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第74話 死者の海

 洞窟の奥は広かった。


 そして、床が見えなかった。


 白い糸。


 何千、何万。


 絡まり合って、海みたいに揺れている。


「これ全部……」


「死者の残留縁」


 リヒトの声も低い。


 中心に巨大な結晶。


 透明。

 中で無数の色が瞬く。


「原始糸核」


 近づくと声が聞こえた。


 母さん。

 帰りたい。

 痛い。

 ごめん。

 愛してる。


 死者たちの最後の思い。


 耳を塞いでも聞こえる。


「ノア!」


 カイが俺の顔を両手で挟む。


「俺を見ろ」


 灰色の目。


 音が遠くなる。


「戻った?」


「うん」


「触るな」


「でも核が必要」


「別の方法を探す」


「時間ない」


「お前を壊してまで兄を残したくない」


 その言葉に、カイ自身が傷ついた顔をした。


 俺は手を重ねる。


「壊れない方法を探そう」


 リヒトが結晶へ近づく。


「僕が取る」


「あなたなら平気?」


「死んでるからね」


 笑う。


 でも彼の透明な糸が震えている。


 怖いんだ。


 その時、糸の海の底で何かが形を取った。


 白い指。

 手首。

 無数の手の形が、水面の下からこちらを探るように浮かんでは消える。


「動くな」


 カイが低く言った。


 まだ届いてはいない。けれど、死者の海は俺たちが来たことに気づいていた。


 死者の海で聞こえた声の中に、子供の声もあった。


 戦場で死んだ兵士だけじゃない。

 避難民、治療師、輸送隊。


 戦争は剣を持った人間だけを殺さない。


 俺が一歩下がると、踵が白糸に触れた。


 瞬間、女の記憶が来る。


 赤ん坊を抱いて走る。

 雪。

 後ろから爆発。


 俺は息を呑んだ。


 カイがすぐに引き離す。


「見たか」


「うん」


「何を」


「……あとで話す」


 今言ったら声が壊れそうだった。


 カイは追及しない。


 代わりに俺の手袋を直した。


 小さな仕草。


 死者が何万人いても、今ここで触れられるのは一人だけ。


 その現実が、俺を戻してくれる。


 死者の海は、目を逸らしても視界の端へ入り込む。


 一本一本に人生があると思うと、数の多さが急に暴力になる。


「全部救うのは無理だ」


 カイが言った。


「分かってる」


「分かっている顔じゃない」


「……ちょっと思っただけ」


「全部背負うな」


「あなたに言われたくない」


 互いに黙る。


 それから二人とも少し笑った。


「じゃあ半分ずつ?」


「違う。背負わない方法を探す」


 その答えの方が正しい。


 俺は深く息を吸って、何万人ではなく“今触る一本”だけを見ることにした。

 俺は一度だけ目を閉じた。暗くすれば糸が消えるわけじゃない。それでも、目蓋の裏に自分の呼吸を戻せる。


「五つ数える」


 カイが言った。


「何それ」


「お前が王都で教えた」


 吸う。吐く。五つ。


 再び目を開けると、海はまだそこにある。でも“全部”ではなく、近い数本を区別できた。幼い子を思う母の糸。帰還命令を待つ兵士の糸。名前を呼ばれたがっている誰かの糸。


 人間は数になった瞬間、扱いやすくなる。だからこそ俺は一本ずつ見る。遅くても、効率が悪くても。


 その時、白い海の底で一箇所だけ黒い脈動が走った。


「中心がある」


 俺が指すより早く、無数の手がリヒトへ向かった。


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