第94話 英雄をやめる
ゲオルク・ハインツ。
七十近い。北境戦争当時の参謀本部幹部。
カイは剣を抜いたまま、一歩だけ前へ出た。
「兄を殺したのはお前か」
「直接ではない」
「答えになっていない」
「ユリウスは余計な正義感を持った。研究を公表すると言い出した」
冷たい風が礼拝堂を抜ける。
「敵軍の術式攻撃位置を、彼にだけ誤って伝えた」
音が消えた気がした。
次に見えた時、カイの剣先はゲオルクの喉へ届いていた。
皮膚が薄く切れ、血が一滴落ちる。
「団長!」
兵士が弓を引く。
カイは見もしない。
「殺さないのか」
ゲオルクが笑った。
「殺したい」
カイは否定しなかった。
「今すぐ」
剣を持つ手が震えている。
「だが兄なら、裁判に出せと言う」
「英雄らしくなったな」
「違う」
カイの声が低くなる。
「英雄をやめたから、俺が気持ちよくなるためにお前を斬らない」
ゲオルクの笑みが消えた。
「戦争を終わらせるには必要だった」
「兄一人で戦争が伸びたと?」
「研究が公になれば軍は割れた。兵器開発も止まる。前線は持たなかった」
「だから殺した」
「必要な犠牲だ」
その言葉で、周囲の兵士の糸が一斉に張った。
恐怖。
服従。
そして、自分もいつか“必要”に分類されるかもしれないという理解。
俺はゲオルクを見る。
彼自身にも金の糸が一本ある。
王都へ伸びている。
「あなたにも家族がいるんですね」
眉が動いた。
「黙れ」
「守りたい人がいるのに、他人の家族は必要な犠牲?」
「国を守ったこともない若造が!」
怒鳴られて身体がすくむ。
怖い。
それでも、言葉は出た。
「国って、人がいないとただの土地でしょ」
ゲオルクが兵へ手を上げる。
「射て」
弦が軋む。
俺は兵士たちの方を見る。
「命令書を見せてください」
「何?」
「誰の署名で、誰を守るための命令なのか。自分で見て」
「射て!」
一人の兵士の腕が下がった。
「娘がいるんです」
掠れた声。
二人目も弓を下げる。
ゲオルクの顔が歪んだ。
「臆病者ども!」
彼が胸元から黒い術具を引き抜いた。
見覚えのある形。
教団の断糸装置を、小型化したものだった。
「なら、お前たちから切ってやる」
黒い環が回り始めた。




