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第93話 零番

礼拝堂の地下室には、棺より重要なものが残っていた。


 RETURN-000。


 原始糸核による最初の成功例。


 身体再構成後、自我安定。

 記憶保持率九十二パーセント。


「成功してる」


 リヒトが紙を両手で持つ。


「母は、生きてる」


「可能性は高い」


 最後の記録日は三ヶ月前。


 近い。


「管理者は?」


 頁をめくる。


 ゲオルク・ハインツ。


 旧軍病院の予算表と同じ名。


 カイが地図を広げた。


「王都の人間だ」


 リヒトの顔が青ざめる。


「母は三十年、王国に使われてた?」


 答えは、次の資料にあった。


 エレナ本人の筆跡。


『私は死んだのか、生き延びたのか。定義は後でいい。まず息子を探す』


 リヒトの指がその文字をなぞる。


「母さんの字だ」


 次の頁。


『リヒトの残留縁を確認。エドガーが保持。接触を拒否される』


「父が?」


 さらに読む。


『エドガーは私の再構成を確認した。それでも私をエレナとは呼ばず、零番と呼んだ。彼はもう夫ではない』


 リヒトが息を止めた。


「父は、あとで母さんが残ってると知ってた?」


「ああ」


 俺はページの日付を指す。


「少なくとも、この時点では」


 胸の奥が冷えた。


 エドガーは“戻したかった”はずなのに、戻ってきた妻を妻と呼ばなかった。


 紙の上の《零番》という二文字だけが、ひどく黒く見えた。


 リヒトが次の頁をめくる指に力を込めた。


「続き、読む」


 記録はさらに続く。


 エレナは何度も脱出を試み、そのたび施設を移されていた。記憶処理の記録まである。


 それでも最後の一文だけは何度も書き直されている。


『息子の名を忘れた日は、私が私でなくなる日だ』


 リヒトが紙を胸へ押し当てた。


「母さんも、僕を探してた」


「うん」


 泣いてはいない。


 でも透明な糸が、胸の奥で震えている。


 その時、地下室の扉が閉まった。


 外から鍵。


 隙間から煙が流れ込む。


「また燃やす気?」


「記録を持て」


 カイが剣を抜く。


「今度は壊す前に言って」


「下がれ」


「それ、言っただけ」


 一撃。


 扉が吹き飛んだ。


 外気と一緒に、十数本の矢が向けられる。


 王国軍。


 その中央に白髪の老将が立っていた。


「カイ・ヴァルクハイト」


 カイの目が細くなる。


「ゲオルク・ハインツ」


「私の名を覚えていたか」


「兄の告発書に何度も出てきた」


 老将の目が一瞬だけ揺れた。


 リヒトが前へ出る。


「エレナ・セインはどこだ」


「零番を母と呼ぶな」


 ゲオルクは、人間を見る目をしなかった。


「あれは王国が所有する研究成果だ」


 リヒトの顔から血の気が消えた。


 俺には、兵士たちの青い糸が激しく揺れるのが見えた。


 この命令を、全員が信じているわけじゃない。


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