
あからさまなことは言えないし、墓穴を掘るわけにもいかない。「今のところは分からないわ」参ったな、何も思い浮かばない。
「まあ、そのうち思いつくでしょう。ひとまず、あなたの部屋を見張らせるようにするわ」
「どうして?」
「嫉妬した誰かが、あなたに嫌がらせでもしたら困るもの」
「でも、今のところ何も起きていないけれど」
「だからこそよ。リスクは避けたほうがいいわ」
「分かったわ」
「それじゃあ行くわね、あなたと知り合えてよかったわ、ガイア」彼女は手を差し出す。
その手を握り返す。「私もよ」
「今回はキスはなしね」
「残念だわ、覚悟していたのに」
二人で笑い合い、グウェンは部屋を出ていった。
イラールに手伝われて着替える。彼女は自分の役割を忠実に守り、終始一言も発しなかった。誰にも何も言わないと約束してくれている。女性同士の同盟というものは、私が考えている以上に深刻なことなのかもしれない。
病院で着ていたチュニックを身につける。これなら粘土の欠片を入れるポケットもある。しまう前に、一度目を落として確認する。
文字は何もない。その小さな粘土板には、ハートが一つ刻まれているだけだった。
粘土に刻まれたハートに口づける。
マリクは私にハートを一つ届けるためだけに、ここまでのことをしたのだ。




