雪峡
北へ進むほど雪が深くなった。
馬を降り、徒歩になる。
「寒い」
「着込めと言った」
「着込んでる」
カイが自分の外套を外す。
「いいって」
「着ろ」
「あなた寒いでしょ」
「平気だ」
「禁止ワード」
俺は外套を押し返した。
「半分」
「どうやって」
「こう」
二人で肩にかける。
歩きにくい。
「馬鹿だな」
「そっちが渡すから」
「でも暖かい」
「……まあね」
後ろのマティアスがまた遠くを見る。
午後、峡谷に入った。
白い糸が雪の下から何百本も出ている。
「全部死者?」
「戦争の時、ここで大規模な崩落があった」
カイが低く言った。
「兄が死んだ戦いの三日前だ」
「関係ある?」
「分からない」
リヒトが先を指す。
「あそこ」
雪壁の奥に黒い穴。
洞窟へ入る。
透明な糸が一気に太くなる。
胸が痛い。
「ノア?」
「大丈夫」
言ってから自分で止まる。
「……今のは本当に」
「信用しない」
「厳しい」
カイが手を取る。
銀赤が光る。
痛みが少し引いた。
洞窟の奥で、何かが脈打っている。
心臓みたいに。
雪峡への道中、カイは土地の名前をほとんど全部知っていた。
「あの尾根の向こうに旧補給路」
「地図なくても分かる?」
「八年いた」
「嫌いなのに覚えてるんだ」
「嫌いだから忘れるとは限らない」
エドガーを思い出す。
忘れたいのに忘れられない。
切れば消えるわけじゃない。
途中、焼けた見張り塔で休んだ。
壁に兵士の落書き。
『帰ったら結婚する』
『酒を奢れ』
『生きろ』
最後の文字だけ、誰が書いたか分からない。
カイが指でなぞる。
「こういうの、戦争中多かった?」
「ああ」
「あなたは何か書いた?」
「書かなかった」
「今なら?」
少し考えて。
「帰る」
俺は笑った。
「俺も」
途中の避難小屋で、古い毛布と薪を見つけた。壁には北境軍の補給印が残っている。
カイが慣れた手つきで火を起こす。
「できるんだ」
「戦場に八年いた」
「料理はできないのに」
「火と鍋は別だ」
「同じ火使うけど」
マティアスが笑いを堪えた。
小屋の隅には誰かが残した木彫りの鳥があった。片翼だけ未完成。
俺が触れると、薄い白糸が山の向こうへ伸びる。
白糸は山の向こうで細く震えた。
風が止むと、谷は妙に静かだった。地図には何もない場所なのに、糸だけが先へ続いている。




