第95話 糸を切らずに勝つ
黒い波が礼拝堂前を走った。
兵士たちの糸が一斉に軋む。
「伏せて!」
俺は銀赤へ手を伸ばす。
カイの手が重なった。
「何をする」
「切らせない」
「命は使うな」
「使わない」
前みたいに俺が結び直すんじゃない。
本人が残したいものを、自分で掴めるようにする。
最初の黒波は、家族や友人の顔を薄くする。
「名前を言って!」
俺は叫んだ。
「帰りたい場所でも、明日食べたいものでもいい。自分で残したいものを口にして!」
「妻……」
一人の兵士が呻く。
「名前は?」
「リナ」
「呼んで」
「リナ!」
金糸が光る。
隣の兵士も叫ぶ。
「息子、オスカー!」
「母さん!」
「家の犬!」
「明日の朝飯!」
最後の一つに、こんな時なのに笑いそうになった。
「それでいい!」
第一の黒波が押し返される。
光は一人から一人へ飛び火した。
金だけじゃない。青。赤。名前のつけられない薄い色。
命令に従うため並べられていた兵士たちが、それぞれ別の誰かの名前を叫ぶたび、整然としていた黒波が崩れていく。
俺は一瞬、笑いそうになった。
こんなにばらばらだから、切れない。
家族も、恋人も、犬も、朝飯も。
人間を一つの理念に揃えようとする術式の方が、最初から負けていた。
ゲオルクが術具の第二環を回した。
今度は違う。
“命令に背けば家族が死ぬ”。
兵士たちに植え付けられた恐怖だけが増幅する。
俺の膝が沈んだ。
広すぎる。
一人ずつ拾おうとしても間に合わない。
「ノア」
カイの声。
「俺を使え」
「燃料にはしない」
「知っている。足場にしろ」
銀赤へ意識を合わせる。
カイとの糸で、自分の位置を固定する。
守られているからじゃない。
ここへ戻れば俺が俺だと分かるから。
そこから兵士一人ひとりの“本人の声”だけを拾う。
若い兵士が黒波に飲まれかけた。
胸の青糸がほとんど消える。
「あなたの名前は!」
「……番号、三十二」
「違う!」
俺も声が裂ける。
「あなたの名前!」
青年の目が大きく開いた。
「トーマス」
「もう一回!」
「トーマス・レインだ!」
色が戻った。
一人。
その一人から、隣へ。
人間の名前が、黒い波を押し返していく。
ゲオルクが術具を最大まで開いた。
「国は個人の感情で守れん!」
カイが走る。
矢が三本。
一歩目で一本を剣の腹で弾く。
二歩目で二本目を避ける。
三本目は外套を裂いた。
止まらない。
北境で八年生き残った男の足運びは、雪の上でも乱れない。
ゲオルクの護衛が二人入る。
一人の剣を手首ごと外へ流し、柄で顎を打つ。
もう一人の槍を踏み、折れた柄を逆に盾にする。
殺さない。
それでも速い。
「カイ!」
俺が術具の核を指す。
黒波の中心、銀色の一点。
「右下!」
「ああ」
一閃。
術具が割れた。
黒い波が途切れる。
ゲオルクが後ろへ倒れ、カイの膝がその腕を地面へ固定した。
「終わりだ」
「なぜ……切れない」
老将が兵士たちを見て呟く。
俺は息を整えながら答えた。
「俺が結んだからじゃない」
胸が痛い。でも命は削れていない。
「本人たちが、残す方を選んだから」
初めてだった。
誰の糸も切らず。
誰の命も燃やさず。
それでも断糸装置に勝った。
銀赤に新しい結び目ができる。
恋人になった記憶でも、キスの記憶でもない。
二人で、他人の選択を奪わせなかった記憶。
「ノア」
振り向く。
カイが黒剣についた雪を一度だけ払った。
「今の感覚、覚えておけ」
「報告書なら細かく――」
「紙じゃない」
灰色の目がまっすぐ俺を見る。
「お前がやった」
胸の奥に、その言葉が落ちた。
俺は呼吸を整え、まだ震えている自分の手を見る。
「……うん。覚えておく」
掌にはまだ、何十人分もの糸の震えが残っていた。
誰一人、俺の命令で結び直したわけじゃない。
それなのに黒い環は、足元で完全に止まっていた。




